イントロダクション
[ミもフタもない人間]

タナカノリユキ
アーティスト・クリエイティブディレクター・アートディレクター・映像ディレクター

下條信輔

カリフォルニア工科大学教授/知覚心理学・認知脳科学・認知発達学


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■下條 お集まりの皆さん、こんにちは。
ルネッサンス ジェネレーション監修の下條信輔です。よろしくお願いします。そして、共同監修を務めるタナカノリユキです。
■タナカ よろしくお願いします。
■下條 今年でルネッサンス ジェネレーションは、14年目を迎えました。
■タナカ そうですね。下條さんと当初、10年は続けようと話していたんですが、気づけば遙かにそれを越えてしまいました。通底するテーマを「未来身体」に決めて、毎年のテーマは僕が社会や生活の中で気づいた疑問を下條さんにぶつけていって、そんな会話の中からフックが生まれて、決定に結びついてきたわけです。
■下條 年ごとに「今、われわれにとって大切なテーマ」であるとか「今、ホットなテーマ」を取り上げてきたわけです。そして今年は「ヒトはXXに 還元できる、か」。妙なテーマだと思われた方も多いかと思いますので、まず手短に私のモチベーションをお話してイントロダクションとしたいと思い ます。解説するまでもないと思いますが、先ほどのパフォーマンスは皆さんに書いていただいた「人はXXに還元できる」アンケートを使ったものでし た。
■タナカ そうですね。やはり書き文字というのはインパクトがあったと思います。
■下條 今回もタナカさんとさまざまなミーティングをしている中で、「人間ってミもフタもないよね」って話が出てきたんですよね。私自身はこの10年くらい、潜在過程の研究をしてきました。潜在過程というのは心の働きの中で自覚できない、無意識の過程のことです。もともと私は知覚の研究者ですが、運動や記憶、情動、意思決定などいろいろな場面で潜在過程の重要さがわかってきたわけです。ではなぜ潜在過程が重要かといえば、それはつまり、顕在過程、意識できる心の経験に先立っているからです。そして顕在的な経験や行為を決定している。意識できる心の過程に対して相対的な独 立性を持っている。つまり本人が意識するしないにかかわらず、トリガーがかかってしまうことがあるということです。
■タナカ ただ、科学の中で「人間は機械にすぎない」という考え方があるとして、でも世の中では「機械に過ぎないって言われても困るよ」という実感があったりする。それは宗教や教育の中でも起こりえるわけで、それならミもフタもない話を洗いざらいぶちまけてみようかとなったんです。
■下條 私は「いっそのこと、『ミもフタもない話』ってテーマにするのはどう?」って言ったくらいだから。ただ今の話には2つのポイントがあって、一つは日本の文化には建て前と本音が分かれる傾向にあって、本音のほうの話はなかなかできないという文化的な話。もう一つはもうちょっと根源的なところで、瀬在的な心理過程を研究していく中で私が感じたことですが、人間にとっての幻想を破壊するような知見が多いこと。一例を挙げるなら、人を好きになる感情を生物学的、神経学的、心理学的に解析していくと、相当がっかりする話になりかねない。たとえば、単純にたくさん見た顔を好きになっちゃうとか。もちろんそれだけではないけれど、それが基盤ですと言われてしまうと非常にがっかりする。人間に幻想を抱きにくくなるわけです。
タナカさんと話している中でそんなことがいろいろあって、自分がやっているサイエンスの研究以外ではどうだろうと思ったんです。つまり、ヒトを何 かのフレイムワークに当てはめて理解するという手法がサイエンスやテクノロジーの営みであり、ヒトを何かにすぎないものとして見るところから出発しないと、そもそも自分たちの技がかかりにくい。
■タナカ 科学の本質がそうなんだということですよね。
■下條 そういうことです。でもそういうことは、科学者は話さないんですよ。目先にきた球をどうやってヒットにするかしか考えてない。でも評論家 も世の中の人も考えてない。そもそも言葉にならないわけですよ、今言った「XXに過ぎない」感じとか「ミもフタもない」感じというのは。それに気づいたときに私は、これこそルネッサンス ジェネレーションで取り上げるべきテーマだ、と思ったわけです。
■タナカ ただ、科学は科学で進んでいったとしても、現代においては人間観が変わってきていると思うんですよ。簡単な話で言えば、自分をもう一度リセットできるみたいな感覚とかね。90年代以降、ゲーム的な感覚が入ってきている。
■下條 多重人格みたいなものが公式の精神病理学で次第に認められてきているというようなことも、時代的に一致している感じはありますよね。今、タナカさんが言われたように、人間を科学的にとらえることが進んでいくと、倫理的な問題がさまざまに生じてきます。それはたとえば自由や責任といったものがどうなるかといった問題なわけですが、そういった倫理的な問題を提起する以前に、われわれが認識しなければならないポイントがあると私は思うわけです。それは、その前提としてそれぞれに特定の人間観、たとえば人間を動物として見る進化人類学、人間に似たロボットを作り出そうとする構成的なアプローチなどがさまざまにあるわけですから、そもそも人間は何に還元されるのか、あるいはいないのかというところをしっかり見な いと、倫理うんぬんという話も空回りすると思うわけです。
実はあるとき私の共同研究者が「われわれにとってはヒトが機械と同じだ、というのは了解済みです。あらためてそんな話しませんよ」と言ったことが あって。たしかに彼は情報処理と聴覚系の専門家で、それを前提に数式を当てはめたりシミュレーションしたりしている。一方、神経生物学者と話すときにヒトは動物の一種であるなんてことはあえて口に出すほうがおかしいくらいです。ところがそこには、世間一般の認識とすごい乖離があるんです ね。今回は、そういうミもフタもなさを取り上げてみたいと思っています。
