みなさんこんにちは、大澤です。今日のテーマは『〈自由〉の在り処』となっているんですが、ちょっと変更して『〈自由〉の牢獄』という内容のお話をしようと思います。
〈自由〉の牢獄
この『〈自由〉の牢獄』という言葉は、有名な童話作家のミヒャエル・エンデの寓話的な短編のタイトルなんですが、この短編がとても啓発的なんです。イスラム圏のお話ですが、イッシーアラー「神の御心のままに」という名前を持つ乞食がいます。その乞食が自分の身の上話をカリフに話すというスタイルになっています。イッシーアラーはかつては成功した商人でしたが、成功するに連れて次第に傲慢になってイスラムの教えを守らない生活を送るようになってしまう。そんなある日、目の前に美しい女性が現れ、彼を誘惑して言うわけです。「私を好きにしたかったら、これからは自分の意志以外の何ものにも従わないと誓ってほしい」と。そこでイッシーアラーは、神にかけて誓おうと答えるんですね。でもその美女は、神にかけてでは困る、神に託したら自分の意志にならないじゃないかというわけです。そこで我が眼にかけて誓おうと言って、その女性を抱こうとする。すると突然、宇宙空間をワープするような体験をして、彼はあるドームに連れて行かれてしまう。その美女は実は悪魔の化身だったわけです。
で、ココが重要なんですが、そのドームには無数の扉があるんですね。扉がなくて出られないというのは普通ですが、このドームは扉がありすぎて出られない。どの扉の先に何が待ち受けているのか考え始めたら、どの扉も選べなくなってしまったわけです。つまりどういうことかというと、あまりに自由がありすぎることによって、人は閉塞感を感じる、ということです。古典的な自由というのは、選択肢が少なくてそこから自由を獲得するという構造でした。しかし現在の先進社会においては、たいていのことはできる。にもかかわらず、ものすごい閉塞感を感じてしまう。私はこれをファミレス感覚と呼んでいます。なぜかというとファミレスにはあらゆるメニューが揃っているのに、なぜかどれも積極的に食べたいとは思わないわけです。選択肢は数限りなくあるのに、本当に欲しいモノが見つけられない。そこには自由が感じられない。これはなぜなのか。これが今日の大きなテーマです。
〈自由〉の在り処
ここで、自由とは何だろうという概念的なことを考えておこうと思います。自由というのは、人間らしさの核にある部分だと言えると思います。自由自在であればあるほど人間っぽい。その一方で、この世界というのは因果関係の網の目になっています。
僕らの体も心もそうです。しかし自由が因果関係で決められるとしたら、それは自由ではない気がします。カントはこの矛盾する2要素を「両立不可能だが、とも真であると考えるしかない」と開き直ったようなことを言っていますが、このことは哲学者だけの問題ではありません。
例えば育児の場面でつい言ってしまう言葉に「こんな子に育てた覚えはない」というのがありますが、すると子供から「生んでくれと頼んだわけじゃない」とか反論されてしまうわけです。しかし考えてみると子どもの言ってることは真理です。子どもは自分の意志で生まれてきたわけではなく、その存在自体が遺伝子の因果関係の一部であり、引いては地球の歴史、そして宇宙の歴史の一部なわけです。
ここで2つ、心理学の古典的な実験をご紹介します。1つ目は、被験者に20c mくらいの線分が描かれた紙を見せる。そして次に3本の線が描かれた別の紙を見せる。基本的にその3本の線にははっきり差があって、1本目と同じ長さ、短い線、長い線です。で、被験者に最初の線分と同じ長さのものを選ばせるのですが、これだけならほとんど間違えようがない実験です。ここに一つ工夫をします。同じ被験者と称して多くのダミーを立てて、そのダミーに一斉に間違った線を選ばせるわけです。すると被験者の7 5%ぐらいが周囲に影響されて間違った線分を選んでしまう。こんなわかり切った判断でさえ、人間は簡単に周囲に影響されて、間違えてしまうという実験です。
もう1つの実験は、店頭でモニター調査と称してまったく同じ4足のソックスのどれがいいか選んでもらいます。お客さんは何らかの理由をこじつけて1足選びます。客観的に見ればすべて同じソックスですから偶発的に選んでいるわけですが、お客さんは自発的に選んだと言い張るわけです。こういう実験結果を見ると、「自由危うし」という感じがしてしまいます。
ここで自由の概念について考えてみましょう。自由には自らの責任で選択する「積極的自由」と誰にも邪魔されないという「消極的自由」の2つがあります。例えば試験のために勉強しなくてはならなかったのに怠けてしまった場合、その人には消極的自由はあったけれども、積極的自由はなかった、と言うわけです。先ほどのドームの話は、消極的自由はありあまるほどあるけれど、積極的自由はどこにもないのではないか、ということになります。つまり今や現代社会には消極的自由しか存在しないのかもしれません。
政治思想の面ではどうでしょう。近代以降の社会には重要な政治思想が3つ出てきました。自由主義と保守主義、そして社会主義です。だけど結局勝ち残ったのは、資本主義と相性のいい自由主義でした。ところが現在、少し形が変わった2つの考え方が台頭しつつあります、それは広い意味での原理主義と環境の倫理です。この2つはあまりに自由が多すぎるときに、自由に制限を加えてくれる考え方です。ドームの扉の数を制限してくれるわけです。それだけ現代人は自由の重荷に耐えかねているということができます。
先験的選択
