軽い原子とα粒子の衝突
1919年
アーネスト・ラザフォード(1871-1937)
 アーネスト・ラザフォードは1919年に至るまでに、すでに多大の業績を核物理学の分野において挙げていましたが、彼は研究を放射線の性質に関する研究をもって始めたのでした。そうして、キュリーが行ったのと同様に、放射線を正に荷電したものと負に荷電したものとに区別し、それぞれをアルファー線とベータ線と名付けました。それとは別に第三の種類の放射線、磁場の影響を受けないものが、1900年ヴィラールによって発見されていましたが、ラザフォードはこれは可視光線の波長の百万分の一も小さい電磁波であることを直ちに確かめたのです。
 更にまたアルファー粒子の大きさはベータ粒子の7000倍も大きいことを確かめ、1903年アルファー粒子はヘリウムの原子核から成っていることを証明しました。
 1902年からラザフォートはソディの協力を得て放射性崩壊(壊変)現象を研究しました。ソディーはラザフォードの弟子であり、後にアイソトープの発見者となったのです。この二人は既知の放射性元素の放射能がもとの半分になる時間を測定しました。これを「半減期」と命名しましたが、壊変速度は元素によって短いものは数十分の1秒から長いものは数百万年といったように違っています。このようにして、放射性元素は放射線を出して壊変して他の元素に変わって行き、最後は鉛のような安定元素になって、もはや放射性ではなくなってしまうのです。二人は放射性原子核の崩壊すること、すなわち放射性壊変に二つの系列があることを発見しました。
 すなわちウランから出発する系統とトリウムから出発する系列であり、その両方の壊変過程を明らかにしたのです。1908年、ラザフォードはこれらすべての業績によってノーベル賞を受けました。
 更にラザフォードはアルファー粒子の研究を続け、アルファー線を金箔の中に打ちこむと、粒子の散乱が起きることを見出しました。ほとんどすべてのアルファー粒子は曲がらないでまっすぐに金箔を通り抜けるのですが二万個に一個の割合で少数の粒子はそのコースを著しく変え、または強く反発されることがあります。ラザフォードはこれは、原子中には正の電荷を持つ質量の大きな粒子があって、それに正の電荷を持つアルファー粒子が近づく時の反発であると推測し、1911年に原子構造の模型を作りました。それは、原子核のまわりを軽い電子が廻っていて、原子核が原子の質量のほとんど大部分を占めるというもでした。そうして遂に、ラザフォードは窒素の原子にアルファー粒子を照射して、窒素から水素原子の核 (プロトン) を遊離させるのに成功したのです。この報告が本論文です。ラザフォードは放射線壊変の理論とその原子模型を確立したのみでなく、歴史上初めて元素の人工的変換に成功したのでした。これは核分裂への大きな第一歩でありました。