非常に速い電気的振動について
1887年
ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ(1857-1894)
 ヘルツは文化的な雰囲気に満ちた裕福なユダヤ系の家系に生まれ、技術者となることを目指していました。高等学校を終えるとフランクフルトへ行き、その建設局で働いて、実地の技術経験を積むと共に、技術者の国家試験受験の為の勉強をしていましたが、その後、ミュンヘン工科大学で更に学ぶために、ミュンヘンにやって来ました。ところが、彼は工学と同様、純粋科学にも興味を持っていたので、その両者を並行して学ぶうちに、工科大学に進むより総合大学のミュンヘン大学に進んで、学術研究をしたいと考える様になりました。父親の許可を得て、彼はミュンヘン大学に入学し、初め数学を学び、彼の優れた数学的才能を開花させましたが、一方で彼は物理学に強くひかれ、数学的問題に対しては物理学的問題が関係する限りに於いて興味を示すようになりました。ミュンヘン大学は設備の良く整った物理実験室を持っており、彼は集中して数学を勉強した後は特に、様々な実験を行う事に満足を感じていました。この双方の局面は彼の生涯を通じての研究パターンを支配し、彼の研究論文は常に極めて理論的な傾向のものか、そうでなければ、極めて実証的なものかで、研究によってこのどちらかの傾向が強くあらわれています。彼は他大学への遊学を強く希望し、教師のすすめによって、ベルリン大学へ行き、そこでヘルムホルツと運命的な出合いをします。ヘルムホルツはヘルツの才能を見抜き、彼の為に、マクスウェルの電磁理論の決定的な局面を実験的に証明する研究課題を設定し、彼にそれを学位論文研究として行う様にすすめたのでした。ヘルツはその結果を出すには三年位かかると判断し、ため息をついてその実験を断り、かわりに僅か三ケ月で伝導体の回転に於ける電磁誘導に関する徹底した、しかし純粋に理論的な研究を仕上げて、提出し、優等をもって卒業しました。このヘルムホルツによって示唆された電磁気学の研究が、ヘルツに技術上最大の発見のひとつをもたらす事になったのでした。ヘルムホルツの助手として三年間過ごした後、彼は大学に於ける学者としてのキャリアを積むため、キール大学の私講師になります。不運なことにキール大学は物理実験室を持っておらず、従ってこの間の研究は理論研究でしたが、その内のひとつはマクスウェルの電磁方程式に関するもので、実験から遠ざかっていただけに、それは極めて深い理論的労作でこの理論的深まりは、彼の研究に非常に役立ちました。1885年にキール大学は彼に助教授のポストを提供しますが、彼はこれを断り、カールスルーエ工科大学へ移ります。キール大学で彼の後をついだマックス・プランクとは違って、彼は実験を要しない理論物理学のポストはまっぴらだったのです。カールスルーエの整った実験室で彼はかつてヘルムホルツが提案した問題を研究することにし、そこで過ごした四年間のうちにその研究を完成させました。この研究こそマクスウェルが理論的に予想した電磁波の存在と、マクスウェルが明らかにしていなかったその空中伝播を実験的に実証したものだったのです。ヘルツはリング状の開回路の両端にとりつけた二本の金属棒の間に小さな隙間を設け、そこへスパークを飛ばし、部屋の離れた処に置いた、もうひとつの同じ形の装置の金属棒の隙間にも同時にスパークが飛ぶことを見出した(即ち電波を受信した)のです。表記の論文は、この発見の一連の論文のうちの最初のもので、未だ電波を受信するには至っていませんが、しかし、紫外線をあてることによってスパークは強まること-光電効果の存在を明らかにしています。ヘルツはこうして電波を発見しましたが、敗血症のために、彼の発見を用いた初めての実用無線通信、マルコーニの発明と実用化(1896年) を見ることなく、37才になる前に亡くなったのでした。