総括討論
[人間の尊厳は崩壊する、か]

内田亮子×國吉康夫×内海健×下條信輔×タナカノリユキ


(↓画像をクリックすると拡大します)





■下條 それでは総括討論に入りたいと思います。まず最初に落ち穂拾いなんですが、内田先生のレクチャーで暴走タイプ2のところの説明が駆け足になってしまったので、簡単にそこを説明していただきます。
■内田 暴走という言葉を使ったのですが、人間が暴走していると思われることの種類に2タイプあると考えています。タイプ1は先ほどお話ししたように、肥満やアレルギーのように、過去の環境の問題点を技術などでクリアして、より快適な環境にしたからこそ起こったタイプです。
一方、暴走タイプ2とは、人間のユニーク性によって起きているもの。その要素は、言語であり、文化を蓄積することであり、ということです。これは動物とは全然違う異次元のものとして出てきたのではないかと考えられます。言語とか文化蓄積の認知機能を獲得したことによって、解き放たれたように暴走している人間というのは存在しているわけです。
では、言語や文化蓄積は進化生物学的に説明できないかというと、説明できるというのが今の進化人類学の立場です。それがexaptation。これは自然選択によってある機能が獲得されたとして、その機能が違う機能に変化する、あるいは新規の機能を獲得する、そういう過程のことを言います。
こうしたエグザプテーション的な進化というのは、いろんな動物で起こっていて、たとえば鳥の羽はそもそもは飛ぶためのものとして進化したのではなく、保温のために出てきたものがエグザプテーション的な進化を遂げて、飛ぶという機能を持ったわけです。またほ乳類の授乳システムもそれに当たります。ですから、鳥が空を飛ぶこととかほ乳類が授乳する子育てをすることは、それまでの動物から見れば異次元に突入したような状況なわけです。そういうエグザプテーション的な進化を経て、言語や文化蓄積が可能になるような認知機能を獲得し、そこから違う形の暴走を開始したと考えるわけです。
■下條 人間の暴走のユニークさとはとくに暴走の度合いが強いのか、制御が外れるという話なのか、そのあたりはどうですか?
■内田 暴走の度合いもあるんですが、タイプ2の暴走の場合では、人間以外の動物では、彼らが知らない暴走が起こったわけです。人間以外の動物ではみられない。さきほどもお話しした「希望があるさ」暴走は、他の動物とは程度とともに質的にも違うかもしれません。
■下條 なるほど。暴走タイプ2というのは異次元への突入なわけだから、その異次元がどのような次元なのかは、動物種によって違うということですね。それでは以上がフォローアップということで、次に移りたいと思います。次はゲスト同士の討論をさまざまな組み合わせでお願いしたいと思うんですが、まず、心のは近い将来消滅する可能性もなくはないと仰った内海先生に対して、他人の心の理解というキーワードを入れて内田先生、いかがですか?
■内田 先ほどバックステージで、内海先生と心の定義をという話をしていたときに、心の理論を出されたんですが、それを少し話していただけますか。
■内海 心の理論というのは、サリー・アン問題が一番プリミティヴな問題です。簡単に説明しますと、人形遊びをしていたサリーがお母さんに呼ばれて、人形をボックスの中に入れて、お母さんのところに行ったと。そこにやってきたアンがいたずらをして、人形をタンスの中に隠した。では、戻ってきたサリーはどこを探しますかというきわめて単純な問題です。発達障害の場合、これをクリアするのにちょっと遅れる。
■下條 健常児では4歳だとクリアできないけれど、5歳になると過半数がクリアできるようになる。ところが発達障害の子供はできないということですよね。
■内海 そうです。心の定義という話になると、一般論でお答えするのは難しいですね。先ほどの森岡先生の話での中では、ギリギリのところで心が出てくる場面がありました。要するに罪悪感ってやつです。200年長生きできる、あるいはまったく痛みを感じなくなるクスリがあったときに、自分は罪悪感を感じずに買えるかどうかという問いがあったと思います。臨床場面で最近注目されているものとしては、PTSDにおける「生存者罪悪感」というのがあります。
PTSDの方というのはもちろん被害者です。しかし被害者であるにもかかわらず罪悪感を持つのです。最初のうちこれは、生き残ったことに対する罪悪感、つまり他に死んでいった仲間がいるのに自分だけ生きて帰って来てしまったということで説明されていたのですが、単独で被害に遭われた方、たとえばレイプの被害者の方でも起こるわけです。これは必ずといっていいほど起こる。この罪悪感はいったい何なのだということです。とんでもないことが身に降りかかった被害者なのに罪悪感を抱く。これが、ギリギリのところで出てくる、合理性に解消できない心というものではないでしょうか。
■下條 つまり内海さんにとっての心というものの、もっとも純粋で直感的な例が今の罪悪感というものであると。しかも自分が単独の被害者であるのに生まれる罪悪感。つまり過去の他者が関わっているような、そういう罪悪感に一つの心の純粋ケースを見ると、この罪悪感が消え失せるケースというのは想定はできると。非常に好ましいかは別だが、想定はしうるという意味でお話になったのかなと思ったんですが。
■内海 はい、そうですね。
■下條 内田さん、いかがでしょう?
