種の起源
1859年
チャールス・ロバート・ダーウィン(1809-1882)
 初め医者を志し、エディンバラ大学で医学を学んでいたダーウィンは、麻酔なしの(麻酔はまだ発明されていませんでした)外科手術を経験してから医学が嫌になり、ケンブリッジ大学へ転学して、牧師になる勉強をしていました。ところが、ケンブリッジで彼は博物学に興味を持ち始め、その学習をすすめた植物学教授ヘンズロウと親交を結びました。イギリス軍艦ビーグル号が、南米及び太平洋の調査航海に出る為、研究員として動物学者を探していた時、海軍省にダーウィンを推薦してくれたのは、このヘンズロウです。ダーウィンはビーグル号に、ヘンズロウが「馬鹿げた本だ、中味を信用するな」といいつつくれたライエルの「地質学原理」を一冊携えて乗り込み、5年間の航海に出発しました。これは、科学史上、生物学史上最も重要な航海野ひとつとなったのです。
 航海中、ダーウィンはある地域から他の地域へ移動するに従って、地域変化に応じて動物相や植物相が変化していくのを魅せられたように観察しました。そうして、艦がガラパゴス群島にやって来た時、14種類ものアトリ科の鳥、フィンチの変種が夫々の変種毎に群島のあちこちの特定地域に繁殖しているのを見て、ショックを受けました。この少しずつ違う鳥の種の個々が、独立に創造、あるいは発生したとは考え難い、本土エクアドルの原種のフィンチから、この14の変種は展開したと考える方が妥当であると思ったのです。また、その際に思い合わせれたのがライエルの考えでした。つまり、地球上の険しい山々や海など多様な地理学的自然も、地質学的には何十億年という長いタイム・スパンに於いて、非常にゆっくりと変化して来た結果としてあるという思想です。それならば、同様に生物の種の多様も長い時間をかけて少しずつ変化を続けて来た結果なのではないか、とダーウィンは考えたのです。
 こうして進化論のアイデアが生まれ、膨大な標本と共に、1836年イギリスに戻ったダーウィンは当時一般的だった種の不変性の理論を否定し、一つの種が他の種から進化したという事によってのみ説明し得る、動物分布、比較解剖学、古生物学上の諸問題の追求を始めました。二年後、彼はまた一冊の本に出会います。それはマルサスの「人口論」で、マルサスは、人類の人口は世界で生産される食料の量によって最大限が設定され、それよりも人口が増加すると、飢えや、疫病、食糧の奪い合いに基づく戦争等が生じて人口は減り、それによって総人口は調節されているという主張を述べています。つまり、食糧不足に何等かの形で「適応」できた者が生き残るという訳です。ダーウィンはこのアイデアは人間ばかりではなく総ての生物に対して延長できるのではないかと考えました。
 こうして、進化論の基本概念、自然淘汰、生存競争、適者生存を導き出し、その要因によって常に環境に適合する様に進化し、勝ち残った結果として、多様な種が発生する事を述べたのでした。進化のアイデアは、ダーウィンの独創ではなく、例えば彼の祖父のエラズマスもそのアイデアを示していました。彼の偉大なところはそういう進化が可能となり、しかもそれが豊富な事実的証拠によって証明できる、そういう進化の原因、理由の理論を創造したことにあるのです。彼はこの進化論研究を本書として出版しましたが、これは即日売り切れになったと言われています。ダーウィンの進化論は生物学、自然科学ばかりでなく、思想的に大きな影響を及ぼしました。例えばこれは全ての生物を神の創造物とするキリスト教の聖書に対するとどめの一撃でしたし、適者生存や生存競争の概念を故意に誤読したナチズムなど。しかし、彼の業績によって進化という概念は事実となったのです。現在、進化論において問題とされているのは進化の概念そのものではなく、なぜ進化したのか、という事であって、この理由、原因がダーウィンの説明よりもっと合理的なものがあるのではないか、ということなのです。