2002

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ルネッサンス ジェネレーション '02

[ メモリ・イン・モーション 未来記憶 ]

会期:2002年11月23日(土/祝)
会場:草月ホール

*終了しました。


「メモリ・イン・モーション 未来記憶」とは

私たちは皆、深い霧の中をひとり歩いているようなものだと思うのです。歩むにつれて景色は視界の背後に消え去り、進む方向も朧げで定かではない。言うまでもなく、歩みとは意識の時間のこと、視界は知覚、そして霧は記憶と予期の限界の謂いです。

古来、時間とは天体の周期運動に伴う循環的な何かであり、これに起点と終点を持つ直線的イメージを与えたのは、キリスト教の教義でした。ただし中世世界における時間は、当時昼と夜が季節に関わらずそれぞれ12時間だったことからわかるように、「均質」ではありませんでした。刻々と等速で刻み循環しながらも前へ進む、いわゆる現在の「時間」という概念が成立したのは、時計が日常生活に浸透していった14世紀のことです。このように、現代人が常識的に持つ「時間」のイメージは歴史的には案外新しいのです。

「飛ぶ矢」や「アキレスと亀」など、哲学上有名なパラドックスを考えるときも、この時計の時間が私たちの思考に影を落とします。「時計の時間」が、私たちの記憶と歴史も大きく変えたと考えられます。

そもそも、時間は「流れている」のでしょうか。常に同じ速さで進むのでしょうか。逆転しないのでしょうか。しないとすれば何故。時間に「速さ」は不可欠なのでしょうか。それとも、「今」と呼ばれる瞬間が、ただ現在から過去へと移ろいゆくことが、時間なのでしょうか。では、その「今」は知覚とどう関係し、「過去」は記憶とどう関係するのでしょうか。記憶は一種類でしょうか。複数あるのなら、そのどれが時間のどの側面と関係するのでしょうか。また、意識の途絶で止まる時間と、客観的な物理学の時間とは、どのような関係にあるのでしょうか。

心理学者は簡単に「時間知覚」と言います。けれども、光や音や痛みの知覚とちがい、時間の知覚には、目や耳のような生理学的に確認された「感覚受容器(リセプタ)」がありません。時間経験は、厳密には知覚ですらないのです。一方物理学者は、たとえば熱力学の法則(エントロピーの増加)など、時間を単独に定義できるいくつかの「矢」を発見しました。しかしそれらの「矢」相互の関係や、あるいはもうひとつの「意識の時間」という「矢」との関係は、ほとんど解明されていません。

聖アウグスティヌスは、次のように述べたといいます。「それでは時間とは何か。誰も私に問わなければ、私はそれを知っている。誰か問う者に説明しようとすれば、私は知らないのである」。同じようなことが、時間を背後で支えている知覚や記憶にも、言えそうです。宇宙論、熱力学、脳科学、心理学、哲学。……今持てる叡智をふりしぼって霧を振払ったとき、そこに見えてくるのは、果たしてどのような地形なのでしょうか。秋の半日、日々の喧噪から離れ、「時間」と「記憶」を巡る原風景のパノラマにお付き合いください。

監修者:下條信輔・タナカノリユキ

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