電気学の歴史と現状、付・独創的な実験
1767年
ジョゼフ・プリーストリー(1733-1804)
 プリーストリーは酸素の発見者として有名ですが、彼は牧師で神学、歴史、形而上学、美学、言語学や教育についての著作や論文が多数あり、彼の同時代人には、科学者としてと同様、宗教的、政治的分野においても知られていました。彼の家は貧しかったので、裕福な伯母に育てられ、はじめ、教区教会の学校で神学、ギリシア語、ラテン語、また数学及び、自然学の初歩をも学びました。彼はグレイサンドの「実験により確認された、自然哲学の数学的要素」を読んでいた様です。次いで、ダヴェントリーに新設された神学校に入り、更にギリシア・ラテン語を強化すると共にもっと広範囲に自然学を学び、初めて、系統的に、論理学と形而上学を学びました。この学校のやり方は、あるテーマについて相互に反対の立場をとるテキストを読みくらべて、討論するというユニークな方法で、これによって彼は、偏見を排して研究する自由な開かれた精神を養ったのでした。特に彼は、ロック及びホッブスの認識論、R.ボイルの神学論文、ニュートン自然学、ケンブリッジのネオ・プラトニズム学者達の論文に親しみました。
 神学校を終えると、サフォーク州のニーダム・マーケットや、チェサイア州のナントウィッチで教区教会の牧師をつとめましたが、彼の三位一体説に関する異端的な考え方と生まれつきの軽い言語障害のために、説教活動が、うまく行かず、あまり成功しませんでした。そこで彼はナントウィッチに私設の学校を開きますが、これが成功し、1761年ウォリントンの新設の神学校に招かれ、そこで、語学、近代史、法律、弁論術と批評論、そして解剖学-彼の言によればほとんど「何でも」教えました。この時期に彼は、英語文法、言語理論、弁論と批評等に関する書物を出版しています。この頃、彼は自分のカバーしなければならなかった分野の広さに対応するために、彼が自分で弱いと考えていた自然学を強化したいと思い、神学の他に物理、天文学の研究をしていたブリレートンとハロッドに教えを乞い、親交を結びました。彼等を通じて、電気学に興味を持ち、摩擦起電機と真空ポンプを手に入れ、電気学の書物に書いてある様々な実験を追試し、更に、彼独自の着想による実験へと進んでいったのです。
 1764年、彼の教育上の功績が認められ、エディンバラ大学より文学博士の学位を受けましたが、このことと、一部の科学者によく知られる様になった彼の電気学実験の成果によって、1776年に王立協会の会員に推挙されました。そこで、彼は電気研究を歴史の形でまとめる事を考え、ベンジャミン・フランクリンの賛成もあり、本書を書き始めました。1767年、本書は出版されましたが、この本は過去に行われた電気研究及び発見の体系的な叙述と、彼の時代の研究の評価を多くの実験によって裏付けつつ述べていたので、更に電気研究を進めたいと考える科学者、学生の必読書となり、非常な成功を納めました。彼の生涯中英語版は再版を重ね、オランダ語、フランス語、ドイツ語版も出版されました。本書第二部には、後にクーロンが詳細に研究し、「クーロンの法則」を確立することになる事実、正・負に帯電した極の間に引き合う力はその距離に反比例するということを実験により発見しています。フランクリンやヴォルタは、この本に感心し、手紙を寄せて、誤りの訂正や、更に突っ込んだ研究の示唆などを提案して来ました。彼はこの研究を練り、更に展開することを二人に約束したのですが、しかし、その頃から彼は化学の方へ関心を移し、その後の版で事実的な訂正をし、また、電気学の入門的な本を書きはしたものの、それ以上の事はせず、やがて、化学でも大きな成功をおさめ、化学者としてより良く知られる様になったのでした。けれども、この本はその後の電気研究を振興する上で、非常な力となったのです。
 プリーストリーはその後彼の啓蒙主義的な思想と、プロテスタントに対する異端的な思想のために、宗教界から迫害を受け、1791年、彼の家が焼き打ちされて、実験装置、蔵書、原稿を失った後、1794年、アメリカへ渡り、ペンシルヴァニアで研究を続け、1804年2月そこで没しました。