総括討論
[反実仮想が現実を支えている?]

佐藤勝彦×野矢茂樹×井辻朱美×タナカノリユキ×下條信輔


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下條 さて、お待ちかねの総括討論です。今日の場合はどこから入ってもまったく問題ないと思うんですが、最初は順番から言ってもやはり、佐藤先生から野矢さんへの反論からお願いするのが筋でしょう。佐藤先生、お願いします。

科学と哲学、それぞれの立場での自由意志と決定論の関係。

佐藤 私は物理学者として、自由意志の問題というのは物理学における根源的な問題だと考えています。私は決定論は正しいと考えていますし、自由意志も正しいと思っています。ただ、自由意志というのは生命が持っているものです。物質が生命になるときに、いつからその生命は自由な意志を持つようになったのか。このあたりは生物学の問題であると同時に、根源的な物理学の法則に関係する問題だと考えています。ですから自由意志の問題についても、私は21世紀の間に科学として解けるのではないかと期待しています。もちろん、私が自由意志を持っていることは何ら疑いの余地のない事実ですし、この世界が動いている現象も微分方程式で記述されることは正しいです。この一見矛盾する二つのことが、正反合と言いましょうか、そういう発展があるものだと信じているわけです。
下條 佐藤先生は決定論だが多元世界は認めるというお立場ということですね。普通、哲学では、決定論は多元的な可能性を認めないんじゃないかと思うので、非常に面白いと思います。ただ佐藤先生はご自身の自由意志を信じているとおっしゃいましたが、それは将来、量子力学も現代物理学も完成して、自由意志が物理学で説明できた暁にもなお存在しているということですか?
佐藤 概念は進化するんです。そういう意味で、今の段階では自由意志と決定論的物理法則というのは矛盾していますが、次の段階で合わせることでそれぞれの意味が深くなって、理解できるようになると思うわけです。科学というのは矛盾があってこそ進歩します。一見矛盾に見えるモノが矛盾でなくなったときに、自由意志の起源がわかってくるのではないかと思います。
下條 野矢さん、いかがでしょう?
野矢 自由意志と決定論が両立するという議論は、両立論という形で哲学の世界でも決して少数派ではないんですけれども、その両立の仕掛けというのは、科学が人間に与える「人間は物質でできている」という記述と、人間の行為、それこそ選挙の投票に行くとか、物理学に出てこない記述のレベルを認めることによって、両立性というものを保証しようというわけです。ですから両立すること自体はそれほど違和感がないんだけれども、佐藤先生は「自然科学の決定論を信じ、かつ自然科学の方法論で自由意志を解明する」とおっしゃられた。でもそれは、自由意志というものを決定論的に解明すると言われたとしか聞こえないわけです。さらに、科学は矛盾によって進むとおっしゃられた。それは私が先ほど言ったズレと吸収のイタチごっこということでしかないのではとも思います。私に言わせれば、そのイタチごっこは決して収束しない。そして科学の中に吸収しつつ自由を保障することが正反合だとおっしゃられたけれども、私には正と反を出して放り出されている感じで、果たしてどのように合を迎えるのだろうという感じがします。
佐藤 私は量子論の説明の中で、無は無と言いながら実は、存在と非在の間を揺らいでいるんだという話をしました。私の言う決定論は、カッコ付きの“決定論”であることは事実です。量子論は確率的にしか予言できないわけですが、解いているのは微分方程式ですから波動関数は決定論的決まっているわけです。しかし波動関数の収縮で決まる物理現象の予言となると確率論的予言になるわけです。つまり確率的な決定論になってしまいます。そういう意味で、決定論という言葉自体も進化するわけです。そして自由意志という言葉についても、定義をもう少しはっきりさせる必要があるかと思います。
