真空についての(いわゆる)マグデブルグの新実験
1672年
オットー・フォン・ゲーリケ(1602-1686)
 ゲーリケはマグデブルグ生まれで、ライプツィヒ大学、ヘルムシュテット大学、イエナ大学で人文学、法律を学び、次いでオランダのライデンへ行って更に法律を学ぶと共に、数学とさまざまな工学的技術、とりわけ築城術を学んで故郷に帰り、市の参事会員に選ばれ、また市の建設工事請負人を勤めていました。ところが三十年戦争が起こり、市は1631年に陥落し、ゲーリケ一家は市を脱出してブルンズウィックにのがれ、そことエルフルトで、ゲーリケはスウェーデン政府の為に技術者として働く事になりました。1635年に、彼はザクセン選挙侯領政府でも技術者として働くことになったのですが、この様な中立国の政府職員として、彼は中立の立場で、マグデブルグ市をかわるがわる占領する諸勢力に対して、市を代表してさまざまな交渉にあたりました。そのため、三十年戦争終結後、1646年にマグデブルグの市長となったのです。
 他の都市や領邦との外交々渉に多くの時間をとられ、彼はレジャーとして、さまざまの科学的実験を行ったのですが、国際会議や、諸国の宮廷へ出張する事は、いろいろな新しい学術情報を得たり、意見を交換する機会にもなりました。
 1646年、オズナブリュックで彼はデカルトの物理学研究を耳にし、レーゲンスブルクではトリチェリの気圧計(トリチェリの真空)実験の事を知りました。彼は以前から、空間の本質は何か、真空は存在するのか否かという疑問、天体はどの様にして空間を越えてその運動の源である力を影響し合うのか、天体が存在する空間、すなわち宇宙は、限りあるのかないのか等々の疑問をかかえていたので、まず手始めに、デカルトの言う通り真空は存在しないのならば、容器内から内容物を抜けば容器は必ずつぶれるに違いないと考え、1647年にシリンダーとピストンから成る排出ポンプを発明してこれを造り、ビールの樽に水をつめ、これをポンプで排出しましたが、水を抜くと隙間から空気が侵入する事がわかり、次に銅の中空の球をつくって空気を抜いた処、球はつぶれてしまいました。従ってデカルトの説が正しい様に考えられたのですが、ゲーリケは満足せず、更に丈夫な球をつくって遂に真空を創り出す事に成功したのです。そうして、真空の中ではものが燃えないこと、音は伝達されないこと、生物はその中では生きられないこと等を確認しました。
 彼はこうして真空の存在を確め、アリストテレス以来の「自然は真空をきらう」という命題を否定し、それ故、高度が上るにつれて、気圧計の価が変化して行くのは、空気が薄くなるからだと考え、従って天体の存在する空間は真空であることを推測しました。またトリチェリの実験結果をもとに、真空にした球がつぶれるのは大気の重さ、大気圧によるのだという事を理解し、この事を大々的な公開実験をして発表する事を計画したのです。こうして、1657年マグデブルグで「マグデブルグの半球」として知られる有名な実験を行ったのです。これはブロンズの半球を二つ合わせて内部の空気を抜き、16頭の馬で引張り合っても半球は離れず、空気を再注入すると半球はひとりでに離れるという実験でした。実験は大成功で、ゲーリケはこの成果を本書において出版したのです。
 彼のこの実験と真空ポンプの発明は、ボイルやホイヘンスに大きな刺激を与え、特にボイルは自らもポンプをつくって実験し、有名な「ボイルの法則」を発見したのでした。ゲーリケはこの真空を利用したマグデブルグの空気銃と呼ばれた銃や高さ10m以上もある水気圧計をも造った事が本書に述べられています。こうしてゲーリケはいわば空気力学の創始者のひとりとなったのですが、彼の研究はこれにとどまらず、ギルバートの磁気の研究によって、ケプラーが考えた惑星間に働く力は磁気ではないかということを確かめるため、電気の研究を始めました。ギルバートの磁石球にならい、様々の鉱物と硫黄をまぜ合わせた球をつくり、帯電現象を調べ、遂に純粋な硫黄の球をクランクによって回転させ、手または布でこする事によって静電気を発生させ、何度でも放電、帯電させる事に成功しました。この実験の報告も本書に収められています。彼は最初の摩擦起電機を発明し、最初に放電のスパークを観察した人となり、現在我々が大きな便利を受けている電気の研究の創始者となったのでした。