■内田 それって共感という能力と関係していると思うんですが。つまり、他の人が考えているということを想像してしまう。自分が考えて当然の心だけじゃなくて、他の人が考えているであろうことも理解する。
■内海 だからそこで一生懸命、心理学的に理解しようとするんですね。それで結局患者さんは救われないことになってしまうのです。罪悪感がどれほど激しいものかというと、アウシュヴィッツで生き残ったパウル・ツェランやプリーモ・レーヴィは、ツェランは詩を、レーヴィは小説を書いて、一定の成功を収め、その後で自殺した。こういう何というか、ゴーストのようについて回る罪悪感ですね。これはなかなか心理学的な説明を寄せ付けないところがあると思います。
■下條 ここからは、発達の話をもうちょっとしたいと思います。國吉先生が非常に説得的な話をされたので、内海先生が言われた発達障害のケースとか、過去の影という話とどうかみ合うのか。どうでしょう?
■國吉 はい。なんか勝手に敵味方に分かれさせられてますが、実は内海先生のお話は、最初のうち私にはすごい難解だったんですが、下條さんが発達の話に引き寄せて話されたところから何となくわかった気がしています。僕はレクチャーの中でも、本質的に発達し変化するシステムであるという理解が必要だと申し上げたんですが、そうするならば、今現在どういう心の動きをしていても、それは過去から積み上げられたシステムが全部同時に機能しているという理解なんですね。そう思えば、過去の家族との付き合いが今に影響しているとか、一番最初の自我の気づきのときの現象が、ずっと後になってから大きな影響を持つということは、非常に理解しやすい。ですから、発達するシステムというふうに考えると、そこは非常に納得できてしまう。
■内海 私が驚いたのは、國吉先生がロボティクスの中では、どちらかというと少数派というお話でした。同時に創発モデルと言うのかな、外に設計図があってそれに合わせていくというのではなく、内発的に何が生み出されているかを見ていらっしゃるというのを知って、非常に勇気づけられました。
國吉先生は実験でお忙しいでしょうから無理は言えませんが、私はもうちょっとできの悪いロボット、それこそ奇形的なロボットを作っていただきたいというのと、相互的に、ロボットが他のロボットの回路を自分の中に組み込むというような構想を持っていただければなあと思います。それからもう一つ。最初は神の一撃のように設定してもいいのですが、そこから先はロボット同士で何とかしろというような、そんなことを考えていました。
■タナカ 僕はお二人にぜひ聞いてみたいことがあって、國吉さんが、究極的に人間に近いロボットができたとしても、そこには微少のズレがあるだろうと言われたことと、内海さんの心が消失する可能性があるというお話は、僕にとってはとてもよく似た状態のように思えるんですが?
■國吉 端的なことを言うと、僕は中も見ますから、作って動いていって人間っぽくなったとしたら、中を調べます。そしてそこまで含めた上で、人間と何が違うんだろうということを考えると思います。クオリアや森岡先生の倫理の話もそうなんだけれど、主観の問題に行ったときに、そこは科学ではできないじゃないか、外部からの観察では区別できないじゃないか、という話になりがちなんだけれども、僕はそんなのは限界ではないと思っていて、科学のやり方を変えなくちゃいけない話だと思っています。
ではどう変えるか。たとえば対象系と自分の間に相互作用を発生させて、その中から自分が意識と言うべきものを定義して、それを検証するというのは、構成的に可能なんです。それは内海先生のさっきのご指摘にも関係しているんですが、ロボットを人間の中に放り込んで、そこで生活したときに、そこでではこのロボットに意識があると言えますかと言うのは可能です。これをそのまま今の『SCIENCE』や『NATURE』に送っても、サイエンティフィックじゃないと言われて載らないと思います。だけど、そんなことを言っていたら科学はもう終わりだと思っていて、新しい方法を作っていくべき時期だと思っています。
■下條 内海先生、今のお話と先ほどのタナカさんの質問とを含めて、いかがですか?