私が感じる点は、野矢さんのお話では自由意志と物理現象の誤差とが混同されているように思えて仕方がないんです。自由意志というのはあくまで生命体が持っているものであって、それ以外の運動について自由意志があるなどとは誰も言いません。科学者は物理法則がちゃんとあることを確認して、それを道具として世界のあり方を研究しているんですね。それが今の科学です。そしてこの世界がどんな世界であるかが次第に解明できてきているわけです。しかし、物理法則自体も進化するんです。
下條 せっかくヒートアップしてきたところに水を差すようで恐縮ですが、佐藤先生が用意してくださった人間原理の部分がレクチャーで触れられなかったので、そこのところを少しお話いただきたいと思います。でも、その前に野矢さんへのいちゃもんを少し。野矢さんはレクチャーの中で、こういうやり方で自然科学は進歩すると言ったんですけど、進歩すると言った時点で野矢さんの自由意志はすでに譲り渡しているではないかと。つまり、海王星の発見されたことで自然科学が進歩して、ゆるい因果法則が厳密な因果法則に若干なりとも近づいたことで、自由意志は減っているではないか。ということは、野矢さんの自由意志擁護論はコンスタントに負け続けるが、いつも判定負けであってKO負けではありませんと言っているに過ぎない。どうですか?
野矢 いや、まったくそうは思わないんですよ。基本法則というのは、ある一つの研究プログラムの中では不動の位置を持っていて、それを固定することによって生産力を発揮するんだけれども、例えばそのニュートン力学のプログラム自体が没落していくことはあるわけです。科学の実践というのは、一つの理論体系とか教科書に書かれていることが科学の実践ではなくて、喩えて言うならば、一つの生物体のような感じがするんです。私はさっき、触角という言い方をしたけれども、基本法則があり、その基本法則からのズレを探知する。探知したならばそれがエサになるわけです。だから、基本法則に反するようなものを見出すと、元気のいい科学の下で活動している科学者はむしろ喜ぶわけですよ。これはおいしいって。そうやって手頃なエサを食べていくことによって科学は成長していくわけです。だから基本法則も、一つのプログラムが元気に活動しているうちは不動の位置を占めているが、元気がなくなり基本法則ごと潰れていくプログラムもあるわけです。
下條 で、野矢さんの自由意志は?
野矢 だから、決して進歩し続ける科学に追い込まれていくというわけではないと言いたい。第一に、いま述べたように、科学がリニアにワーッと成長していくというイメージを私は持っていない。第二点は、さっきタナカさんとのやり取りで、科学はわかっていないことの方が多いと言ったんだけれど、わかってないことを穴ぼこと表現するなら、基本的に世界のダークサイドというのは無限なんですよ。無限の中で、科学は有限のスポットを明らかにしたに過ぎない。有限のスポットが100が200になろうが、1000になろうが、1万になろうが、1000万になろうが、無限の闇の中では大した問題じゃないんです。だから無限の闇が残されている以上、科学がどんなに成長しようとも、それが自由とバッティングするとは私は思わない。科学が自由とバッティングするのは、世界を包括的に、決定論的に記述し尽くすのだと大言壮語されたときですね。その時はそれはないでしょうと言いたいということです。
下條 なるほど。ではここで佐藤先生に、積み残した人間原理のお話を少ししていただこうと思います。これは自由意志は生命の問題だというお話と関連すると思います。

