基本レクチャー1
[ヒト=暴走した動物]

内田亮子
早稲田大学国際教養学部教授/生物人類学・人類進化学


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ご紹介ありがとうございます。私は「ヒト=暴走した動物」というテーマでお話をさせていただきたいと思います。最初にいただいたお題は「ヒトは動物に還元できる、か」でした。それを見たときに、なんてヘンなお題なんだと思ったわけです。動物のほうがヒトより大きなカテゴリーですし、「還元」という言葉もヘンですし。そして専門上どうしても、「カラスやゴキブリは動物に還元できる、か」という問いを発するのか、という疑問を抱いてしまうわけです。当然、カラスやゴキブリは動物です。このお題はもちろん、ヒトならではの特異性があるからだということもわかっています。しかしカラスにだってゴキブリにだって、実はとんでもない特徴があるのです。
ですから、動物の特徴を考えるときに、私は共通性と特異性の両面から考えるべきだと思っていまして、それぞれの動物がそれぞれに進化を遂げて、それぞれの特異性を獲得したという考え方をします。では、ヒトはどういう特別な生き物なのか、という問いに答えようとすること、それを研究しているのが、私たち人類学者です。
もう一つ、このお題に違和感を持ったのは、「ヒト」という言葉に対する定義がわからないという点です。人類学者としてはその言葉の定義にこだわりがあります。私たちが言う場合の、人類とヒトとホモ・サピエンスと現代に生きている人間は、全然違う生き物なんですね。ちなみに人類は700万年の歴史がありますし、ヒト属は250万年、ホモ・サピエンスになりますと20万年、そして今生きている人間は、初期のホモ・サピエンスとはまったく違う行動様態を歴史の途中で獲得しています。もちろん、この会場にも昭和世代の人と平成世代の人がいらっしゃって、その2つの世代の間にも、全然違う生き物と考えてもいいような変化が生じている部分もあるんです。ただ便宜上、ここではヒトを、今生きている人間の集合体として考えることにいたします。
そうしたときに、ヒトの特異性はどこにあるかというと、人類学では「暴走している」という特徴がある、と考えるのが一般的です。但し、これからお話しする内容が、今、生きている人たち個人個人すべてに当てはまるわけではありません。人類学というのは全人類の個人間のばらつきを語るような科学ではなくて、人の特徴の傾向を分析するのが人類学であるというところを、ご了解ください。ですから、これから私がするお話は、現在生きている人間総体の傾向性についてのお話です。
私は今、「ヒトは暴走している」と言いましたが、生物全体ではどうだろうというと、暴走の制御メカニズムというものが存在しています。これは資源が有限であるとか、それぞれの歴史、そして共進化、つまり生物は他の生物と手に手を取って生きていること、に起因する原則制限です。そのシンボリックな例が、『鏡の国のアリス』で描かれたアリスと赤の女王です。二人は手に手を取って一生懸命走るんですが、気づくと元のところにいる。その場に留まるために、全力で走り続けなければならないという状況です。これが生物の性なんですね。生物は他の生物といろいろな関わりを持ち、影響を受け、また与えながら生きています。ですから自然界には、自分だけが突出して別の方向に走り出せないという制御メカニズムが備わっているわけです。それは身体の内部についても同様なことが言えて、どこか一部の形質だけが進化を遂げて特殊な形質を持つことも難しいわけです。
ですが、自然界には突拍子もないデザインをもった生物がたくさん存在しています。たとえば、クジャクのオスの非常に華美な尾羽は、クジャクの身体の中での暴走と考えることが出来ます。人間から見ればとても美しいものですが、彼らにとっては敵から逃げるときに邪魔になるようなものでもあるわけです。ではなぜそんな暴走が起きたかというと、学説によれば、それはメスの好みが反映されたからということになります。自然界では、オス同士の競争やメスの好みによって暴走してしまった形質がいろいろと見られるわけです。そのもう一つの例がオオツノジカです。
