学術的講義
1715年
エヴァンジェリスタ・トリチェリ(1608-1647)
 ガリレオはその晩年、ポンプはなぜ32フィート以上に水を吸上げることが出来ないのかという理由を研究していました。空気はそれ自体に重さがあることは、圧縮空気の重さと通常空気の同容積のものの重さとくらべるという実験で確かめてはいたのですが、そのことを上記のような現実の事実に関係づけるには至りませんでした。ガリレオは、このポンプの現象はアリストテレスの「真空の恐怖」、真空は存在せず「自然は真空を嫌う」という信仰的な原理によるものであると考えていたのでした。
 ところがこの問題は、ガリレオの最もすぐれた弟子であり、その晩年に彼の秘書を務め、また親友でもあったトリチェリによって取り上げられました。トリチェリは管の中にある水の重さと空気の重さがつり合っているのだと推測し、水の代りに水銀を用いて実験をしてこの推論を確かめようとし、ヴインチェンツオ・ヴィヴィアニと共同で1643年にこの仕事にとりかかりました。水銀は水より約十四倍重いので水の場合の十四分の一の長さの管を使えば済むのです。初め、一端を閉じたガラス管に水銀を満し、開いた方の端を親指でおさえて、ガラス管を逆さにします。そして水銀の入った皿につけて、親指をはなします。すると、水銀は一部皿の中へ流れ出ますが、大部分はガラス管内に約30インチの高さの水銀柱となってとどまり、閉じたガラス管の頭部には真空の空気ができます。
 この「トリチェリの真空」は人間が作った初めての人工真空で、運動についてのアリストテレス派の理論を究極的に論破したのでした。トリチェリは空気の重さが水銀柱を押し上げて、30インチの水銀の重さとつり合っているものと結論しました。この装置は空気の重量(大気圧)を測定する一つの道具となったので、つまるところトリチェリは気圧計を発明したことになります。この気圧計を用いる実験の詳細はトリチェリの生前には発表されず、初めての実験報告は友人のフィラレーテに送った手紙に書かれていたのでした。
 トリチェリはその短い生涯にもかかわらず、水力学、機械学、光学、幾何学、微積分についての多くの業績を残しました。本書はトリチェリの講演、原稿、実験報告などを、死後六十八年たって、集めて初めて出版されたものです。本書には、1644年6月11日付と28日付で、気圧計の実験を報じた、ミケランジェロ・リッチにあてた手紙と、ガリレオへの書簡が入っています。内容の選択と編集はトマソ・ボナヴェントウラによってなされ、彼はまた、トリチェリの生涯に関する、事実的な、詳細にわたる序文を本書に書いています。