基本レクチャー3
[ヒトの心は脳に還元できる、か]

國吉康夫
東京藝術大学保健管理センター准教授/精神科医・精神病理学


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みなさん、こんにちは。精神科医の内海です。今日「ヒトの心は脳に還元できる、か」というテーマでお話しします。ただ、私の話は迷走しがちなものですから、最初に結論を言っておきたいと思います。答えは「還元できない」です。
先ほどの國吉先生の発表でも「創発」というタームが出てきましたが、心は脳から創発したものです。そして創発するという概念自体に、還元できないということが含まれています。内田先生の発表に事寄せていえば、それには「暴走」ということが関連しています。人間において一番暴走した臓器は脳であり、その奇形的臓器が生み出したのが、心です。そこに創発のメカニズムがかかわっているわけです。ただ、もう一つの可能性があります。ノーベル賞を受賞した神経生理学者エックルスがかつて言ったように、心が外から植え付けられたものであるという可能性も否定はできません。
さらにもう一つ主張したいことがあります。それは、心は確かに脳には還元されないが、近い将来、消滅する可能性も否定できないということです。こうしたことを精神科医の立場からお話ししてみようと思います。
20世紀最大の哲学者の一人であるルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは、晩年の『哲学探究』でこんなことを言っています。「ヒトが回すことができても、それと一緒に他のものが動かないような車輪は、器械の一部ではないのだ」。この271節を通して読んでみるとこうあります。「<痛み>という語が何を意味しているかを記憶にとどめておくことができず、従っていつも別のものをそう呼んでいるけれども、それにも関わらず、この語の痛みの普通の兆候と諸前提に一致するように用いている、といった人間を考えてみよ! つまり彼は、〔痛みという語を〕われわれ皆と同じように用いているのである。ここで私は言いたい、ヒトが回すことができても、それと一緒に他のものが動かないような車輪は、器械の一部ではないのだ」。少し説明すると、何かとぶつかっても、「くすぐったい」とか「甘い」という感覚しか浮かばないけれど、その当人は顔をしかめて「痛い」と言う、そんな人がいたとします。ウィトゲンシュタインが問うているのは、これでも一応、人間としての営みはできるのではないかということです。彼は「他のものが動かない車輪」という言い方をしていますが、この余分なものが、まさに心に該当するものです。
この一節には、相反する2通りの解釈が可能です。すなわち天才ウィトゲンシュタインは、晩年になってようやく心というものに気づいたのか、あるいは、やはり心なんてなくてもいいんだと思ったのか。ここは両義的です。実際、彼自身、この2つの考えの間を最後まで行き来し、悩み続けた人であります。器械という比喩は、物理学的な世界観の中に心の住む場所はないのだと、心は世界の中の孤児なのだということを、言っているのかもしれません。先ほど國吉先生のロボットが、一生懸命起き上がろうとしている映像をみて、こちらも思わず応援したくなりました。そして倒れると「あ、痛そう」と思ってしまう。もっと人間らしくみえるように、顔をしかめて「痛い」と発声させれば、実際に痛みを感じていると思うでしょう。しかしロボット自身には痛いという感覚は生じていません。
ここで単純な思考実験をしてみます。
今スライドを見て皆さんの心に生じたものは、おそらく「赤」というものだと思います。赤の質感、クオリアが生じたわけです。ですがこれは、他人に確かめようがありません。隣の人に確かめようにも、自分の質感が他人と同じかどうかわからないし、他人がどう感じているかも確かめようがないわけです。もしかすると、隣の人はまったく違うように感覚しているかもしれない。しかしお互いに顔を見合わせて、「これ、赤だよね」と言えば、その問題は解決してしまいます。おそらくほとんどの人がそれで納得する。それでもやはり、隣の人にはまったく違って見えていて、それを赤と言っているだけなんじゃないか、という可能性は否定できません。
われわれは言葉を獲得することによって、世界の孤児であるクオリアの問題を棚上げすることができたと言えるかもしれません。通常、私たちは、赤のクオリアには「赤」という言葉が、青のクオリアには「青」という言葉が対応している、と考えがちです。ここでの赤も青も心の中に生じた赤と青です。外在的な対象とは思わないでください。ところがウィトゲンシュタインが示したことは、極端にいうなら、ある人が赤を見たとき心の中で青のクオリアが生じたところで、それを「赤」という言葉で表現していれば、それでかまわないということです。それで人間関係は支障なく回っていく。極端に言えばクオリアなどなくてもよいかもしれない。少なくとも、最初にクオリアがあってそれを名指すものとして言語があるという常識的な考え方は誤りであり、逆に、言語が設定されて初めてクオリアが生ずる、とも考えられるのです。

心はこの世界の孤児なのか?