自由であるということは、選択と関係があります。逆に選択したと思えないものに、自由があるとは思えません。選択したということはつまり、他の可能性もあったということですから。ただここでちょっと不思議なことがあります。何かをするときに毎回、次はこれをやろう、次はあれだと考えていたら、そこには自由は感じられません。むしろ選択しているという意識がないときのほうが自由自在に振る舞えている感じがします。でも、そのときにも無意識のうちに選択はしているわけです。もっと言えば、後になって振り返れば、あのときはこういう選択をしていたんだなと自覚する。そういう状態がもっとも自由に感じられるわけです。これを1 9 世紀のドイツ観念論の哲学者は、先験的選択と呼んでいます。なぜそういう呼び方をするかというと、選択した瞬間というのは先に経験されてしまって、その後に気づくからなわけですね。
思うに、人生における重要な決断にも同じことが言えるのです。実行するときには最早、自分にはこの選択しかないという確信を持っている、決断の瞬間というのはすでに過ぎ去っています。「まだ」と「すでに」はあるけど、決断の瞬間はとらえられない。それが先験的選択です。
僕らはものすごく性格の悪い人にあったとき、あれは先天的だなと考えることがあります。でもカントは、それは誤まった推理を含んでいると言います。なぜなら「先天的」と「悪い」は本来並び立たないはずなんですね。良い悪いという判断は基本的に選択したものに対する評価です。男であることを悪いと言われても困りますからね。良い悪いという判断が可能なのは、後天的な要素に対してなわけです。つまり「先天的に悪い」は本来成り立たない。これに整合性を与えるにはどうしたらいいか。いささかこじつけ的ですが、生まれる前に選択した性格が間違えだった、先験的選択が悪かったという考え方であれば可能です。
続いてもう一つ例を挙げます。評論家の芹沢俊介に「イノセンスが壊れる時」というエッセイがあります。芹沢さんは、子供は生まれたときはイノセンスなのだ、この世に存在すると言うことに対して無罪であり、責任はない、と書いています。ですから、その後の人生で悪さをしても、大もとの生まれてきたことに責任がないんですから、イノセントであるというわけです。これを自由で責任を担いうる存在にするためには、教育によって書き換えねばならないと芹沢さんは言います。お母さんに怒られたときに子供は「僕が悪いわけじゃないもん」というイノセントな言い方をします。こういうときに普通の親は「いや、お前が悪い」と叱って、親の価値観を押しつけるわけですが、それじゃあダメだと言うわけです。子供が表出するイノセンスをすべて肯定することが、逆に子供を責任ある主体へと書き換えていくんだと言います。
それはどういうことか。芹沢さんはそれを養子縁組の親子で説明しています。親子関係を築き上げなければならない養子縁組の親子において、イノセンスはどうやって克服されるのか。養子縁組で重要になるのは真実告知です。真実告知は、まず養子縁組である事実を告げる、そして私たちがあなたを選んだと告げ、3番目に私たちは満足していると告げる。この3段階ですべきだとされています。ここで大切なのは2番目の言い方なんですね。決して理由を述べてはいけないとされています。あなたが一番賢そうだったからと誉めても、じゃあもっと賢そうな子がいたらどうなんだ、となってしまう。ですから決して理由は告げてはいけないというわけです。条件を付けるのではなく、すべてを肯定する。そのことによって子供は自由を獲得できるのです。
自由の条件
では、一体自由とは何なのか。ただ選択肢を与えれば人は自由になれるというわけではないことは、ドームの扉で語りました。人間が自由な主体になるためには、ある一つの重要な操作が必要になるんです。それは、他者がその人の存在を1 0 0 % 承認してあげること。僕にとって、僕がココに存在しているという事実は選びようがありません。この必然でしかない自分の存在を、他者が1 0 0 % 肯定してくれることが、人間が自由で責任を担いえる主体になるための、決定的なキーなんです。
なぜなら、他者は僕の存在を選ぶことができ、そして僕は、その他者による承認を自分のこととして内面化することができます。それによって僕は、自分がこの世に存在することを肯定できる。それが自分の運命を引き受けるということなんです。
先ほど紹介した2つの実験は、人間がいかに他者に影響されやすいかを証明する実験として紹介しましたが、他者に影響されやすいということは、他者の選択を内面化できることを証明しているとも言えます。ですから、あの実験自体もポジティヴなものとして読み替えることができるわけです。
そして最後に、最初の疑問、選択肢がこんなにたくさんあるのに閉塞感を感じるのか、へ戻ります。現代社会において、たった一人で自由であったとしても何の意味もありません。自由とは社会現象なんです。他者の選択を内面化する構造があるから、自由がある。つまり自由とは他者との関係性なんですね。一見、他人の存在は自由にとっての足枷のように見えますが、実は他者抜きに自由はあり得ないわけです。
自由は他者との関係に宿ります。自分にとっての大切な他者、恋人だったり子供だったり伴侶だったり、その人のために何かをしたいと思うこと、それが私にとっての歓びだとすれば、それは自らの選択であり、そこには自由が存在するのです。これはあくまで卑近な例ですが、これを国家レベル政治レベルに当てはめて考えれば、新しい自由の姿を想像できるのではないでしょうか。 |