色と光の理論について
1802年
トーマス・ヤング(1773-1829)
 ヤングもまた、多岐にわたる分野で業績を残した「万能の人」のひとりでした。小さい時から神童の名をほしいままにし、既に13才の時には、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、イタリア語が読め、また、博物学や自然科学の勉強を始めたといいます。また、14才には彼は独学で、ヘブライ語、カルデア語、シリア語、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語、エチオピア語など多数の中近東の古代、近代語の勉強も始めました、このことは後年、シャンポリオンとは独立に行われたロゼッタ・ストーンのエジプト象形文字の解読研究や、エジプトの研究において優れた業績を上げるもとになりました。
 19才の時には、熟達したラテン、ギリシャ学者であり、同時にニュートンの「プリンキピア」や「光学」、ラヴォアジェの「化学要論」等多くの自然化学の主要著作に親しんでいました。1793年、ヤングはセント・バーソロミュー病院で、続いて、エディンバラ大学、ゲッチンゲン大学(ドイツ)、ケンブリッジ大学で医学を専門に学び、1800年にロンドンで開業しました。しかし、あまりはやらず、医者としては不成功で、1801年に王立研究所の自然学の教授に転身します。けれども、そこでも彼の講義は、内容的には大変優れていて独創的であっても難解で、当時そこで同僚だったデーヴィの講義の様にはいかず、聴衆には不人気で、1803年にはそこを辞めてしまいました。その後彼は生涯にわたって様々な医学的職業や自然科学に関する管理研究職を転々としたのでした。
 ヤングの自然科学者としての研究は、したがって医学的研究から始まりますが、それは目の解剖学的研究で、毛様体筋肉がどの様に目のレンズの厚みを変えるかとか、乱視や色の知覚等の研究をしています。この様な視覚の研究から光学の研究へ向うのは、元々ニュートンに興味のあった彼としては自然なことでしたが、この光学の分野でヤングは不朽の成果を上げたのです。彼はニュートンの光の粒子説とホイヘンスの波動説とを比較研究し、粒子説では光の速度が一定であることや、屈折反射の現象が充分説明できない事を確かめ、波動説の方が正しいと確信しました。もし、光が波動であるならば、同じ波動である音と共通の性質があるのではないかと考え、音が回折し、またそれによって干渉を生じ、いわゆる「うなり」という現象が生じる事から、光にも同様な性質がある筈と推定し、1800年の論文「音の光についての概論及び実験」と1801年に発表した論文とにおいて、光は空中を満たす「エーテル」を伝わる弾性波であって、(ここで、ホイヘンスのパルス波動説は振動波説として解釈されたことになります)白紙の上に薄いレンズを置いた時に生ずる同心円状のしま、「ニュートン・リング」は、光の波の干渉によって生ずると推定し、粒子説を攻撃しました。次いでこの論文において、その理論を精密化して、光の干渉理論を明確に定式化し、種々の色の光に対する振動数と波長を回折、干渉の両現象から計算しています。
 こうして、彼は光の波動説の礎石を置いたのでした。彼はこの事を証明する為に様々な実験をしましたが、観る者に劇的に光の波動を印象付けたのは、彼のピンホール・カメラによる実験でした。つまり、ひとつのピンホールからさし込んだ光とそれに密接してあけたピンホールの穴から入る光が重なって、「しま」が出来る事を示す「ヤングのスリット」として有名な実験です。これ等の諸実験の事は、1807年の「自然哲学講義」の中に述べられています。また、彼は現在、カラー写真や印刷、カラーテレビ等に応用されている色の三原色理論も発見しました。このヤングの波動説は、ニュートンがあまり偉大だったため、ニュートンの粒子説を信ずる多くのイギリスの学者からの攻撃にさらされました。この理論はだからこうした偏見のないフランスの二人の学者、フレネルとアラゴによって完成されたのでした。ヤングはこの他、力学の分野でも、弾性体力学の基本定数「ヤング率」を発見しています。