光学宝典
1572年
アルハゼン (イブン・アル=ハイサム) (c. 965-1040)
 ラテン名アルハゼン、本名イブン・アル-ハイサムはイラン生れのアラビア物理学者、天文学者、数学者で10世紀末から11世紀にかけて活躍した人です。彼の生涯については諸説あり、はっきりしませんが、エジプト王、アル-ハーキム(996-1021)の招きでエジプトへ行き、ナイル河の流量調節プロジェクトを提案して受け入れられ、そのプロジェクトが実現不可能な事を覚ると、処刑を恐れて、王の死まで狂人をよそおって死をまぬがれたといいます。王の死後はエジプトでユークリッドの「原論」やプトレマイオスの「アルマゲスト」のアラビア語訳をして生計をたて、またそれらを教えていた事は確実です。
 彼は特にプトレマイオスに影響を受け、光学に興味を持ち、「視覚論」という本を書きました。この本は非常に独創的だったので、写本で広く読まれ、13世紀にはラテン語訳されてヨーロッパに広く流布していました。本書はこの「視覚論」のラテン語訳の最初の刊本で「アルハゼンの光学宝典」と改題されています。本書にはまたウィテロの「光学論」も収められています。
 本書においてアルハゼンは、ユークリッドやプトレマイオスの視覚論、目から出た視線(光)が対象を走査し、そのことによって目の中に像が出来るという理論を批判し、太陽その他の光源から出た光が対象に反射し、それが目に入って像を結ぶという正しい理論を提出し、現在から見てもかなり正確な眼球の構造を記しています。事実、現在も伝わっている眼球内部の部分の名前は彼の命名したものによる処が多いのです。
 彼はまたレンズや凹面鏡による光の屈折を研究し、カメラ・オプスクーラ(暗箱-写真機のもとになったもの)を作って視覚の研究をしました。また、この光学の研究結果を天文学に応用し、薄明光を研究して、大気によって光線が屈折する事を示し、大気層の厚さを約10km(実際は16km)と見積っています。
 彼の研究は常に実験と観察に基づき、それを帰納し、厳密に数学的に演緯するという極めて近代的な方法によっていたので、この本の生命は長く、優に17世紀まで支配的な地位を占めていました。この本の成果に基づいて、ケプラー、デカルト、ホイヘンス、ニュートン等が更に光学を発展させて行ったのです。