代数規則についての大技術
1545年
ジロラモ・カルダーノ(1501-1576)
 ルネッサンスは中世の終わりと近代の始まりを意味する時代であると同時に、近代科学の誕生とオカルトの様な超自然主義の終わりをも意味する時代でした。それだから、カルダーノの様なルネッサンス人の精神には、合理主義と神秘主義、理性と激情とが同時に存在し、両者が溶け合っている場合が多かったたのです。彼は、複雑な家庭に育ち、幼少の頃は病気がちで家族からのけものとされて育ちました。彼の攻撃的な性格はこの幼時の経験によるものかもしれません。レオナルド・ダ・ヴィンチの友人であり、優れた知識人であった父親のすすめで、古典学、数学、占星術を学び始めた彼は1520年にパヴィアの大学に入学し、1526年に医学博士号をパドゥアの大学で取りました。直ちに医師として活動を始めて大成功を収め、当時のヨーロッパで最大の医師だったヴェザリウスに次ぐ医師としての名声を獲得し、遠くイギリスまで、高位の貴族の治療のために招かれた程です。1543年にはパヴィア大学の医学教授に任ぜられました。医業を始めると共に、カルダーノは、ミラノの学校で、ギリシア語、弁証法、天文学、数学等を教え、数学を中心とする自然科学の研究を行い、この面でも彼は当時第一級の科学者となったのです。むしろ彼の真の才能は数学において発揮されたのでした。しかし生来の性格から、競争相手と見えた学者に対しては、みさかいなくこっぴどく批判したり、いわれのない中傷をしたりする事がしばしばだったので、多くの敵を作る事になりました。
 本書は彼の数学研究の主著で、三次方程式の解法とあわせて彼の義理の息子フェラーリの発見である四次方程式の解法を発表したものです。三次方程式の解法はタルターリアによって発見され、彼はタルターリアからそれを教わったのですが、タルターリアがそれを一向に発表しない上に、もともとそれはスキレオーネ・ダル・フェロによって発見されたらしいということに気付いたので、六年の間タルターリアの発表を待ったあげくに、遂にこれを本書で発表してしまったのです。当然タルターリアから激しい非難を受け、カルダーノの敵もこれに加わり、また彼の素行上の悪評も手伝って、彼の学者としての信用は地に落ちてしまったのでした。しかし、彼の本当の業績は、タルターリアもフェラーリも与えていなかった三次、四次方程式の解法の証明をきちんと与え、その一般的解法を確立した事にあります。この事によって、彼は代数学を大きく進歩させたのです。本書は、代数学に於ける最初の重要な出版となったのでした。
 彼はまた、博打が好きでほとんど毎日サイコロやカード博打をやり(これが彼らしいところですが)博打に勝つ方法を数学的に研究しました。この結果、彼は確率の概念を発見するに至り、確率論の分野でも実験的業績を挙げています。一方、かれは神秘的な占星術の研究も続け、キリストの占星図を発表したため、教会の告発を受け1570年に短い期間でしたが投獄されてもいます。このために彼は当時勤めていたポローニア大学教授の職を棒に振り、その後ローマに移住して、残りの時間を世の非難に対する弁解を盛り込んだ自伝を書き1576年にひっそりと没しました。