熱源に関する研究
1798年
ランフォード伯(ベンシャミン・トムソン) (1753-1814)
 ベンジャミン・トムソンは米国、ニューイングランドの農家出身のアメリカ商人で、ボストンに住んでいました。1772年に富裕な未亡人と結婚し、ニューハンプシャー州のランフォード(現在のコンコード)に移住しましたが、アメリカ独立戦争が起った時、彼は英国側に味方しスパイとして活動しました。ところが、英国側の旗色が悪くなり身辺に危険が迫ると、妻子を残して単身英国へ脱出、したたかな機会主義者だった彼は英国で植民地省国務次官にまでになります。しかし、アメリカが独立すると、アメリカの報復を恐れてバヴァリア(南ドイツ)へ移住しますが、そのバヴァリアの宮廷でも、彼はすぐに認められて政府部内の高い地位につきました。彼は政治的にも有能な男で、貧民救済等の種々社会改革を立案、実施し、1790年にその功により、バヴァリア国王から伯爵に叙されました。この時に彼は故郷の地名を称号の中に入れて、ランフォード伯と名乗る様になったのです。
 彼は王に命ぜられて、ミュンヘン兵器廠における大砲の砲身の穴あけ工程を視察した時から、物理学に興味を持ち始めました。つまり、砲身にドリルで砲腔(砲弾の通る穴)をあける時、ドリルと砲の金属との摩擦で大量の熱が発生する事に目をうばわれ、この熱がどこから来るのかを明らかにしようと考えたのです。当時の熱理論はラヴォアジェのたてた熱素(カロリック)説が一般的でした。熱素というのは目に見えない一種の熱の流体で、物質の中にしみ込んで溜まっており、摩擦の場合の様に力が加わると、この熱素がいわばしぼり出されて来て熱くなるのだ、というのです。しかし、ランフォードは、発生する熱が膨大な量で、もしこれを全部もとの金属に戻すとすると、それは溶けてしまうだろうから、熱素説は誤りではないかと考えました。そうすると、熱の出所はドリルの運動以外にありません。こうして彼は運動すなわち、力学的な仕事が熱に変換するのだと正しい洞察でもって結論し、現在熱の仕事当量と呼ばれている、どれだけの量の熱がどれだけの仕事に相当するのかという変換量を計算したのです。彼の計算した量はいささか多すぎたのですが、この正しい量は後にジュールによって決定されました。本書はこれ等の考察を初めて出版、公表したものです。
 本書の出版の年、ランフォードはロンドンに戻り、1800年に有名な王立研究所を創立し、デーヴィを招き、後に彼を所長としました。王立研究所はその後有名な学者が集まり、イギリスの科学研究のひとつの拠点となったのです。1804年にランフォードはパリへ行き、そこでラヴォアジェ未亡人と結婚しましたが、この結婚はうまく行かず、四年で終止符を打ちました。ランフォードの不誠実で魅力のない人柄が原因の様で、ラヴォアジェ未亡人をあてこすって、「ラヴォアジェはギロチンにかかって幸せだった」と彼が言ったという話が伝わっています。