化学と鉱物学における吹管の使い方について
1820年
イェンス・ヤコブ・ベルツェリウス(1779-1848)
 ベルセリウスは19世紀前半に於ける最も影響力の大きかった化学者でした。はじめ医学を志望し、若い頃孤児になったので、大学教育を続けるのに非常な苦労をしましたが、ともかく、1802年に医学の学位を取ってウプサラ大学を卒業しました。しかし、在学中から彼の学問的関心は化学の方へ移り、学位論文のテーマも、ヴォルタの電堆の医学的使用というもので、彼が終生持ちつづけた電気化学への関心が既にこの頃にあらわれています。卒業後は、ストックホルムの外科学校の無給助手になり、家賃を節約する為に住み込んだ鉱山主でアマチュア化学実験家のヒージンガーと共同で、病院勤務の余暇に化学研究を始め、様々な鉱物の分析をしました。1803年にセリウムを化合物の形で分離し、発見しています。
 1807年に彼は外科学校の化学教授に任命され、医学を全くやめて化学研究に専念する様になりました。この頃ドルトンの原子論と元素の原子量を決定する試みに関する論文を読んで感銘を受け、各種元素の原子量決定を研究し、この分野で最大の功績を上げました。彼は定量分析実験の大家であり、当時知られていた43の元素の原子量を決定する為、 2,000以上のそれらの化合物の分析を飽く事なく繰り返し、原子量、分子量のリストを作りました。この表にある価は、現在確定されている価と比較してかなり正確なものでしたが、時折かけ離れたものもあります。これは、ベルセリウスがアヴォガドロの仮説を無視した為、原子と分子の区別が時に不正確だった為でした。しかし、彼は原子量決定に非常な貢献をしたのでした。更に彼は今日用いられている化学記号とその表記法を確立した事でも有名です。化学記号のアイデアはドルトンも示していたのですが、ドルトンの記号は丸や二重丸等の図形によるものだった為に不便で、元素の名前のアルファベット頭文字を記号に採用したベルセリウスの方がはるかに優れてシステマティックなものでした。また、元素が化合するのはその電気の極性によると考え、例えば酸素はマイナス、水素はプラスとし、それによって酸素と水素は結合し、水をつくるとしました。しかし、プラスの水素原子が2個結合する訳はないと考え、水の場合の水素は、通常の水素の倍の大きさの原子としています。ここにも、分子と原子の混同が見られます。彼のこの様な考えは後に否定されますが、しかし、電気的な力が原子間に働いているということを洞察した点では正しかったのでした。
 彼はまた初期に経験した鉱物の化学分析に対する興味を持ちつづけ、鉱物の組成を一定数の酸化物の単純な割合による結合と見なすという現在でも鉱物学、岩石学で用いられているやり方を考え出しました。彼は鉱物の分析によって吹管を使ってアルコールランプの炎を、炭のくぼみに入れた鉱物とソーダに吹き込み、変化を起こさせ、その変化によって鉱物の組成を判断する乾式分析を好みました。本書はその様な実験における吹管使用の方法と多くの分析例について述べています。ベルセリウスは1830年代には化学の最高権威と目される様になり、多くの若手学者が彼のもとで、或いは彼の著書で学び、彼は19世紀前半の最大の化学教師と言われています。