ビデオレクチャー
[無痛化する未来身体]

森岡正博
大阪府立大学人間社会学部人間科学科教授/哲学者・物書き


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ーーテクノロジーが与えるもの、奪うものとは?
■森岡 テクノロジーは往々にして、人間を不思議な罠に追い込んでいきます。それは何かというと、われわれの目の前の痛みや苦しみをテクノロジーで除去することを超えて、これから起きてくるかもしれない将来の痛みや苦しみも、あらかじめ先取りをして除去しようという方向に進んでいってしまうわけですね。私はそれを予防的無痛化と呼んでいますけれど、その予防的無痛化のようなものが社会全体に広がったら何が起こるか。痛みや苦しみを経験することで新たなものが見えてくることというのは、人間にとって実は大事なことじゃないですか。その可能性を人間から奪ってしまうことになるだろうと。苦しみを経ることで、新たな喜びを発見する、新たな世界に至る、それまで知らなかったような生命の燃焼を知る、そういった可能性をもすべて、人間から奪っていってしまうわけです。その結果どうなるかというと、人間は喜びを奪われていくだろうと。私は考えるわけです。

ーー無痛化は家畜化とどう関係するのか?
■森岡 家畜工場をイメージしていただくといいんですが、家畜工場の中にいるニワトリは果たしてニワトリとして幸せに生きているのかということです。ニワトリとして満ち足りて生きているかというと、とてもそうは見えません。環境だけ見れば、人工的に快適な環境を作り、外敵の脅威からも守っているけれども、その結果ニワトリは、おそらくニワトリの人生としては満ち足りていないと思うわけです。文明の無痛化というのは、家畜に対してやってきたことを自分自身に対してもするようになってきた文明ということです。自己家畜化という言い方もありますが、それをもっともっと巧妙にかつ精密に、テクノロジーの力を使って展開していったものを、私は無痛文明と呼んでいます。
ただここで大事なことは、簡単にはわれわれがそこから逃げられないということです。なぜなら、われわれの非常に深いところにある欲望が、実はその状況を求めているからなんですね。目の前の苦痛はなるべく除去し、そして快適や快楽を手に入れる、そういう欲望にわれわれは縛られているので、今の無痛化に進んでいる文明をどこかでおかしいぞと感じたとしても、簡単には逃れられない。ここに無痛文明の一番深い問題点があるんだと、私は思っています。

ーー科学が人を何かに還元して見ていることと無痛文明の関係は?
■森岡 関係はあると思います。人間を何か別のものに還元していくというプログラムで動いていく知があるとして、そういう知から見えない、死角のようなものは存在するだろうと思います。それは何かをひと言で言ってしまうと、私たちが今ここで、現に生きているということが見えなくなっていくのだろう、ということです。なので、関係はあると思います。
ただこの「ヒトはXXに還元できる、か」というテーマは、人間は動物に還元できるかとか機械に還元できるかという問いですよね。哲学者として言わせてもらうと、この問いそのものがちょっと不思議に聞こえる。なぜなら、そもそもサイエンスとは、世界や自然や人間といったものを何かに還元して考えていこうとするプログラムだと思うんですよ。そのプログラムに従って進んでいるわけですから、人間は機械であるとか人間は動物であると押さえていくことに、私は何の不思議も感じません。この問いだと、自明のことを尋ねているように思えます。ただ「XXでしかない」、つまり「人間は機械でしかない」「人間は動物でしかない」と言ってしまったときには、問題がおこるでしょう。「ホントに機械でしかないのか」というふうに。ですから、私でしたら「ヒトはXXに還元しきれる、か」という問いを立てますね。その問いに対してなら、「還元しきれる」「還元しきれない」という答えが想定できると思います。で、そのときにもしも「還元しきれる」と答える科学者がいれば、その人にはこう言いたいと思います。あなた自身の今研究しようとしているエネルギーも情熱も、それで還元できていいんですねと。もっと言えば、今、研究者自身が生身で生きていることさえも還元しきれると言うのなら、どうぞあなたのセオリーで説明しきってください、ということです。そしてもしもそういう主張をする人がいたとすれば、あなたの主張を含むすべての世界は私に還元できると言うでしょうね。何が起きたとしてもその瞬間に、私は認識しているわけで、私の認識に還元できるんですよ。

ーー家畜化を享受しつつ欲望の追求を続ける人間を前に、空回りしない解とは?
■森岡 空回りするしかない、というのが私の解であり、テーゼなんです。われわれは無痛化の波と闘うしかないんだけれども、その闘いは負け続けるしかない闘いである、というのが私の結論です。つまり勝てない。勝てないから負け続ける、負け続けるけれど闘いを挑み続ける。それでも負け続けるというね。無痛文明に勝つ闘いを模索すると、自分が無痛文明になってしまう。ここに大きな不思議な構造があるんです。
もしもそこに一つの可能性があるとすれば、挑み続けていく中から、われわれが落ち込んでいる穴ボコ自体が解体されていくことを目指すしかないと思うんです。穴ボコの形が無痛化の形をしていたら、それと闘ってもわれわれは勝てない。しかし勝てないから止めると、より深みに落ちていってしまう。ですから負けるしかない闘いをやり続けていく中で、無痛化が問題だという問題設定そのものが消えていくような形を目指すしかないだろうということです。ただこれは一世代では無理なので、負け続ける戦いをいかに受け渡していくかが無痛化の中でのテーマになるというのが、私のとらえ方です。

