光学 : 反射, 屈折, 光の伝播と色について
1704年
アイザック・ニュートン(1642-1727)
 1664年から1665年にかけて、若き日のニュートンは光学に関する数冊の書物を読んでいました。それはデカルトの屈折光学,ケプラーの光学およびフックの微細物誌などの書物で、これらから反射と屈折についての数学理論に興味を抱き始め、一方ではレンズをみがくとか、望遠鏡を改良するとか、実際に光についての現象を観察して見るという実際面にも関心を持ち出したのでした。光学に関してニュートンが最も重要な発見を初めてしたのは1666年のことで、それは球面収差や色収差のないレンズを作ろうと、非球面レンズをみがいている途中のことでした。彼は光がプリズムによってスペクトルの色にわかれること、そしてもう一度プリズムを通すと、わかれたものが合さって白色光にもどることを発見したのです。さらに、分散させた単色光は別のプリズムを通してもその色は変らないことを確かめたうえで、光の色はプリズムそれ自体によって作り出されるという、長年にわたって通用して来た理論の誤りを正したのでした。光の各種の色が白色光を形成しているというニュートンの実験によって、従来行なわれていた光の理論を否定する革命的な原理が生れたのです。
 ニュートンはケンブリッジのトリニティカレッジで初めてこの「決定的実験」を行ない、その後五年たってから、王立協会の会員たちの前で発表しました。その報告はすぐさま他の科学者たちとのはげしい論争のまとになりました。とくにフックの論駁には手を焼き、数年の長きにわたる論争が続きました。ニュートンはまた、ホイヘンスがこれに無関心を装っているのにもいらだたせられました。この様なことのために、ニュートンは、自分の業績を出版するのを嫌い公表を多年遅らせる様になったのです。彼が光学についての業績に充分な検討を加えて本書に収めて出版したのは、この王立協会での報告の後三十年以上もたったのちのことでした。
 この書物の第一巻でニュートンは幾何光学の理論を記述し、上にかかげた実験の詳細な説明をしています。ここでニュートンは色収差のないレンズを作ることは、それぞれの色の屈折率が違うために不可能であると結論しました。実はこれは間違いで、つまり彼は分散能の違うガラスの発見に失敗しただけのことだったのです。彼はまた、光は微細粒子からできており、それゆえ他の物体で遮蔽されたときに、はっきりした影を生じると述べています。
 本書の第二巻でニュートンは、有名な実験、「ニュートン・リング」として知られる現象で光の干渉を説明しています。この実験で、彼はガラス板の上に小さい曲率のレンズを置くと生ずる、明暗が交互になった縞の環を研究しました。この時、白色光を用いると色のついて同心円が現れます。この現象はレンズとガラス板の間にある空気の上辺で屈折する光と底辺で屈折する光との干渉によって生じるのです。ニュートンはレンズの球面半径から幾何学的計算の空気の膜の厚さを計算し、それぞれの明暗の環の径に対応する空気の膜の厚さはある変数αの倍数になっていること、すなわち明るい環はαの1、3、5・・・・倍に等しく、暗い環は2、4、6・・・・倍に等しい。そして変数αは中心の一番小さい環の径に等しい、ということを発見しました。この発見によってニュートンは光の周期性を証明したのです。
 第三巻では光の回折の問題を研究し、この現象を説明するために光の振動説を提出しています。この理論でニュートンは中心的理論として光の粒子説を採用しつつも、それに光の性質をうまく説明できるように、同時代の研究者によって提唱されていた波動説を組み合わせています。このように光が粒子と波動という二重性格を持つことは、現代の光学理論では矛盾せず認められています。
 この書物の付録にはニュートンの考えた「流率法」による、微積分学という新しい分野を生むことになった曲線図形についての二つの論述があります。ニュートンは1665年から1666年にわたってこの方法を研究したので、1684年のライプニッツの発見より優先権があると述べています。このことはおよそ二世紀にわたって英・独の数学者たちを熱狂させる論争の源となりました。
 本書はニュートンから友人のリチャード・ベントリーに送られたものであって、本の扉に「著者よりの贈り物、R・ベントリーへ」 とニュートン自らの手で記されてあります。リチャード・ベントリー (1662-1742)は学者で、評論家であり、トリニティカレッジの学寮長でしたが、プリンキピア第二版の編集者としてロジャー・コートをニュートンに推挙する役割を果した人です。また、この人はトリニティカレッジをニュートン学派の人たちの最初の拠点とし、天文台を付設しました。この天文台で天文学者たちはニュートンの万有引力を立証したのでした。