彼らは体に比べてとても立派な角を獲得したわけですが、結局は生存していくのに邪魔になって1万年前に絶滅してしまいました。同じようにサーベルタイガーもまた、長大な牙を獲得したわけですが、やはり絶滅に追い込まれてしまったわけです。このように過去において、暴走してしまったのではと思われる形質を持ってしまった動物たちは、往々にして絶滅するという結末をたどっているわけです。

暴走する身体、暴走する文化。

ではヒトの場合はどうでしょう。たとえばガウディのサグラダ・ファミリアは、2256年完成予定で今もなお作り続けられていますが、これもかなり複雑で華美で、上へ上へと伸びていった建築物です。ヒトには身体の暴走だけでなく、このような文化的な暴走もあるというのが、進化人類学的な考え方です。
ここではっきりさせなければならないのは、「文化」の定義です。進化人類学においては、文化はヒト特有のものではなく、動物も持っているものであり、社会学習によって獲得・伝播される情報と定義しています。では、ヒトと動物における文化の違いは何かと言えば、ヒトの文化には蓄積性があり後戻りしないラチェット的な傾向があるということです。そして多様化も非常に激しいものがありますし、中には一定方向に社会的に暴走した形、つまりより速い車やより高い建物などが見られます。
このような暴走は道具に多く見られますが、その原因は必要性ではないと考えられています。ちなみにエジソンはいろいろな道具を発明したわけですが、エジソン自身が、「その理由は、制作者や使用者の満足度の問題に尽きる」と言っています。要するに、道具という文化の暴走は、ヒトの心の暴走を伴っているということです。
ここで文化と人口増加の歴史を見てみましょう。このグラフの右端の急激な上昇曲線は、産業革命後の人口増加がいかに加速度的な暴走であるかを一目瞭然に物語っています。それによってますます特異な人間圏というものができ、ヒト以外の生命体をサービスの提供者のように使うようになったわけです。このようにしてヒトは死ななくなったわけですが、歴史的に見ればそれは最近のことなんですね。昔は新生児の死亡率は他の動物同様に高かったし、寿命もこれほど長くはありませんでした。またどのように生きるかという部分でも暴走が起きていて、子育てに対して多額の投資をするようになっていますし、しかも男女の産み分けを操作するようなことも始まっているわけです。但し、鳥などでも子供の性別を母親が操作しているかのような現象は見られます。
次に、心と身体の暴走について。この女性はかなり大きくなってしまっていますね。
肥満というのは暴走する身体のシンボリックな形だと考えています。ヒトの身体は、進化的な歴史を考えると、足りない食物の中でどうやって生き抜くかというシステムを作ってきたわけです。ですから、食物が有り余った環境の中で生きていくという制御システムができてないんですね。ちなみにヒトだけではなく、動物園のサルもヒトが暴走させてしまったりしてします。
では肥満化したらどうするかというとダイエット食品を食べるわけですが、ダイエット食品を食べるとまたさらに太ってしまうんですね。最近わかったことですが、胃の中に味のセンサーの遺伝子があって、舌は瞞せても胃の中までは瞞せないというシステムになっているからです。そして高カロリー食品を摂取することで、性成熟が早まってしまうような暴走も起きています。進化から見ると、ヒトはゆっくり成長するスタイルを長い時間をかけて定着させてきたのに、性成熟の暴走が起きてしまいかなり困った状況が生まれています。
また性行動の暴走たるや、レイプやマスターベーションなどを考えれば、他の動物はヒトをどのように見ているだろうというほどの状況になっています。ヒトのオスメスの関係は、脳が大きくなった子供を育てやすいように、絆が強くなるように進化してきたわけですが、その結果、ストーカーが現れたり、恋人を殺してしまったりするものが現れています。
その一方では、内集団と外集団の考え方が肥大することで、動植物にまで「〜〜ちゃん」と呼びかけたり、仮想物を自らの内集団だと思ってしまったりということも起きています。先ほどイントロでお話の出た思想や宗教といったものも肥大した状況になっています。また経済では、実態のないものに投資するというような、一昔前にはまったく考えられなかったようなことも起きています。
ところでヒトの脳では、依存性のあるさまざまな化学物質が分泌されていて、それがヒト独特の共感、信頼、恋愛や支配行動での暴走を促進させているということです。ただその一つであるドーパミンという物質は、遅れて報酬を受け取ることに関わっていると言われていて、これがあるから私たちは、報酬がすぐにもらえない状況でも「なんとかなるさ」「明日があるさ」「来世があるさ」という楽観主義で、生きていくことが出来るわけです。