■タナカ 僕としては、人間観がいまだに旧態依然とした形で刷り込まれている気がしていて、科学の世界ではそれぞれのジャンルでヒトはXXに過ぎないという認識が定着しているわけで、それぞれ違う認識を持った専門家が集まって話をすることで、じゃあ人間観ってどうなんだろうということが垣間見れれば面白いかなと。そして、それぞれが固定概念として持っているものとのギャップを聞いてみたいと思っています。
■下條 これは個人的な考え方ですが、人間科学というものは宿命的に時代の人間観、人々が持っている人間観と切り結んで、そしてそれをアップデイトしていく機能があると思っています。ただ昔は、サイエンスの最先端の知見が世の中の常識になるのに1世紀かかると言われていたのが、加速度的に速くなっている。インターネットで検索すれば、先週出た『NATURE』のペーパーの中身だって、理解力さえあれば理解できてしまう。そのときに、人間観がどの方向でどういう具合にアップデイトされていくのかは押さえておく必要があると思います。もう1点、「ヒトはXXに還元される」 「ヒトはXXにすぎない」と言ったときに、危機に瀕しているものがあると思うわけです。その危機に瀕しているものの実態が何かがテーマの一つかと思います。
■タナカ その危機に瀕しているというのはどうして感じるんですか?
■下條 「XXにすぎない」と言ったときに、貶めている感覚があるじゃないですか。それを正確に言語化しようとすれば、そこには危機に瀕しているものがあるだろうと、私は思うわけです。たとえば意識によって人格を制御するという信念は、ある種の神経科学と精神医学によって危機に瀕しているような気がしますし、人間の尊厳が危機に瀕していると言いたい人は少なからずいるでしょう。
あるいは人間の自由が危機に瀕していると感じている方 もいるでしょう。タナカさんはどう感じていますか?
■タナカ どこに向かっているのかがわからない、というのがあるんじゃないかなと思いますね。高度経済成長社会から低成長期になって、日本人は悪くはないけれど良くもないというようなところで進んできたんだけれど、ホントに今の世の中を望んでいたのかなというようなところもあると思うんです。そういう意味ではもともと危機に瀕していたとか、それは宿命的に進むものだから危機とは呼ばないとか、いろいろな考え方があるだろうと思うんですが、いずれにせよ、現状から未来ということになると、茫洋とした不透明感みたいなものがあるんじゃないかと思います。
■下條 その通りで、危機なのか新たなチャンスなのかというのはよくわからない。
■タナカ 下條さんが言っている危機ということでは、やはり人間観に対する危機を感じるんです。サイエンスやテクノロジーが人間観をアップデイトしていっても、自分たちが本当にこれでいいのかという疑問に対峙して、そもそも人間って何なのという人間観に対する問いかけになったときに、昔から、いままでに宗教や教育が担っていた部分を果たして何が担えるのだろうということ。下條さんが言ったように科学には答えがあるけれど、でも細分化された科学ジャンルによって特化し多様化している。じゃあ宗教なのかというと、それも違和感があるんです。
■下條 昔、宗教が担っていた検証装置のような役割を、現代では科学が担っているという部分から提起される問題が一つ。あと、人間観が更新されていくのは楽しいけれど、このまま転がっていったときに大きな落とし穴が開いているのかいないのか。はたまた、それは誰に聞けばわかるのか、という 寄る辺なさかなと思います。
では、この辺りで今日のメニューをご紹介しましょう。まず早稲田大学の内田亮子先生をお呼びしています。先生は進化人類学の専門家です。先生に伺いたかったことはまず、人と動物とはどのくらい共通性があってどのくらい違うのか、ということ。ヒトが動物としてどのように位置づけられ、 その上でヒトをユニークにしているものは何か、というようなお話が聞けるのではないかと思っています。
続いて、東京大学大学院でロボティクスを研究されている國吉康夫先生。日本はロボティクスの研究が進んでいるばかりでなく、日常生活の中にロボティクスが浸透しています。そんな日本において構成論的アプローチ、つまりロボットを作ることで人間を理解し、ロボットとヒトとの差異を小さくしようというような研究をされています。おそらく先生は、神経細胞あるいは遺伝子そのものがヒトをヒトらしくしているのではなく、それはあくまで生物的な器であって、脳と身体と環境が相互作用を起こして、その相互作用の情報構造がヒトをヒトらしくしている、というお考えだろうと思います。ということは敷延すれば、神経細胞や遺伝子がなくても、ロボットがヒト型の認知を獲得するかもしれない。これが国吉先生のレクチャーに対する私の期待です。
そして三番目のスピーカーは、東京藝術大学の内海健先生です。精神科医、精神病理学者というお立場から、心は脳に還元できない、というお話になろうかと思います。一つは精神疾患、鬱病や発達障害が時代性や社会性のコンテキストと関わっていて、遺伝子などの内的要因で決まるものではない。そういう観点から、心は脳に還元できないという議論展開を期待しています。
その後にビデオインタビューでご参加いただくのが森岡正博先生。哲学者で倫理学者と言っていいと思いますが、人類家畜化論から始まり、無痛文明論を唱えられています。ただし一つの欲望を優先した結果、より本質的な何かを犠牲にしてないか、そんなきな哲学の考え方の流れに位置づけられる方だと思います。人間を自ら制御可能な何かに還元することが望ましいことなのかというテーマでのインタビューになります。タナカさんから何かありますか?
■タナカ いや、今年は何だか出番が多いので、いささか門外漢ではありますが、会場の皆さんを代表して質問をぶつけてみたいと思っています。では お楽しみに。


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