流体力学
1738年
ダニエル・ベルヌーイ(1700-1782)
 科学史におけるベルヌーイ家は、音楽史に於けるバッハ家の様なものだ、と歴史家シュテーリヒは述べています。ダニエルの曾祖父の代にアムステルダムからスイスのバーゼルへ移った一家は、裕福な商家となりましたが、彼の父;ヨーハンIとその父、ヤーコブIは共に傑出した科学者で、ライプニッツの微積分学を完成し、ヨーロッパに広めた人たちでした。ベルヌーイ一家は、その他、ニコラスI、II、ヨーハンII、IIIやヤーコブII等の科学者を輩出し、フランスと並んで、スイスを数学の首導国とし、変分法、確率論の確立に尽くし、また数学を種々の物理的な問題に適用する事を促進したのです。
 ダニエルは、彼の一門の間で、最も優れた数学者であり、かつ最も広く、種々の自然科学分野に興味をもった人であろうと言われています。彼は、1724年に微分方程式に関する論文を書き、これが認められて翌年、ロシアのペテルスブルグ科学アカデミーの数学教授として招かれ、そこで様々な分野に於ける研究を行った他、1727年には、彼の友人、レオンハルト・オイラーの為にこのアカデミーにポストを見付けてやってもいます。このロシア滞在中の期間はダニエルの最も生産的だった時期で、この間に流体力学研究の基礎をかため、振動に関する研究をまとめ、確率論の論文を書いています。オイラーと共に働いた後、1733年に彼はロシアを去って、バーゼル大学の教授となり、そこで、父ヨーハンIの跡をついで数学教授をしている弟のヨーハンIIと同僚になりました。彼は主として医学に関する講義をしていましたが、数学と力学の研究を続け、論文を発表しています。1743年に彼は、より興味を持っていた植物学と生理学の講義を担当することになり、1750年には遂に物理学の教授となり、1776年まで優れた実験に裏付けられた物理の講義を続け、多くの学生を引きつける中心的な教授となったのでした。
 本書は彼が、ロシアで基礎付けた流体力学を、1734年に完成させたもので、1738年に出版しました。彼の父、ヨーハンIも1742年に流体力学の本を出版し、その中で、1732年に研究を完成したと述べていますが、これは、父の長男に対する対抗心から出た先取権あらそいだったようです。本書「流体力学」は、事実上、流体力学という分野を創始し、確立したので「ハイドロダイナミックス・流体力学」という用語そのものも彼の創った語です。彼は、カステリ、トリチエリ、マリオネット等によって行われた、流れる水の運動やその測定の研究を引きついで、それを発展させ、ニュートン力学理論を用いて、水の動力学を定式化したのでした。彼は力の保存則に基づき、ある点での水の位置エネルギーの変化と運動エネルギーは当価であり、流れに対し垂直な断面に於いて、水の粒子は総て同一の速度を持ち、この速度は流れの断面積に反比例するという仮説をたて、これを微分方程式を用いて解いたのです。彼はライプニッツの微積分とニュートン力学とを結合した最初の人でした。そして、更に進んで、管の中の水の流速とその圧力は反比例するという有名な「ベルヌーイの定理」を発見するに至ったのでした。
 本書はこの他、流体を扱う機械、アルキメデス揚水機やポンプ、歯車等について論じ、また気体運動ー彼は気体を弾性流体とよんでいますーを論じ、熱のエネルギー概念の基礎を与えています。