この世界の孤児である心はどこに住んでいるのかという問いに対して、私は2つの候補を考えてみました。一つは何らかの遅延、遅れがあるところに隙間を見いだして、心は居場所を見つけている。もう一つは自然の調和が破れるところに立ち現れるものである。この2つです。
まず、遅延について。単純な生物で考えてみると、アメーバは刺激すればヒュッと引っ込むように、入力と出力が一体になっています。生物が進化するにつれ、脳神経系という器官が介在し、それが複雑化するにつれて、入力と出力の間に隙間ができるようになります。フランスの哲学者ベルクソンは、脳は中央電話局のようなものであり、入力がきたらそれをどの出力に繋ぐかを選択することが脳の役割である、と言いました。こうした脳神経系の複雑化によって生じてくる遅延が、意識が発生する舞台となる可能性があります。それを示すのがベンジャミン・リベットの有名な実験です。これは下條先生が翻訳されています。この実験結果は、脳科学者にとって避けて通りたいもののようです。しかもこの実験は脳外科手術中の患者の協力の下に実現したものなので、再現がなかなか難しい。
このグラフは、リベットの論文に掲載されたものです。末梢神経に刺激を与え、それに対応する大脳皮質部分に電極を置いて反応を測定したものです。リベットの測定によれば、こういう長い誘発電位が生じることがわかりました。なんと0.5秒かかっている。この0.5秒が、意識が発生するために必要な遅延というわけです。リベットはそれをいろいろなやり方で証明したわけですが、たとえば、この誘発電位をキャンセルするような刺激を与えると、被験者には知覚体験が起きないというのがあります。つまり刺激されたという感覚が生じない。ですから意識的に知覚するためには、0.5秒間の脳の処理時間が必要であるということになります。これは非常に驚くべきことです。もしも相手が逐一意識した上で行動するとするなら、私でも全盛期のモハメッド・アリにパンチを当てることができるということになります。意識というのはそれほどまでに生存に適応的でないものだということです。もう一つ驚くべきことは、後から被験者の人に、「いつあなたは知覚したか」と尋ねると、触られた瞬間に感じていたと答えたのです。つまり遅れは取り戻されいてるのです。意識は遅れる、が、意識はその遅れを後から取り戻すというか、遅れを逆利用する。言ってみるなら、後づけをしているのです。
もう一つの不調和について。これは、脳が暴走した奇形的臓器であるということと関連しています。もう一人の20世紀を代表する哲学者ハイデガーはこう言っています。ハンマーという道具を熟練した大工が使っていると、ハンマーは身体と一体になっている。ぴったりと調和した状態で、身体の一部のようである。ところがたまたま大工が打ち損じた。するとその途端に、それまで体の一部のようだったハンマーが、物のように感じられるようになる。ハイデガーは「そこで世界は閃(ルビ:ヒラメ)くのだ」という難解な言い方をしています。打ち損じをした瞬間、ハンマーが物として意識されると同時に、大工もまたふと我に返るのです。
その代表例が、他人に名前を呼びかけられる場面です。賑やかなパーティ会場でも、自分を呼ぶ声がしたら、ふと振りかえることができる。こういうところに、私が立ち上がる瞬間が再現されているように思えます。私たちの意識は、呼びかけられて立ち上がるようになっているらしい。呼びかけられた瞬間には、もしかすると初めて自分が立ち上がったときの原風景が忍び込んでいる可能性があります。最初の場面はもちろん記憶にはありません。私たちが初めて意識を持ったときに、私たちに呼びかけて自我を目覚ましてくれた他者は、もういないのです。
この、最初に自分を立ち上げてくれた他者が現れる病気が統合失調症、一昔前は精神分裂病と呼ばれた病です。ムンクの有名な『叫び』という絵をご存じでしょう。ムンク自身は統合失調症すれすれのところまで行った人ですが、あの叫びに描かれている人は、叫んでいるわけではなくて、耳に手を当てています。叫び声を聞いたのです。この呼び声は一体何だったのか。あの絵はもしかすると、私たちを最初に立ち上げた他者と出会ってしまった風景なのかもしれません。普段、私たちは他者に呼びかけられると、ハッと気づく。この他者は、潜在的には最初の他者とどこかで繋がっている可能性がある。それが顕現してくるのが統合失調症の病態です。自分の知らない自分の秘密を握っているような、不気味な他者が現れてくるということになります。