■内海 要するに心はあるアサンプションがあって子供に伝達されるものですから、消える可能性は十分にあると思います。「せーの」でないことにすれば、なくなる可能性はありますよね。これは否定できない。
クオリアの話でも心が言語と密接な関係を持っていることを示しましたが、人は一旦獲得すると、言語を道具だと思い込んでしまいます。しかしこの考え方はまちがっています。言語はよくインストールされるなどと言われますが、そうではなく私たちの身体をほとんどフォーマットしているわけです。身体とは完全には一致しないけれども、しかしほとんどの経験を構成しているものと捉えることができると思います。
■下條 フォーマットするという意味は、知覚や認知の様式も定義するということですよね。もっと言ってしまえば、何が実在するかも定義すると言うことですね。
■内海 そうですね。それほど深く身体の中に入っているんだけれども、発達障害的な事例を見ていると、言葉をあたかも道具のように扱う人がいます。それが、彼らの苦しみでもあるわけです。彼らはしばしば実感がないと言って、実感を探そうとして言葉を尽くすのだけれども、探しているのは、本当は道具としての言葉の手前の問題なんですよ。だから言葉は空転してしまう。
今日は神様の話が出てこなかったんですが、歴史的には、いわゆる形而上学的な革命というものが2回起こったとされています。厳密には3回かもしれません。まず一神教というものを世界規模で作ってしまったこと、次に一神教の神、キリストを殺害したこと、3番目にもう一度神は殺される、これはニュートンによってですね。ニュートンが拓いた世界というのは、結果的に神を殺害してしまった。つまり神なしでも動ける世界にしてしまったわけです。そこからの2世紀がミシェル・フーコーが言う人間の時代というやつです。つまり神の機能と神を殺害した罪をを自分の内に取り込むということです。問題はこの構図が今、成り立っているのかどうか、ということなんです。いわゆるポストモダンと呼ばれる時代精神とも重なってくるのですがど、それと発達障害の事例が増えてきたことはまったく無関係ではないと、私は思っています。
■下條 タナカさんの質問をよく考えると、國吉先生が直面している問題は、一人称の心の経験、クオリアみたいなものに構成論的にどうアプローチするかということ。そのときに新たなサイエンスの方法論を創出しなければならないかという問題ですね。でも内海さんが直面している問題は別のことだろうと思っています。心というのはもとより伝搬するものであるという前提で、むしろ今の時代の心というものの感覚の中で、社会性と言われている部分。その部分が心についてのセカンダリー的なものではなくて、そもそも起源に当たる根源的なものであるということをどうやって深く理解し、世の中の誤解を解くかとか、病気の理解に役立てるかということもあると思う。その両面があるんだろうと思います。
國吉先生にもう一点、聞きたいことがあります。現状では細胞は作り込むほうに入るのか、創発できないのか、どうなんでしょう?
■國吉 今は細胞やニューロンでさえ、本当のところ、その特性の何が効いているのかよく理解できていない。だからとりあえず、今の理解できるもの全体として入れてしまおう。身体も同じで、大事な特性と思われるものはできるだけ緻密に入れよう。なぜなら、それは理解できない対象だからなんですね。それがどういう相互作用を生み出し、また制約を課すのか、そこを理解するのが緊急課題だから、なるべく全体像を入れることにしています。それがわかってきたときには、それはもしかすると分解、つまり還元できるのかもしれない。実は最低限、これだけの制約さえあればニューロンそのものがなくても、ここまでは等価なことが起こるかもしれない、ということは言えるかもしれない。端的に言えば、材料が違うもので、ある観点からは人間ですと言えるものができる可能性はある。
■下條 非常に正直でかつ謙虚なお答えなので、応援団的に言えば、それでもなおあれだけのことができているじゃないかというのが強みで、われわれ専門外の人間が思っている以上に、中枢神経系からのトップダウンのプログラミングがなくても、自己組織的にこんなところまでできたというズレが大きいと思います。では次に行こうと思いますが、内田先生何ありますか?
