方法序説
1637年
ルネ・デカルト(1596-1650)
 デカルトは「近代哲学の父」と呼ばれる近世最大の哲学者の一人ですが、数学、物理学にも大きな足跡を残しました。彼はフランスの名門の家庭に生まれ、ポアティエ大学を卒業後、父親のすすめで陸軍に入り、初めオレンジ公モーリス・ド・ナッソーの軍に、後にバヴァリア公マクシミリアンの軍に所属しましたが、生来体が虚弱だった為直接戦闘に参加する事はありませんでした。
 1619年ハヴァリア軍はドナウ河畔ノイブルクで冬営に入り、長い陰うつな冬を孤独に過ごしていた彼は或る日非常に暖房のきいた暑い部屋で考え事をしている時、突然彼の以後の生涯を決定する事になった二つの啓示を得たのでした。即ち、もし彼が真理を発見しようと考えるなら、他の学者の説を採用するのではなく、全ての学問を彼自身のプログラムに基づいて彼自身が行わねばならぬということ、また、研究するにあたっては現在知られ、述べられている事の総てを疑って見て、本当に自明と思われる事のみを見出し、それから全研究を始めなければならぬことの二つです。
 彼は人間の観察した総ての事、考えられた総ての事は疑うことが出来るが真に疑いを入れない自明のことは、「私が考えている」という事実のみであるとして、これを有名な「私思う、故に我あり、コギト エルゴ スム」という句に定式化し、この一句が近代哲学の出発点となったのでした。この悟りの時の事情は本書に詳しくいきいきと述べられています。この回心の後、1621年彼はパリに戻り、領地からの収入で生活に心配はなかったので、学問分野全体を研究するという野心に燃えて、数学、力学、光学、解剖学等多岐にわたる研究を開始したのでした。しかし、1628年宗教上の迫害で、パリを去る事を余儀なくされてオランダに逃れ、そこで研究を続けたのです。
 彼によれば、自明の存在は神とコギト(私思う)と物質であり、自然学はこの物質についての学であり、物質界=世界の正しい認識はコギトに対し、最も正確な方法である数学的方法によってのみ与えられるのです。そうして、物質の本質は「延長(空間的ひろがり)」をもつものという以上でも以下でもなく、それゆえ空間と物質は同一で真空は存在しないと考えました。そうして物質の変化は純粋に物質の運動、従って力学の法則にのっとっているとしました。
従って、彼の自然学は幾何学と力学により記述される物質のふるまい「自然は数学的法則に従う」という事になります。彼はアルキメデスにならって「我に延長と運動を与えよ、そうすれば万物を作って見せよう」と述べ、最初神によって作られた物質微粒子が宇宙に充満し、それが凝集や拡散等の運動を行う事によって世界が生成すると考えました(渦動宇宙論)。従って彼の考えでは自然は一種の機械の様なものであり、その部品がこの微粒子(アトムを思わせる)という事になります。彼はこの考えを解剖学の研究に基づいて生物体にも及ぼし、人間、動物の肉体もまた力学的、数学的と解明される機械の様なものだとして、近代自然科学の特徴である機械論的自然観を確立したのでした。
 1633年に彼は研究成果を「世界論」という書物にまとめ、印刷にまわしたのですが、ガリレオの宗教裁判のニュースを聞いて出版を中止し、そのかわりに本書を「世界論」のあらすじを述べるものとして出版したのです。本書には有名な「方法叙説」の他「光学」「幾何学」「気象学」の三著作が収められており、「光学」では、ケプラーが得られなかった光の屈折の正弦法則を、スネルとは独立の証明をし、また異なる二つの媒質中での屈折率と光速との比例関係の近似を与えています。「気象論」では虹の理論に対する重要な貢献をしていますが、最も重要な業績は、「幾何学」の中で述べられた三次元空間座標系の概念の考察です。これを彼はテントの中でハエが空中を飛ぶのを見て、このハエの位置と運動を正確に数学的に記述する為には、互いに交差する三つの平面(つまりテントの面)からの距離を計れば良いという着想を得たといいます。彼のこのアイデアを発展させたものが現在我々が使っている x.y.zの空間座標系で、彼の名をとってデカルト座標系と呼ばれています。この発見によって彼はまた解析幾何学の創始者となったのでした。
 彼は1649年9月にスエーデンの女王クリスチーナのたっての招きを断りきれず、ストックホルムに行きました。女王は風変わりな人物で、デカルトに週三回、朝5時に講義することを求め、体の弱い彼は、スエーデンの厳しい寒さで風邪を引き、翌年2月に亡くなってしまったのです。遺体はフランスに返されましたが、どういう訳か頭蓋骨だけはスェーデンに残され、後にベルセリウス(スェーデンの化学者)の所有となり、彼からキュビエ(フランスの解剖学者)に贈られて、19世紀になってようやくフランスに戻ったという奇怪な話が伝えられています。