極大と極小に関する新しい方法
1684年
ゴットフリード・ウィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)
 ライプニッツは正に17世紀文化史に於ける巨人、普遍的天才で、数学・物理学・論理学・神学に大きな足跡を残すと同時にドイツ近代哲学の祖と言われる大哲学者でした。彼はまた、学者としてばかりでなく、マインツ選挙侯の有能な外交官、また優れた法律家でもありました。彼は外交官として広くヨーロッパを旅行し、その際出会った様々の学者と交際し、手紙による意見の交換をして相互に刺激し合いました。彼の交際した自然科学者を挙げただけで17世紀ヨーロッパの自然科学の全体像が浮かび上がってくる程です。すなわちキルヒャー、ゲーリケ、ホイヘンス、フック、ボイル、レーウェンフック、ヴィヴィアーニ、マルピーギなどなど。
 1676年からは、図書館長および宮廷顧問官としてハノーファーのブラウンシュヴァイク・リューネーブルク選挙公フリードリヒに伝えました。(フリードリヒの二代後のゲオルク・ルートヴィヒは、イギリスへ行って、ジョージ一世、すなわち現在のイギリス王家の祖となった人です。)この時代に彼はようやく自分の研究をする暇を得る事が出来たのでした。この時期沢山の論文を書いた他、ベルリンにブランデンブルグ公女ゾフィーの協力で、科学アカデミーを創設してその院長をつとめました。このアカデミーは後世、世界屈指の学術団体になりますが、彼はまた、ドレスデン・ウィーン・ペテルスブルクにもアカデミーを創ろうと努力しました。このうちピュートル大帝に創設をすすめたペテルスブルグ科学アカデミーのみが実現しています。
 同じ頃、ライプニッツはメンケと協同してヨーロッパ最初の民間科学雑誌「学者の報告、アクタ・エルデトールム」を創刊し、学問、教育を振興しました。この雑誌はヨーロッパ大陸で広く読まれ、今日の学術雑誌の原型のひとつとなったのです。彼の自然科学上の論文はほとんどこの雑誌にのり、本論文もこれに掲載されたのでした。
 ライプニッツの数学上における天才性は、彼が、数学における二つの根本的領域ー連続性を扱う領域と離散性を扱う領域の双方で、決定的な業績を上げた事です。すなわち、前者においては、微積分法の確立をなし、後者においては、記号論理学の基礎を築いたのでした。この双方の領域で同時に大きなことをなし遂げた数学者は彼以前にも、彼以後にも存在しません。ニュートンですら、彼の数学業績は前者の領域のみに限られているのです。
 本論文はライプニッツが微分学を確立した論文ですが、実は微分学は、ニュートンが「流率法」という名で1665年頃にその基本を確立し、彼は1687年その歴史的著作「プリンキピア」 於いてそれを発表したのです。ところが、ライプニッツが本論文を発表したのはその三年前で、1686年には微分の裏がえし、積分法を「深遠な幾何学」と題して出版していたので、ヨーロッパ大陸では、ライプニッツが微積分法の創始者として知られていました。1695年になってニュートンはその事を知るのですが、二人のやり方は、相当異なっていたので、ニュートンとライプニッツはお互いが、独立に発見したものと認めあっていたのでした。(後にニュートンは、ライプニッツに対する攻撃を見て見ぬふりをする様になります。)ところが、18世紀になると、一般の人々が愛国心に燃えて、お互いに相手の方がそれを盗んだと言って独・英両国民の間で激しい論争が持ち上がったのです。この為、ゲオルグ・ルートヴィヒがイギリス王になった時には、ライプニッツも一緒に行こうとしたのですが、「正直な低能」と呼ばれた王の彼に対する冷淡さと、イギリスに於ける彼の悪評が災いして、ライプニッツはハノーファーで孤独な死を迎える事になったのでした。しかし、ニュートンが微分法を主として力学的観点から研究したのに対し、ライプニッツはもっと普遍的な観点ー変化一般を扱うということーから研究し、関数的な考え方をいていたので関数、functionという語とその概念は、1694年ライプニッツによって数学に導入されたものです。彼のやり方の方が、後の発展の基礎となったのです。例えば、微分を表すdx、積分を表すS等は、今も用いられているライプニッツ考案の記号で、これは彼の計算法の本質を良くあらわしています。彼の微積分は後スイスのベルヌー兄弟によって発展させられて、有用な数学的道具となっていったのですが、この不毛な論争のおかげで、ライプニッツのやり方を認めなかったイギリスは、ニュートン後、一世紀にわたって数学的に沈滞することになったのでした。