統合失調症は20世紀を代表する精神病でしたが、最近は随分と軽症化し、おそらく発生頻度も少しずつ低下していると思われます。この疾患が青年期と結びつきが強いことは精神科の常識なのですが、青年期は昔からあったわけではありません。人類史をたどってみると、中世ではちょっと働けるようになればもう大人でした。17、18世紀になると、社会に出るための準備期間が必要だということで、児童期が挿入された。そしてさらに心理的な準備段階として青年期が設定されたのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてです。この青年期に私たちは、社会に出て行くための自我を立てる、2回目の自我確立を行うのです。そのときにどこかで呼びかけてくる他者の声を聞く。大抵の人はやり過ごせるのですが、100人に1人の青年はその声に自我を射抜かれてしまったのです。しかし20世紀も後半になると、30歳まで青年と言われ、つい数年前には35歳だという説が出て、いまや40歳まで青年期が続いていると言われています。こうして自立への圧力が軽減されるとともに、この病も軽くなったのだと思われます。
結論的に言えば、心は、ただ心があるという想定だけにしか支えられていないのです。ですからもし、心があるという想定が困難であるという個体が、自然的、社会的選択の中で増えてくると、もしかすると未来において心が消滅するという可能性は、否定できないであろうと思います。




対論
内海健×下條信輔


■下條 非常に刺激的なお話をありがとうございました。ただやはり難解で、私も含めてもう少し理解を深めたいと思っていますので、おつきあいください。では最初に、冒頭部分で「創発自体が還元不可能性を示す」とおっしゃったと思うんですが、この部分をもう少しご説明ください。
■内海 では時計の例でお話ししましょう。ここに時計、柱時計のような物があるとします。それをバラバラに分解して部品に分けてみます。たしかに時計は部品で作られているのだけれども、分解したらどこにも時を刻む機能はない。ところが組み立てれば、そこにそれまでなかった時を刻むという機能が生まれる。これがポランニーの言っていた創発の定義だろうと思います。
■下條 つまり、部分品には還元できないと。
■内海 そうですね。
■下條 そうすると脳はある種、心を形成している部分だから、部分品には全体の機能は備わっていないということですね。
■内海 はい。それともう一つ、脳は奇形であって、出来が悪いというのもありますね。
■下條 なるほど。次に晩年のヴィトゲンシュタインのお話は私もとても興味があるので、もう少し伺いたいんですが、引用された部分はなかなか理解が難しいんだけれども、晩年のヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」も「哲学探究」だったと思うんです。一般的な解釈では、行動ないしは社会的なやり取りに還元できない、それとは独立した形で「意味」なるものが実在しているわけではない。そのことの例として、言語ゲームの話をしたと。そして、カブトムシの話。箱の中にカブトムシがいて、でもそれは誰も見たことがないが、それをカブトムシと名付けて、カブトムシについていろいろと語り合うことができるだろうかと。
で、内海さんは晩年のヴィトゲンシュタインの発言について、2通りに解釈できるとおっしゃった。普通の解釈だと、心などという怪しいものを想定しなくても、何か行動的で、かつ言語ゲームのような対人関係の間でのやり取りの中で、適応的に行動できるということだったと思うんですが、でも内海さんは、もしかすると晩年のヴィトゲンシュタイは、心が存在していてもいいという可能性に気がついて、それでいろいろな例を挙げたのかもしれないとおっしゃったと思うんですが、そんな感じですか?
