力学、その発達
1883年
エルンスト・マッハ(1838-1916)
 マッハは、大変多くの自然科学の分野で研究をした人ですが、現在彼の名が最も良く知られているのは、音速を表す単位、マッハ・ナンバー(マッハ1=音速)にその名が用いられているからです。彼は1873年から93年までの20年間、プラハで物体が音速で空中を動く時に生ずる衝撃波、すなわち一般に流体中を移動する物体の速度が音速を越えた時、その物体にとっての流体の性質が変化すること、についての研究を当時最新の技法だった写真撮影を用いて行い、1887年にその結果を公表したのです。この研究がなければ超音速ジェット機の開発は随分遅れたことでしょう。しかし、彼の真価はこうした物理学的研究そのものにではなく、広い分野での研究経験をもとにした自然科学全体のあり方についての考察、科学的考え方の批判的研究にありました。つまり彼は近代的な科学哲学を創始したのです。
 彼の科学哲学は当時広く受け容れられた訳ではありませんが、多くの科学者に、例えばアインシュタイン等に影響を与え、その相対性理論にはマッハに負うところが多くあるのです。(もっともマッハ自身はこの相対性理論を終生認めなかったのですが。)彼の哲学は現代の科学哲学に於いても、その価値を失わない面が多くあり、例えば素粒子論などの局面では重要にさえなっています。
 彼は最初、実験心理学者として出発し、様々な聴覚や視覚などの感覚・知覚の実験的研究を行いました。この経験が彼の科学哲学の基本を形づくった様で、マッハによれば、認識は感覚を通じてのみ与えられるので、感覚によって捉えられないものの実在を確証する手段はなく、(この限りで彼は全くカント哲学に属します)従って、「物理学研究によって提出された様々の自然法則は、そのまま真の実在をあらわすものではない」と言うのです。つまり、法則は総て感覚を通じて知られた様々の観察結果を、その因果関係の説明がうまく出来る様に帰納したもの以上ではないのです。現代的に言えば、シミュレーションの為のモデルの様なもの、ということになるでしょうか。例えば、エネルギー保存則は、マックス・プランクにとっては、それは実在するものでしたが、マッハにとっては、それは単なる「定義」にしかすぎず、この事から両者の間には激しい論争が持ち上がりましたし、またマッハは原子論を全く認めなかったのです。
 彼はこの様な哲学的立場から、一度古典力学から最新の力学までの発展過程を、批判的に調べなおす必要を感じてそれを実行しました。本書がその研究結果で、彼の力学史の再解釈のうちに、上に述べた彼の立場が鮮明にあらわれています。本書を見ますと、彼はラテン、ギリシャ、フランス、イタリア、英語に通じていて、古典から現代にわたり原著論文にあたって調べていることが判りますし、また広範囲にわたる二次資料にも通じていたことが判り、その博識ぶりに驚かされます。彼は本書の中でニュートンを多様な観察の中から要素を抽出する想像力に満ちた把握力と、その本質的要素を一般化する優れた力の二つ、科学者を偉大にする二つの力を兼ね備えていると言って賞賛しています。彼は尊敬をもって、プリンキピアを分析していますが、しかし、ニュートンの絶対時間、絶対空間を批判し、その様な実在はなく、時間とは単に遅い運動と速い運動との比較にすぎず、どれかを基準単位にして時間を計測しているにすぎないとし、空間についても、そこに存在しているものの量と分布によって決定される概念にしかすぎないと主張しています。この後者の空間に関する定義が「マッハの原理」と呼ばれるもので、アインシュタインに大きな影響を与えたのでした。マッハはグラーツ大学、プラハ大学、母校ウィーン大学等の教授を歴任した後、1901年に脳卒中に襲われて引退しました。