■内田 先ほど発生発達の話が出てきていましたが、皆さん、生まれたときの人間の心がタブラ・ラーサではないという共通認識はお持ちですよね。私は、時間軸、そして下條先生がよくお使いになる来歴のとらえ方の問題だと思うんです。たとえばコウモリの気持ちに私たちがなれるかというと、人間の数百万年の来歴を持った脳を持ったまま、コウモリにはなれないだろうという議論があると思います。生まれてからの時間も大切なんですが、人間には生き物として40億の歴史があるわけで、その来歴を埋めることができるならば、完璧にハイ、人間と言ってもいいようなロボットが出てくるかもしれない。ですが、私はその来歴に関して、私はその長い時間軸の来歴が非常に重要だと思っているのですが、國吉先生はどうお考えですか?
■國吉 今のご指摘はかなりトドメを刺しちゃうもので、痛いわけですけど、ずっと意識はしてきた問題で、だからこそあえて踏み込まずに来たんです。つまり、私はかなり個体の発達、自立性というものにフォーカスしてきていて、なぜかというと、そこから踏み出した瞬間に進化の全体像を語らなくてはいけなくなって、それは到底私の一生では無理だということで、ある種悲しい見切りをしているんです。だけど、答え合わせを繰り返すという話も関係しているんですが、だから身体がどんな情報を持っているかを理解しようとしている。身体と言ったときに、先ほどタブラ・ラーサじゃないとおっしゃったものが全部入っているんです。つまりわれわれが発生の最初から、あるいは発達過程の中で与えられている制約は何なのかということですね。それは全部なければダメなのか、いくつかあればいい線行くのか、そこを理解したいという意味です。この話はそのくらいで許していただければ(笑)。
■下條 じゃあ続いて、先ほど手を挙げていらっしゃったお話を國吉先生どうぞ。
■國吉 暴走や奇形という話について、私も少し言いたいことがあります。私の浅いアナロジーで考えると、ソフトウエア的な話なのかハードウエア的な話なのかというのがあって、それとなぜ私が身体性にこだわっているかということも関わるんですが、人工知能の研究の歴史の中では、知能の働きを言語的に記述し、それを動かしていけばいずれできるだろうということだったんですが、何かが違ったわけです。中で起こっていることの意味づけは結局、書いた人が決めていて、しかもその動作を書いた人は解釈しちゃわないと成立しないんだということになっていて、だから身体はないとダメなんだという話になったわけです。
今、人間の特異的なところというのは、身体の拘束が薄いところかもしれないし、言語的なやりとりや蓄積のところで、膨大なインターラクションが積み重ねられていって、文化とかいろいろなものができている。ただ、創発過程ではもちろんどんな構造だって発生するわけです。放っておけばどんな構造だって出てくる。だけれども、果たしてそれは何か意味のある構造かどうかというのが実は重要で、そこで私は身体性という言葉で象徴されるような、ある一貫性のある制約が不可欠だと思っています。それがあるから、いろんな構造が出てきますが、ある意味とか一貫性が出てくる。
下條 でも今のところは研究者が、意味のあるものを選んでいるんですよね。
■國吉 ええ。でも自然が生み出した身体は多分それを持っているはずで、それが何かにもつながる。で、言いたかったことは、そうやって人間はかなり遊離しているように見える文化を作り、しかも精神疾患が生み出されるようなそういう状況ができてきている。それは完全に遊離しちゃってる話なのか、それともまだ希望を持てるような有意義な制約の下に動いているのか。そして人間はこのまま放っておいたら、とんでもなく無意味なものになって崩壊して行ってしまうのか、あるいは、ある有意義な制約を進んでいけば、構造が豊かになっていく可能性もあるわけで、その分かれ目はどうなんだというところを考えたいなと思っています。
■下條 大雑把に言うと危機感は共有しているように思いますが、そろそろ時間がなくなってきたので、タナカさんのほうから何かコメントお願いできますか。
■タナカ いや今の話に関しては、僕はぜひ内海先生に答えてほしいと思うんです。今の國吉先生のお話をどう思われました?
■内海 先ほどタナカさんがロボティクスと私の発達論が逆の側からアプローチしているんじゃないかとおっしゃいましたが、その通りだと思います。もちろん、歴史などの蓄積の上に成り立っているのもたしかなんだけれども、一方では歴史は終わっているという認識があるわけです。
■下條 その場合の歴史というのは、過去の行為を記載して未来への示唆を得ようとする歴史のことですか?