ここで、暴走を大きく2タイプに分けてみます。
1つ目は現代と過去との間で大きく変化してしまった環境によって説明できると考えられるもの。ヒトが生きるために環境をよくしたら、起こってしまったもの。たとえば肥満だったりアレルギーだったりします。タイプ2はもしかすると異次元に突入してしまったというようなもの。たとえば言語や文化蓄積に使われる認知機能などがそうですね。
では可能な暴走と不可能な暴走を考えてみると、医療技術の改良や芸術といったものは、これから先も暴走していくことができるでしょう。でも、病気の征圧など暴走したとしても解決できないものというのもあるわけです。そう考えると悲観的な気持ちになりますが、ただここで唯一の砦は「希望はあるさ」と信じられる心の暴走のように思います。ですから私のレクチャーの結論は、「ヒト=暴走&進化的遺産に影響を受け続ける動物」であるということです。ありがとうございました。





対論
内田亮子×タナカノリユキ


■タナカ 内田先生、ありがとうございました。ちょっと時間が短くて申し訳なかったです。ここからは整理の意味も含めて、僕のほうからいくつか質問をさせていただこうと思います。まず、自然界の中には暴走制御メカニズムがあるというお話でしたが、暴走と制御の関係というのをもう少し詳しく教えてください。
■内田 はい。自然界の暴走というのは、暴走しているように見える場合でも、制御のシステムの限界内での暴走だと思います。でもヒトの場合は、制御メカニズムを超えたところで暴走している感じですね。
■タナカ 限界を超えてしまっていると。
■内田 そうですね。たとえば肥満というのは、もともと食物が少ない状況の中でどのようにエネルギーを活かすかという制御システムになっているところに、ヒトが有り余る食物という自然界ではなかなかあり得ない状況を生み出してしまったがために、暴走してしまったわけです。ヒトの身体は有り余る食物をいかに制御するかというようにはできていないわけです。
■タナカ となるとこの暴走とは、制御メカニズムを超えたものを指すわけですか?
■内田 先ほどお話ししたクジャクは限界内の暴走なので生存していられるけれども、オオツノジカは限界を超えたために絶滅してしまったかもしれない。それが自然界なわけです。
■タナカ 途中で制御が効くこともある?
■内田 そうですね。オスのクジャクの場合、あそこまでの尾羽は持てた、ということだろうと。おそらくあそこで止まっているんだと思うんですね。
■タナカ オオツノジカの場合には、制御メカニズムが効かなかった?
■内田 あのような形になって、エサを食べるなどが物理的に難しくなったところに、気候変動などがあって、そこを乗り越えられなかったということだと思います。
■タナカ そうすると、制御メカニズムを超えたものを暴走と呼んだときに、暴走が進むとまた新たな制御メカニズムが機能することはあるのですか?
■内田 それが進化ということだろうと思うんですね。たとえば肥満があまりに進行してしまったときに、さすがに身体によくないということで、何らかの抑制システムが生まれないとも限らないとは思います。ですが、ヒトが生きている環境はあまりに人工的に制御された環境なので、新たに生まれた制御遺伝子のようなものを広められないかもしれないわけです。私見ですが、暴走を止める制御メカニズムが生まれる可能性は少ないのではないかと思います。今持っているものしか使えないだろうと。
■タナカ その制御メカニズムというのは、遺伝子的な話だけなんですかね。たとえば肥満の場合、周りの人からいろいろと言われるから自制するみたいなこともあるじゃないですか。そういう学習的だったり社会的だったりすることはないのでしょうか?
■内田 私はその両方の可能性を考えたいと思うんですね。というのはまず状況として、ある遺伝子を保有していても必ず発現するとは限らないということがわかってきています。ですから社会的な学習が行動を制御することは歴然としていますが、そのことに遺伝子が関わっていないかどうかは何とも言い難いんですね。ですので、その両方という考え方を採っているんです。
■タナカ そのお話は、レクチャーの中のヒトの定義に関わってくるのでしょうか?