ーー生命延長と無痛文明論について?
■森岡 遺伝子や脳に関するテクノロジーが今後進んでいくとすれば、われわれは寿命を延ばすことができるだろうと。そうなったときに、それはいいじゃないかと言う人がいるわけです。100年どころか、1000年、2000年と寿命を延ばしてゆく。そして延びた寿命は老いずに若いままで延びる。それが可能だとするとすべての人にとって朗報だから、どんどんお金をつぎ込んで研究すべきだと言ってる人たちがいる。
この話は面白い問いで、いわば不老不死なんですよね。不老不死は人間の文明の目標だったと言われれば、たしかにそういう気もする。もし一般の人に、科学の進歩のおかげでついに不老不死が達成できるかもしれませんが、いかがですか?と訊ねたら、嫌だと答える人はほとんどいないだろうと思う。けれども今、生命倫理の議論の中で、不老不死を追い求めるのはよくないんじゃないか、という立論をしている人たちがいるんですね。私はこれは非常に興味深いと思っています。
これは無痛文明論ともすごく関わる話なんですが、私自身、もし不老不死の技術がああれば手を出すと思います。でも手を出すことに何らかの悪が含まれているという直感は、拭えないんですよ。そしてその悪は何だということを言葉にしたい人が少数派ですが、いるんです。私もそう。ただこれは、なかなか言葉にしがたい。けれどもそこを考えることで、テクノロジーが進んで長生きできるようになるという事実とその価値を突き詰めていけると思います。
ここで最後まで引っかかってくるのは、たとえばこういう問題です。寿命がどんどん延びると、われわれはアンチエイジングを毎日やるようになって、そして2000年とか生きて死んじゃうんですよ。もしもみんなが70年で死んでたときなら、そんなに嘆かずに死ぬことができたかもしれない。しかし長い寿命を選ぶことができるようになったら、常に選びながら長生きをしていく。そうすると、5000年がんばったのに明日、死なねばならないとなったときに、死は圧倒的に受け入れがたい存在になるだろう。なぜなら、死にたくない長生きしたいという欲望をテクノロジーによってたきつけられ続けてきたから、最後にそれがダメになったときの不幸は想像を絶するほど大きくなってしまう。
ドイツ系の哲学者にハンス・ヨーナスという人がいて、彼はこう言っています。「死というのは人間にとって絶望だけれど、同時に恵みでもある」。それは死ぬ最期のときに、もっと長生きしたいというわれわれの欲望を消し去ってくれるから。私はこの言葉はすごく深いと思うんですよ。
テクノロジーによって人間は自己操作をできるようになっていく。自己操作はやはり自分の望む方向にしていきますよね。そこに孕まれているワナというのは、こっちに行きたいという欲望を肥大化させること。しかしその先に何があるかというと、その欲望でさえ最後には消さなければならないという現実。そのときに一番大きなしっぺ返しを食らう。そこまではコントロールできないんじゃないかという問題は、哲学の問題として存在すると思います。

ーー無痛化と幸福感について?
■森岡 現在でも脳に効くクスリってありますよね、気分を高揚させるクスリとか。それが将来もっともっと進んでいって、幸福感だけをピンポイントで高められるようなクスリができたとします。それはいいクスリかというとこんな話が言われています。
近未来の話ですが、お母さんが子供を連れて道を散歩していると。するとトラックが暴走してきて、お母さんの目の前で子供をはねて、子供は即死してしまう。お母さんはもう半狂乱です。するとそこに救急隊が到着して、魔法のクスリX。幸福感をもたらすクスリXをお母さんに注射するんです。そうすると何が起こるか。お母さんは幸福感に満たされちゃうんですよ。これをどう考えるか。そのときに何が起きるかというと、目の前で我が子が即死したにもかかわらず、その遺体を抱いて幸福感に浸りきっているお母さんというものを作れるようになるわけです。今、私は、非常に極端な例を話していると思いますけど、多かれ少なかれ、われわれはこういうことができるようになっていくわけです。
これがどういう状況かというのはすごい難問で、幸福感に浸っているのならいいじゃないかと捉えることもできなくはない。でもこれはニセの幸福だろうというのが、今の時点の常識的な反応だと思います。
ここで何が問われているかというと、幸福と幸福感は違うんじゃないかという話です。哲学では昔から問われていた問題ではあるけれども、現代的な状況の下でよりくっきりと浮かび上がっている。しかしこの違いもまた、言葉ではなかなか説明しにくい。この場合、コンテキスト、文脈の問題が入っているだろうと。子供が死んだという文脈がなければ、ただ単に幸福感に浸っているお母さんがいるだけなんですね。ただその文脈を見ると、とても違和感を覚えるわけです。それはつまり、幸福の問題は人間の内面の問題だけではないんだということが逆に明らかになるんじゃないかとは言われています。ただこれはもっと考えなければならない問題です。

ーー哲学はXXに還元しますか?
■森岡 観念論をはじめ過去においてはさまざまありましたが、現代ではあまりないですね。それはサイエンスが「ヒトの本質はXXである」と言い始めたので、哲学の役割は、それは変だろと批判する役割になってきてると思います。

ーー無痛文明に負け続けた先に哲学は?
■森岡 無痛化が進行していくと、その先では求められる哲学はパターン化すると思います。わかりやすい文明批判こそが、無痛文明が求めているものです。それは無痛文明を加速させるわけです。ですから、わかりやすい反体制派にならず、無痛文明を脱臼させるにはどうしたらいいかというのは、非常に難しくて、私が負け続けると言っているのは、私がそういうことを考えているからなんですね。


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