■内海 ええ、そうですね。ただ、歴史が終わったという認識に対して、われわれの世代はまだ抵抗があります。しかし若い世代はかなりそう感じている。もちろん内田先生の言うような人類史的に背負っているものは切れないと思います。でも、自分の来歴とか狭い意味での人間の歴史から切れても生きていける人種が増えていると思います。
■タナカ まったくその通りだと思います。
昔は人生に目的を求めなければいけなかったけど、目的がなくても生きていけるようなことになっている印象があります。ただここで言う暴走というものが出てきたときに、そのまま加速して暴走するだけでいいのか。逆にそこから希望だったり、もう一つのバイアスとしての人間観が出てくるのか、というあたりに僕は興味があるんです。
■内海 私自身、まだ模索中なところがあって、迷いながら診療を続けているというのが実際のところです。ただもはやないというところから始めないと、若い子の臨床はできないと自分に言い聞かせていますね。
■下條 面白いお話なんですが、時間がなくなってきたので、ここで私の発表の時間をください。実はこの話を見つけて私は衝撃を受けたんですが、学習には脳神経系は必要としないという話があるんです。
それは粘菌なんですね。昔は動物か植物かわからない不可思議な生物として菌類に入れられていましたが、現在ではアメーバ状の栄養体と胞子をつくる子実体の両方を持つ原生動物の一群として理解されています。大事なポイントは粘菌が脳や神経を持っていないことです。たとえば迷路の先にエサを置いておくと、粘菌はいろんな可能性をパラレルに試しながら、エサに近づいていくわけです。その振る舞いは子供を迷路に入れたときとよく似ています。この話がどこにつながるかというと、たとえば分散型知能ですね。また最近読んで感心したのはアリの巣には食料庫と墓場があって、その2つには空間的な複雑な制約条件がついているということ。そもそも墓場があることに驚かされます。またかつての心理学では賢い小人が脳内にいて難しいことはすべてやってくれていると言われていたものが、ニューラルネットが身体とうまくつながっていればできるという話になりつつある。
このように知能の創発、自己組織化と同時に、そもそも知能という言い方が危ないかもしれないというところまで行ってしまっている。これをなぜお話ししたかというと、たとえば現代の知の巨人たちが、こういう分散型、自己組織型に目を向けていたり、またインターネットゲームの多くはこういう構造になっていて、まさに文化として爆発しつつある。そういう状況を見たときにふと、これはデカしたのか、この程度に過ぎないのか、どちらなんだろうと思ったわけです。ある意味それは両方当てはまるんですが、このことがつまり、今日のイントロでも言いましたが、神経科学や心理学が時代の人間観と切り結び、それを崩壊させかつ再構成しようとしている、その瞬間をうまく捉えているように思ったわけです。
今回のルネッサンス ジェネレーションでは、サイエンスと世の中の狭間に落っこちている、暗黙の了解や暗黙の問題を拾い上げて、現在のサイエンスが人間観に対してアプローチしている形をできるだけ輪郭を明確にしつつ、皆さんに提示するということをやろうと考えたわけです。それでは、最後に一言ずついただいて、終わりにしたいと思います。では内田さんから。
■内田 人類学には人間観に対して酷いことをやってきた歴史があります。私はそれを踏まえて、人間を科学的に理解するということを、社会の人たちにわかっていただくということをできればと思っています。今日それができたわかりませんが、ありがとうございました。
■國吉 下條先生の粘菌の話を私の言葉で言えば、情報構造がそこにあれば、それは活用される。で、それは脳神経という形で具現化するかもしれないし、ケミカルなプロセスで伝えられることもある。重要なのはそういう情報の構造があるということ。そのことは人間を相対化するのではないかと思います。そして森岡先生が今日話されたような議論には、人間は変わらないものだという暗黙の前提があるような気がするんです。でも倫理観や正義は未来永劫変わらないものなのか。可能性はたくさんあるんじゃないか。そこをフリーにして考えて、未来の人間はどうなっていくのかを議論するのは大事だろうと僕は思っています。
■内海 動物と人間の差、ロボットと人間の差、これらの差異がだいぶ縮まってきたのかなという印象を受けました。ただ内田さんが話された最後に残された希望、パンドラの箱はまだ健在なのかもしれません。人類というのはものすごく狭い道をくぐり抜けて来たわけですから、何とか希望をつないでいかなかなければと思います。
■タナカ 今年もまたはっきりとした答えのようなものは出ていませんが、それがルネッサンス・ジェネレーションであり、もし答えを出したとしてもそれは無痛文明へのワナかもしれません。その意味では、今年僕らがやろうとしていた「ミもフタもない話」というのはけっこうできたんじゃないかなと思います。ありがとうございました。
■下條 半日の長きにわたりお付き合いいただきありがとうございました。先行きが見えない現代において、もしかするとアンテナを張るヒントくらいにはなるのではないかと思います。ありがとうございました。










close