建築十書(ラテン語より俗語に翻訳された十巻の建築書)
1521年
ウィトルウィウス(fl. 25 B.C.)
 ウィトルウィウスはユリウス・カエサル(前100年頃‐44年)及びアウグストゥス(前27年‐後14年)に仕えた前一世紀のローマの建築家ですが、その経緯は良くわかっていません。この書物で述べていることによれば彼は、カサエル麾下のローマ軍に勤務して攻城機械や橋を建造し、アウグストゥス帝に仕えてローマ市の水道建設に携わったと言います。しかし、建築家としてはあまり優れた人ではなかったようです。彼は前33年に公職を引退し皇帝オクタウィアの計らいで年金生活に入りましたが、ほぼ同時に彼の建築に関する知識の集大成である本書の執筆に着手し、前14年頃に完成させました。この書はアウグストゥス帝に献じられていて、帝の建築に対する思考を啓蒙するとともに、出来得れば帝からの設計受注を請けるということをも意図していた様です。
本書に見る彼の建築理論は、ギリシア時代の建築理論のさまざまな断片を集成し、幾分あいまいな形で構成したもので、彼が生きた帝政時代には、ほとんど重要性を持たず何らの影響も及ぼしませんでした。けれども、古典古代の建築デザインに学び、それを復活させようと意図したルネッサンス期の建築家にとっては、本書は完全な形で残存している唯一の古代の建築理論の著作として、唯一の典拠、権威となったのでした。またこのことによって十九世紀に至るまでの建築、及び建築理論に大きな影響を与えたのです。実際、十九世紀までの建築理論はウィトルウィウス建築論との関連の把握なしには理解できません。その意味で本書は西洋建築史上最も影響力のあった書物といって良いのです。
 また、本書で取り上げられている事実には、建築理論ばかりでなく、建築材料、化学薬品、水理学、天文学、幾何学、民間及び軍事用の機械類、光学、音楽といった多種多様な主題が含まれています。実のところ、後年ウィトルウィウスが科学技術史上、かなり重要な人物として取り上げられるようになったのも、本書がローマ時代の科学技術についての百科全書的な性格を持っているばかりでなく、天文学、幾何学、科学技術における彼なりの寄与に追うところも少なくないのです。
 ウィトルウィウス建築書が最初に出版されたのは1486年頃であり、フラ・ジョコンドによるイラストレーション付きの版が出たのは1511年のことでありました。この二つの版はしかしいずれもラテン語版であって、学者はともかく一般の建築家が読めるものではなかったのです。本書が初めての近代語訳すなわちイタリア語(トスカナ方言)訳であって、市場に出るとたちまちベストセラーになりました。訳者のチェーザレ・チェザリアーノ(1483年‐1543年)はブラマンテの弟子で、レオナルド・ダ・ヴィンチにも師事した人で、はじめ画家として出発し建築家となりました。彼はまだ築城技術に長けた軍事技術家としても有名で、後にミラノ市専属建築家になっています。彼は大学に学びラテン語を或る程度身に着けていたので、ウィトルウィウスが曲がりなりにも原文で読めたのです。建築家であり軍事技術家であるという彼の経歴はウィトルウィウスと共通しており、ウィトルウィウス建築書を訳するとすれば自分をおいて他にないと彼が考えたことは自然でしょう。彼の師ブラマンテはラテン語が読めないばかりにウィトルウィウス建築論を駆使できず嘆いていたことは彼は目の当たりにしていましたし、ウィトルウィウスを翻訳してロンバルディアの建築家の誰でもが読めるようにすれば、ブラマンテも含めて彼らは必ず古代の偉大な建築家に匹敵する仕事は出来るようになるであろうと彼は考えたのでした。
 チェザリアーノはウィトルウィウスの多義的な叙術や支持を読者に理解して貰うためには、殆ど逐語的な注釈が必要であり、かつまたジョコンド版を超える大量のイラストレーションが必要であると考えました。ウィトルウィウスの著した本文よりもチェザリアーノの注釈の方が圧倒的に多いという本書の特異なスタイルとページレイアウトはこの結果として生まれたのでした。同時にイラストレーションを建築理念及び知識を伝達するうえで最も信頼できる手段として駆使するこのやり方が現在にいたるまでの建築書のスタイルを決定したのでした。いくつかのイラストレーション(特に、理想的人体の図)はレオナルドの様式に極めて近い類似性を示しています。更にイラストレーションを多用するという点で本書は彼の偉大な師匠レオナルドの影響を色濃く示していると言えるでしょう。