■内海 はい、それでけっこうだと思います。
■下條 では「心は脳に還元できない」というレクチャーで、そのお話を引用された趣旨をもう一度お聞かせください。
■内海 ウィトゲンシュタインはおそらく迷っているわけです。なくてもいいんじゃないのかなって。
■下條 ああ、たしかにおっしゃる通りで、言われて僕も初めて気づいたんですけれど、ヴィトゲンシュタインは心の実在を認めてもいいが、非常に特殊な限局したものとしてなら認められるという立場だったと解釈もできるのかなと思いました。ただそれは、その解釈によって、心は脳に還元できるかどうかが変わるという意味ですか?
■内海 ウィトゲンシュタインは心というものに驚くわけです。そしてこの驚愕を何とかしなければならないと。
■下條 ああそうか。そこからヴィトゲンシュタイの病理学とか天才の病理につながっていくということですね。なるほど、なるほど。もっと言ってしまうと、重篤な自閉の人が晩年になって人の心の存在に気づくというのに近いかもしれないですね。そのお話と、赤と青という色味とその名前の関係のところの、言葉の問題にもっていくことでクオリアの問題を棚上げできるというお話とは、繋がっているわけですね。
■内海 はい、そうですね。
■下條 その言語とクオリアの部分をもう一度おさらいしていただけますか?
■内海 クオリアというのは私独自のものであるから、赤がスクリーンに映れば、赤が心の中に生じて、直示的に定義できるわけです。ですからその体験が先にあって、それに対する名付けがくるというふう普通は考えます。ただそれは、言語を獲得した側から言っているわけです。そこが問題で、言語というのは一旦獲得されてしまうと、言語以前という想定を勝手にしてしまうわけです。そこが、構造主義やポストモダニズムと関わってくるわけですが、言語以前のクオリアというのはあくまでも、言語が設定した次元だということです。後からできたものを単純に実体化するわけにはいきません。
■下條 非常によくわかりました。クオリアを支持する人は心が脳に還元できないという人が多いわけですね。しかしその立場も、クオリアを支持しない人も言語が後だという点では何となく似ていて、両方とも言語が先だという立場は切り落としていると。そして発達もしくは言語獲得の場面に、もろもろの起源を持っていくという戦略を、内海さんは採ろうとしているわけですね。
■内海 そうですね。こうした事後的な実体化は色々な局面で確認することができます。たとえば子どもが初めて対象というものを確立する場面を考えてみましょう。これは精神分析的な文脈でいえば離乳するときに当たります。その時、子どもははじめてお母さんを、単なる乳房ではなく、一人の対象としてとらえることができるようになります。ここで初めて経験の礎石が置かれることになります。
しかしわれわれはすぐに、それ以前の段階を想定して、実体化してしまいます。たとえばそれ以前は対象がばらばらの状態であるとか、よい乳房と悪い乳房に分裂していたであるとか、そうしたことが安易に言われますが、それはあくまで対象というものが確立した後で言うことが可能になったものです。そして離乳ということからおわかりいただけるように、対象が確立された時には、対象はすでに失われています。対象から引きはがされて、初めて対象を認識できる、こうした微妙なパラドクスがあるわけです。
■下條 今、2つのお話をされたと思うんですが、まず前半では、言語が成立すると、それまで実在していなかったものについて実在を措定できるようになるとおっしゃっていて、そのことがクオリアを生み出すという含意ですよね。そのお話は非常に面白いと思いました。ここでお客さんのために整理しておくと、クオリアというのは、たとえば赤を見ているときには、見ている人だけが経験する独特の赤みの感じを、感覚の絶対質としてクオリアと呼びましょうということです。なぜ絶対かというと、私に特権性があって、何人にも誤りだという権利がないから。そしてそのクオリアというものは往々にして、心が何かに還元できるかという立場に抗するときの、一つの牙城、あるいは心の孤立論、独我論の牙城になり、それを何とかしたいと思っているのは内海さんや私を含めて、とても多いと思います。