■内田 もちろんそうですね。二者択一的に氏か育ちかみたいな議論は長年なされてきたわけですが、その設問自体がナンセンスだということがわかってきたわけです。科学の場では遺伝と環境のインターラクションが解明されつつあるんですが、そういう情報はまだ一般にまでは行き届いていませんから、どうしても本能なのか学習なのか、遺伝か環境か、という議論になってしまいがちですよね。とても残念なことです。
■タナカ 「ヒトは動物に還元できる、か」という話で言うと、レクチャーをうかがっていて、その制御メカニズムのあり方が重要なポイントなのかなという気がしたんですね。たとえばヒトの持っている制御メカニズムが環境的なものと遺伝子的なものとで成り立っているとすると、自然界、この場合どこまでを自然界と呼ぶのかという問題もありますが、自然界の制御メカニズムというのもやはり、両方があるんですか?
■内田 もちろんそうですね。たとえばヒヒの場合、どんなメスが生存率の高い子供を育てられるかというと、完璧に社会性なんですね。どういう友だちをどれくらい多様に持っているかなんです。それが直接繁殖率に関わってくるような状況があって、ヒヒのメスはなるべく友だちを作ろうという行動を採るんです。一方でヒトの場合を見ると、狭いアパートで24時間赤ちゃんと対峙しているお母さんというのが存在していて、これはとてつもない暴走というか、過酷な生活を強いられているわけです。そうなるとヒトはヒヒから学べるはずというか、学ぶべきだと思いますね。
■タナカ オオツノジカやサーベルタイガーというのも、いかにメスを惹きつけるかという原因で成り立ったと言うことでいうと、環境的であるとも言えるわけですか?
■内田 メスを環境とすればそういうことになりますね。社会も環境ですから。
■タナカ もう一度整理すると、暴走が制御メカニズムを超えたものだとすると、暴走した先にもう一度、新たな制御メカニズムが環境的に生まれる可能性もありえる、ということですか。
■内田 可能性はあるんですが、持ち駒を代えられないのが悲しいところかなって。
■タナカ それはどういう?
■内田 ヒトは生物であるというところで、ヒトという歴史を引きずっているわけです。進化的な遺産をチャラにして、別の生物を作り上げることは出来ないというのが、生物学の掟なんですね。
■タナカ 先ほど仰っていた「後戻りできない」というやつですね。
■内田 そうです。1回暴走したときに新しい制御メカニズムが出てくる可能性はゼロではないのですが、果たしてうまく機能するのかというところですね。そして先ほど言ったように暴走には2タイプあって、ヒトの動物としての部分からの暴走とヒトが新たに獲得した部分によって生じた暴走とでは、ちょっと話が違うかもしれません。
■タナカ 暴走しきってしまった生物が絶滅するという意味では、ヒトはかなり暴走していると思うんですが、それについてはどうお考えですか?
■内田 いなくなっていいんじゃないですか。
■タナカ アッハッハッ。
■内田 もう全然。
■タナカ じゃあ、暴走の先に制御メカニズムが現れるという考え方もまた、暴走ってことですか(笑)? 「希望があるさ」と同じようなことかなと思ったんですが。
■内田 あ、それはそれで微笑ましいというか、信仰を持っている暴走というか…
■タナカ いや、信仰じゃないんですけどね(笑)。
■内田 でも、信じられるというのは脳が新たに獲得した機能ですから、それはフルに活用すべきだと思うんですね。現在の地球環境とか戦争とかいろいろなことを見ていると、ホントにヒトというのはお粗末で、なぜこれを止められなかったのかってことばっかりですよね。
■タナカ そうですねえ。
■内田 でもそこで、「じゃあやーめた」って言っていてもしょうがなくて、そこに「希望はある」と信じる心を持たないとどうしようもないんだと思います。
■タナカ それも暴走かもしれないけれど。
■内田 そうなんです。ある意味、暴走を暴走で何とかしなくちゃいけない。
■タナカ そのとき、暴走を止める暴走は制御メカニズムと呼べるんですか?
