無限の逆説
1851年
ベルンハルト・ボルツァーノ(1781-1848)
 ボルツァーノはチェコスロヴァキアの哲学者、数学者、論理学者で、宗教家です。彼の名がイタリア系であるのは、彼の父親がイタリア人で、チェコ(当時のボヘミア)に移民したからです。1796年、プラハ大学に入学し、哲学、数学、力学、を学びその課程を終えて、1800年には神学部へ進みました。彼はヴォルフ、ライプニッツ、デカルトの哲学と数学に興味を覚え、それを研究しています。
 当時、チェコを支配していたオーストリア皇帝フランツI世はフランス革命によってもたらされた啓蒙思想がボヘミアに広がるのを恐れて、その防壁とすべく、ブラハ大学に宗教哲学の講座を新設することにし、1805年、熱心なカソリック修道士であったボルツァーノをその教授に任命したのです。しかし、自然科学研究者として、彼はやはり精神に於いて啓蒙主義者だったので、ウィーンの宮廷の疑念を呼び、任命が承認されたのは1807年のことでした。ボルツァーノの講義と研究は評判となり、1815年には、ボヘミア王立学会会員となり、1816年にはプラハ大学の哲学部長となりましたが、ウィーンの宮廷は遂に1819年に彼を啓蒙主義者として解任してしまいました。彼はその後も数学と哲学の研究を続け、一時南ボヘミアに隠棲しましたが、1842年にプラハに戻り、そこで没しました。
 19世紀前半のヨーロッパ数学界は、二つの主要な問題をめぐって様々な研究や論議が行われていました。そのひとつはユークリッド幾何学の平行線の公理の自明性の説明で、もうひとつは無限の概念の問題です。ボルツァーノは1804年以来、この前者を研究しましたが、平行線理論を研究したルジャンドルやシュヴァイカルトの業績は良く知っていたようですが、この問題にけりをつけ、非ユークリッド幾何学を創造したロバチェフスキーやボーヤイ( ボーヤイの業績は1832年にハンガリーで出版されています) の業績は知らなかったようです。いずれにせよ、この方面の彼の研究は徹底しませんでしたが、その研究の過程で、例えばこれもユークリッドの「閉じた曲線は平面を二つの部分を分割する」という自明の公理の証明を要求し、不成功に終わったとはいえ、種々の試みを行った事は、現在「ジョーダンの曲線定理」と呼ばれるこの証明を導き出す試みであることになり、ボルツァーノは、現在トポロジーと呼ばれる分野の基礎を開いたと言えるのです。
 更に彼は、1815年以降は、ニュートン、ライプニッツにより提示された“無限小"" の概念すなわち関数論を研究し、1817年には「ボルツァーノの定理」を発見し、また後に「ボルツァーノ= ワイエルストラウスの定理」を発見しています。本書は彼の無限についての研究を最初にまとめて出版した書物です。