異種の導体の単なる接触により起る電気
1800年
アレッサンドロ・ジュゼッペ・アントニオ・ヴォルタ(1745-1827)
 1980年代に、ヴォルタは富裕で宗教的な家庭に生まれ、父の死後おじによって、最初ジェスイット派の学校に入り、1761年再びおじの方針に従ってベンツィの修道院の学校に転じました。この学校で彼はルクレチウスの自然学の書物「事物の本質」にいたく興味をひかれ、同じ頃、プリーストリーの「電気学の歴史」を読んで電気に対する興味を持ちました。彼は当時の指導的電気学者、ノレやベッカリーアに質問の手紙をしょっちゅう出し、ベッカリーアはこれに親切に答え、彼の著書を読む事と実験を行うことを勧めました。ヴォルタはこの様にして電気学を学び、1774年にはコモのギムナジウム(高等学校)の物理学教授になり、翌年強力な起電機-電荷集積機を発明し、プリーストリーに手紙で知らせています。この発明が評判となり、1787年、ヴォルタはパヴィア大学の物理学教授となったのでした。
 当時、ボローニャ科学大学の解剖学の教授だったガルヴァーニは切断した蛙の脚に、二つの異った金属を同時に触れさせるとけいれんすることを発見しました。彼はこの現象を研究し、けいれんを起すのは蛙の体には、デンキウナギと同じような生理的電気が存在し、これが放電するためであると結論して、ガルヴァーニはこの生命力を「動物電気」と呼びました。ヴォルタは最初ガルヴァーニの理論を受け入れましたが、1792年頃から懐疑的になって来ました。その頃、ヴォルタはイギリス王立協会誌に発表した論文で、ガルヴァーニ理論への信頼を表明しつつも、同時に「動物の湿っている体に取り付けられた二種の金属、それ自体が電気を発生させることが出来る。だから、動物の器官は受動的に反応しているのにすぎない」と述べ、1793年にはガルヴァーニ理論を捨て去ってしまいました。彼ははっきりと電気は蛙の脚に固有のものでなく、二種の異なった金属が蛙の体液によって接触して電気が生じるのだとし、蛙のけいれんはそれが検電器の役目をしたにすぎないものだと主張したのでした。この事はガルヴァーニとの間に激しい論争をまき起こしたのです。しかし、1795年にヴォルタは銀と亜鉛の板を塩水をしめらせた紙の間にはさむと、二つの金属の間に電気が発生することを示して、自説を確かめ、ガルヴァーニ理論を葬ってしまいました。そして、この二つの金属の板の対を多数積み重ねた「堆」(パイル)を作ることによって、更に強い電流を取り出すことに成功したのです。このようにしてヴォルタは、電堆すなわち最初の蓄電池を発明したのでした。さらに彼はこの電堆に改良を加えて、いわゆる「ガルヴァーニ電池」を作りました。それは、塩水または薄められた酸を入れたガラス容器を並べ、それぞれを、半分が亜鉛、のこり半分が銅からできている曲がった細長い金属片で連結したものでした。この発見と考案の最初の報告は、ヴォルタが王立協会の会長ジョージ・バンクスに送った手紙の中に、フランス語で書かれていたものであり、これがこの論文の主題となったのです。
 電流を連続して取り出し調整できる電池を発見したことにより、ヴォルタは電気の理論と応用面に革命をもたらしたのでした。例えば、ニコルソンはヴォルタの電堆を用いて水を酸素と水素に分解するのに成功しましたし、デーヴィ卿は同じく、酸化カリウムからカリウムを、炭酸ナトリウムを分離して、金属の電解に成功したのです。このようにヴォルタの電堆は電磁石や電熱や、アークを作るに至るみちすじに行われた各種の実験を可能にし、いわゆる電気時代の始まりを告げた画期的業績でありました。「ヴォルト」というのは電圧をあらわす単位ですが、これはヴォルタの発見を記念するため、その名前を取って名付けられたものなのです。