■内田 ああ、そうですねぇ、うーん、そうしましょう(笑)。根拠のない自信は暴走した心だと思うんですけれど、その根拠のない自信を持たないとならないくらいヒトはぼろぼろだというのは事実なので。学生によく話すのは、アポロ13号の事故はハリウッドで映画にもなったくらいですから、みなさんよくご存じだと思うんですが、途中まで行って帰ってこれるかわからなくなってしまったわけですよね。そんなとんでもない状況の中で、わけのわからないパイプとかを利用して、何とか帰ってきたわけですよ。それって、根拠のない希望だったんじゃないかと思って。ヒトが置かれている今の状況を考えると、まぁ止めるのは無理でしょうと思わざるを得ないんですけども…。
■タナカ あと、下條さんとも話したようにどこに向かっているのかわからないし、仰ったように後戻りもできないという中で、暴走しているというのは事実ですよね。それは心の問題から社会、経済にまで波及していて、ヒトの身体を超えたところで暴走を加速させているように思います。そうしたときに科学者としての立場で、このまま暴走すれば絶滅してもいいんじゃないというのはわかるんですが、でもやっぱり「希望はあるさ」的な部分まで暴走ってことになってしまうと、チャンチャンって終わっちゃうんじゃないかって気もして、それに対してどうなんですかね?
■内田 私が「希望があるさ」とか「明日があるさ」と言っているのは、実は、純粋科学者として言っているんですね。つまり、脳科学がそれをわかってきたということを根拠に、それにすがるしかないという思いなんです。だから新興宗教的な「希望があるさ」を持ち出してきているわけじゃなくて、脳が希望を持つことでがんばれるという科学的事実に基づいて、私はそういうふうに言っているわけです。
■タナカ なるほどね。それが新たな制御メカニズムになり得るのか、暴走の第2フェーズなのかは、どちらにもなり得るということなのかもしれませんね。そろそろ時間もなくなってきたので、最後の質問に移りたいと思うのですが、先生は進化というものをどういうものだと捉えてますか?
■内田 進化というものを生物学的に定義すると、遺伝的に影響を受ける形質の、世代を超えた頻度の変化、に過ぎないんです。それにはもちろん退化も含まれます。ですが、進化という言葉は進歩という誤解を生みがちなので、社会的には理解しづらくなっているんだろうと思います。
■タナカ 暴走も進化の中に入るんですか?
■内田 もちろん入ります。進化というのは、ある特徴の頻度が増えたり減ったりすることを純粋に指し示しているだけですから。
■タナカ 制御メカニズムも入るんですか?
■内田 そうです。
■タナカ 結果的に退化と呼ばれようが、進化に含まれるわけですね。
■内田 ええ。でも言っておかなければならないのは、あくまで「遺伝的に影響を受ける形質」というシバリがあるので、まったく遺伝的に関係がないと思われる、社会的環境の影響に起因する、行動の頻度の変化を進化と呼ぶかという問題に対しては、慎重にならなければなりません。ただし先ほど申し上げたように、解明されていない遺伝子が関わっているかもしれないわけです。
■タナカ では、最後にもう一つ。今回のルネッサンス ジェネレーションのテーマになっている「ヒトはXXに還元できる、か」に掛けて、ヒトは動物に還元できます、か?
■内田 実はリハーサルで下條先生に言ったんですが、還元という言葉がそもそも適当ではないのではないかと思っていて。
■タナカ では「ヒトは動物にすぎないのか」ならどうですか? 
■内田 すぎないという言葉は使いませんが、「ヒトは動物である」であれば、まさにその通りですとお答えします。
■タナカ ただ還元となると、ちょっと違うニュアンスになると?
■内田 還元という言葉の定義を、ということだと思います。
■タナカ それはもしかすると、科学を研究する上での言い回しなのかもしれないですけど、すぎないとも言えないわけですね?
■内田 ええ、すぎないと言うと動物に失礼な気がしますから。
■タナカ ヒトは動物である、と。
■内田 そうです。でもヒトはとても面白いですし、愛おしい生き物です。
■タナカ ありがとうございました。


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