化学哲学要論
1812年
ハンフリー・デーヴィ(1778-1829)
 子供の頃から優秀だったデーヴィは、両親から学問をする事を望まれていたのですが、17才の時父親が急死し、上の学校へ行く事は断念して、ある薬局兼医院で住み込みの助手として働いていました。主人は親切で自分の実験室や書庫をデーヴィに自由につかわせてくれたので、彼はそこで独学する事が出来たのです。主人の書庫でラヴォアジェの「化学要論」を見つけて読んでからは、化学に専念する事を決め、化学のテキスト・ブックに述べてある様々な実験を自分で行って勉強していました。彼の化学知識に対する評判は近隣に知れわたり、それが縁で、クリフトンにあった気学研究所の主宰者ベドースの招きで、そこへ移って研究をする事になったのです。
 彼は命ぜられて亜酸化窒素(笑気ガス)の人体への影響を調べていましたが、ある事故によってそのガスが人間の神経作用に興奮、陶酔等の影響を及ばす事を発見しました。彼はその結果を1800年に発表しましたが、このガスを吸って恍惚状態になることが一種の麻薬として上流階級の間に流行したので、彼の名前は有名になったのでした。
 この研究所で彼はまた、ニコルソンとカーライルの論文「ガルヴァーニ電池の電流による水の分解」を読み、電気分解に興味を持ち実験を試みています。彼はこの研究を続けるつもりだったのですが、ランフォード伯の招きで、1801年ロンドンの王立研究所に移り、そこで農芸化学の研究をすることになったので電気分解研究の方は中断してしまいました。農芸化学の方では、目立った業績を上げられなかったのですが、彼は講演が上手で、社交的な性格だったので、彼の講義は人気の的となり彼の評判は高まったのでした。
 1806年に行った講演でデーヴィは再び電気分解をとり上げ、その手段によって化合物を元素に分解する可能性について論じました。そうして 250枚もの金属板から成るかつてない大きさの「ヴォルタの電堆(ガルヴァーニ電池)をつくり、これを用いて、電気分解の実験を精力的に行ったのです。結果は目覚ましいもので、先ず、水酸化カリウムからカリウムを、炭酸ナトリウムからナトリウムを分離してカリウム、ナトリウムの発見者となり、次いでカルシウム、バリウム、ストロンチウム、マグネシウムを電気分解によって発見しました。ホウ素も発見したのですが、これはフランスのゲイ=リュサックの方が数日早く発見していたのです。ちなみにゲイ=リュサックとは、よく研究対象が偶然に一致して、そのため発見の先取権をめぐってデーヴィとの間に論争がたびたび生じています。更にデーヴィは塩酸から塩素を分離してこれにクローリン(Cl)という名を与えましたが、この事は総ての酸は酸素を含んでいるというラヴォアジェの理論をくつがえしてしまったのでした。こうして彼は多くの元素の発見者として(史上最多です)その業績は不動のものとなったのです。
 彼は彼の化学実験研究の全体を大変読みやすい明晰な文章で、本書にまとめました。本書は第一巻と銘打っていますが、これを読んだ多くの学者は、ここに優れた実験化学者であって理論化学者ではなかったデーヴィの研究の総てがいい尽くされており、化学全体の理論を述べるべき第二巻はおそらく出版されないだろうだろうと感じたといいますが、事実その通りで、第二巻は遂に書かれなったのです。本書をまとめて、彼は第一線を退いたのでした。デーヴィはまた詩人としても優れていて、ワーズワースやコールリッジ等と終生親しく交際を続けた巾の広い人でした。