博物誌
1496年
ガイウス・プリニウス・セクンドウス (c.23-79A.D.)
 プリニウスの生涯についてはあまりよくわかっていません。彼の甥で養子の小プリニウスが友人パピウススケルと歴史家コルネリウス・タキトゥスに宛てて書いた二通の手紙と、スエトニウスがその著「名士列伝」に書いた実に短い伝記から知られることが殆どすべてです。それらに拠ると、彼は23年か24年にコモで貴族の家に生まれ、ローマで教育を受けたらしい。47年にはゲルマニアで騎兵将校として軍務に就き、57年ごろまで勤務し、累進して騎兵隊指揮官となりました。本書序文によればこの陣営で後の皇帝ティトゥスと親交を結んだと言います。軍務を終えた頃、時代はネロ帝の治下になっていて、この間は公職を完全に退いて学術的な生活を送っていたようです。69年に即位したウェスパシアヌス帝に求められて彼は再び公職に就くことになり、ヒスパニア・タラコネンシス(北部スペイン)やシリアなど幾つかの属州の皇帝代官を勤め、その後、ローマに帰りウェスパアシアヌス帝の諮問会の一員として勤務し多忙な日々を送りました。彼の最後の官職は、ナポリ湾ミセヌムを碇泊地とするローマ艦隊の司令長官です。その司令長官在勤中の79年8月24日、ナポリ近郊のウェスウィウス(ヴェスヴィオ)火山が大噴火を起こし、彼は先民救助の為に艦隊を出動させ、自ら乗艦して指揮にあたりました。しかし彼は、持ち前の知的好奇心から噴火の状況を詳しく観察するために上陸し、調査中に火山ガスに巻かれて命を落としその生涯を終えたのでした。
 彼は旺盛な知識欲を持った人で寸暇を惜しんで読書し執筆したことが小プリニウスの手紙には記されています。それによればこの多忙な生涯の中で「ポンポニウス・セクンドウスの生涯二書」「ゲルマニア戦記二十書」「アウフディウス・バッフスの歴史書続編三十一書」それに本書など合計102書を著したと言います。しかしこれらは悉く失われて伝わらず、本書「博物誌」のみが現在まで伝わったのでした。
 本書はプリニウスの際だった知的好奇心、観察力と想像力、また膨大な読書量‐ローマ人の著者146人、外国人の著者327人による二千点以上の著述が言及されています‐に基づく該博な知識が綜合された極めて独創的な書物であります。題名は「博物誌」ないし「自然史」と言うことで、その内容は、宇宙、気象、地球、世界地理、地誌、人間、動物、植物、農業、植物から採れる薬剤、動物から採れる薬剤、金属、石、彫刻、絵画などの多様な主題にわたり、それらに関して二万項目以上の記述がなされています。プリニウスは確かに自然界に存在する総てのものの百科全書を作ろうと意図したのでありました。しかしこの内容を見てもわかるように、これは自然界の単なる客観的記述に止るものではなくて、自然と人間との関わりに於ける自然の有用性、また危険性に重点を置いた記述がなされているのです。例えば全37書のうち、実に13書が動植物から採れた薬についての記述に充てられており、その他の書に於いても様々なものの薬効について記されていますが、医術が未発達である当時では薬に対する一般の関心が強いのは当然で、こうした実用的要求に答えた自然の記述になっているのです。
 プリニウスはまた様々な伝聞や言い伝え、噂、創造、推定と事実とを区別せずに、いずれをも事実として記載しています。例えば一角獣、天馬、人魚、巨足人など未知の国々の奇怪な動植物、人間、習慣、事象、不思議で怪奇な空想上の産物が多々述べられており、このことが、中世・近世ヨーロッパの人々の想像力をかき立てたのでした。中世に於いては、本書は最も権威ある自然に関する科学書として多くの写本が作られ、広く読まれましたし、中世末期から近世にかけてはマルコ・ポーロやコロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマのような大旅行家、大航海者も未知の事物世界への想像力につき動かされ、「プリニウスの世界」を求めて行動を起こしたのでした。本書は大航海時代の到来に一役買ったであったと言って良いのです。
 「博物誌」は初めて印刷され出版されたのは1469年にヴェネツィアに於いてであった。1472年にヴェネツィアで、1479年にはトレヴィソで別の版が出版されています。本書はトレヴィソ版に次ぐヴェネツィアで出された「新版」と呼ばれる版です。