ただ私がちょっと残念だったのは20分という時間制限のせいで、鬱や統合失調の話をあまり伺えなかったこと。そういう意味では、他者と統合失調の関係、そして青年期をどう位置づけるかについての私のおおざっぱな理解はこんな感じです。つまり青年期において、他者からの呼びかけが再度ある。そのときにすでに実在していない過去の他者からの呼びかけに対して、どう対応するかで統合失調症が発症する可能性がある。ただ、今でもまだちょっと唐突に感じているのは、今目の前にいない他者が統合失調症の発症メカニズムに関係している点です。なぜかというと一般の理解では、統合失調症は社会性の障害ですよね。もちろん矛盾はしないんだけれど、社会性の障害にも関わらず「不在の」他者が関与しているという部分をもうちょっとご説明ください。
■内海 病気の話があまりできなかったのは時間の問題もありますが、今日の聴衆は一般の方がほとんどなので、慎重に話さないと誤解を招きかねないということがあって難しかったということもあります。
で、今のご質問ですが、一般的には社会性が障害されていくのが統合失調症の病理だと言われるのですが、発症する人のほとんどは、あまりにも他者というものに対して敏感すぎるのです。それが結果として自閉という状態、引きこもりになっていく。また彼らは社会に対して敏感すぎる故に、社会というものが診察室の中にまで入ってきて、たとえば私が話しかけても何も答えてくれないことがしばしばあります。なぜかというと、自分が話したことがどこかに伝わってしまうんではないかという不安を感じているからです。つまり社会というエージェントがプライベートなスペースまで入ってくるのです。他者に対する過敏性の問題と社会性の問題はとくに齟齬をきたさないと思います。ところで青年期の課題とは何かというと、それは個体化です。内田先生の話だと共通性と特殊性が動物の定義になるわけですが、近代の人間の課題は、「個」というものをどうするか。それが統合失調症の発症の心性と非常に深く関わっていると思います。
■下條 その健常者はこうするのに、発症する人はこうするという部分を。
■内海 独りで自立するというのは幻想なわけですよ。われわれは他者から呼びかけられて立ち上がっている。ですから他者はすでにビルトインされているんですね。でもそれは普段は気づきません。極端に言えば、われわれが言語をしゃべっているときにも、常に言語を獲得した場面が密かに反復されているという考え方ができるわけです。それと同じように、自立するときには最初の自我の立ち上げのシーンが蘇る可能性はあるわけだし、たとえば急に呼びかけられてものすごく驚いたときなどは、おそらくそういうメカニズムがチラッと現れているんだと思います。それが大規模な形で、自分がめくれ上がっていくような他者との遭遇というのが、おそらく統合失調症の場合にはあるんだろうと思います。
■下條 大変よくわかりました。気がつくともう時間がなくて、もう一点、基本的な質問を。心はラマルク型の伝播をするというのがよくわからなかったんですが。
■内海 蓄積という問題と関係があるんでしょうね。お母さんは赤ちゃんに対して、心があるという前提でずっと話しかけ続けるわけですよね。そうすることによって伝播されるんじゃないか。たとえばもしも発達障害的な心性を持つお母さんならば、ミルクは3時間ごとと言われたら、どんなことがあろうと必ず3時間ごとに与えるという対応をする人がいるかもしれません。そうなったときに、心はどうなんだろうと。
■下條 では最後にあともう一つだけ。これは私自身が50%くらいの時間は信じているんですが、心は脳の機能であるという立場についてはどうお考えですか? 私の場合、プロフェッショナルな私はその考え方に則って行動しているんだけれど、ラボから家に帰るとあれおかしいなと思うんですよ。何とかしてもらえませんか(笑)?
■内海 機能説ですね。たとえば胃は臓器であり、消化が機能であるのと類同に言ってるわけですよね、脳という臓器があり、脳の機能が心であると。
■下條 そうすることで生物学の中でとらえられるようにするとともに、主観を客観的にとらえようとしているんだと思います。
■内海 はい。ただ心は身体の他の生理機能と違って、だいたいネガティヴに働きますよね。適応的じゃないし、自分で自分を苦しめたりする。それによって文化が育つわけですが、暴走もするわけです。
■下條 その点で胃の機能とは違うと。なるほど。面白い。続きは総括討論でということにしましょう。ありがとうございました。


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