人間原理とマルチヴァース、究極の統一理論の探求。

佐藤 それでは簡単に。まず人間原理という言葉についてまずご説明します。本当に不思議なことなんですが、物理学を知れば知るほどわかることは、宇宙の基本的な物理法則には、生物あるいは人類が生まれてくるようにデザインされているのではないかと思ってしまうものが非常に多いんです。でも普通、科学者がこんなことを言うと、オカルト的に思われてしまうので、何とか説明しようとします。実際、本当にほんのちょっとでも狂うと、今のこの世界は実現できなくなってしまうんです。


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縦軸の強い力というのは湯川先生の見つけた原爆や水爆になる力のことです。横軸の電磁力とあるのは+と−が引き合う強さのことです。この二つの力の強さによって、私たちの身体がどう動くかが決まってくるんです。そしてこの値が少しでも狂うと、例えば太陽が燃やす水素ガスがなくなったり、炭素が安定しなくなったり、さまざまなことが起こってしまうわけです。
下條 その狭い交差点のところだけ生命が生まれうるということなんですか?
佐藤 そういうことです。同じように時空間の次元の数もそうです。私たちは三次元空間に住んでいますが、四次元、五次元の世界になると原子が不安定になったり、太陽系自身も不安定になり、地球などはすぐ太陽に落ちていってしまいます。われわれが三次元空間に住んでいることは、この世界がいかにも都合よくデザインされていることの証拠だと思います。ただ私たち科学者は、神様がわれわれが生まれるようにこの世界をデザインしたなどとは思わないわけです。そこで生まれてきたのが人間原理の考え方です。
それはどういうことかというと、宇宙はたくさんあり、その中には物理法則が違う宇宙もたくさんある。宇宙が無限にあれば、偶然、生命が生まれるようなバランスの宇宙もあるでしょう、という考え方です。生命が生まれる宇宙で知的存在が生まれたならば、その宇宙は認識されることになります。逆に言えば、認識される宇宙は認識主体が生まれるように調整されているということになります。あたかも神様にデザインされたかのようなわれわれの宇宙が、実はこのような仕組みになっている、というのが人間原理の考え方です。
今の理論物理学の最大の問題は、物理法則の決定的法則をただ一つの法則にまとめ上げることなんです。その法則さえ行えば、森羅万象すべてを予言できるようなものです。まさに究極の基本法則、この世界を運動させるような法則を見つけたいと思っています。そしてもし見つけられたときには、その法則の中に何か数値が残っているかどうかが問題になります。もし何か数値が残っていれば、その数値はどうやって決まったのかという質問が必ず出てきます。そうすると、その数値ごとに宇宙はいくつもあるということになりますから、この人間原理を使わないと説明できません。また一方、究極の理論を求めたいという人には、何ら数値はないのではないかという立場に立つ人もおります。その立場に立つと、すべての基本定数は数学の中の論理の一環で済んでしまいます。ですので、根源的な法則にパラメータが残る以上、人間原理の法則は必要だと思っています。
科学というのは、人間は特別に選ばれたものという考え方を廃して、人間はありふれたものだということを基本にして、進歩してきました。でも、この人間原理はその反対のような意味で唱えられたわけです。しかし、人間だけが知的生命体なのかと。私は他の宇宙では認識主体は生まれないと言いましたが、さまざまな考え方があって、暗黒星雲が生命体になるとかいろんなことが言われています。違う物理法則の下でも構造さえできれば認識主体ができておかしくないわけです。ですから、人間原理は絶対的なものではないとも考えられます。
私が考えますに、今の段階で人間原理を持ち出して世の中を説明しようという考え方は、危険だと思うわけです。科学の探究というのは、わからないことをちゃんと論理を詰めて、科学で調べることで進んでいます。そこに人間原理を持ち出してしまうと、科学はそこでストップしてしまいます。私は、人間原理を使うのであれば、ホントに最後の究極の理論、最後の宇宙全体の森羅万象を説明する理論が出てきたときに初めて価値があるのであって、今のような段階で言うのは避けるべきだろうと思います。
下條 ありがとうございます。私の理解では、マルチヴァースは別の必然性から出てきたが、そうするとわれわれがこの宇宙に生命として存在することの理解が難しくなるので、一方では偶然性を排除する努力、また一方ではこの宇宙にわれわれが存在するのはある種の偶然であると。それが人間原理かなと。つまり、人間原理を考えると、われわれ生命体の存在もマルチヴァースと相性がよくなるということかなと思ったんですが、それでいいですか?
佐藤 相性がよくなるというような人間的な考え方をしたことはありませんが、しかしたしかに一貫性はありますよね。

自由の神経学的メカニズムと自由の意味性の主体。

下條 ではここでタナカさんに、今のお話を踏まえた上で、今日ここまでの議論で気になったこと、また残された問題など、何かありますか?
タナカ まず、佐藤さんに質問ですが、何を持って生命を生命と言うんでしょう?
佐藤 生命の定義は科学者によってかなり違うんです。普通どう言うかと言いますと、子孫を遺すこと、生活をすること、ということですね。ただホーキングなどは特にそうですが、子孫を遺すことを大きな特徴と考えて、コンピュータウイルスなども生命と考えていいのではないかというようなことも言っています。ただ私が今日申しあげたのは、単細胞から多細胞へ進化した、現在地上にいるような生物を念頭に、自由意志のお話をしているつもりです。
タナカ では知的生命体というのは、どの段階を指すんでしょう?
佐藤 うぅむ、なかなか厳しい質問ですね。知的レベルというのは連続的だろうと思うんですね。ですから自由意志というのも、あるところで突然生まれたのではなく、段階的に生まれてきたものだと思います。ここまでは自由意志ではなく、ここから先は自由意志ですという言い方は難しいのではないかと。例えばチンパンジーは自由意志を持たず、人間から自由意志を持つようになったとは言えないと思うわけです。チンパンジーだって犬だって猫だって、自由意志を持っていますよ。そのあたりが曖昧なんですね。どこから自由意志が生まれてきたのかというのは神経系の発達の問題であって、神経科学の問題だと認識しています。
下條 野矢さん、何かありますか?
野矢 今の自由意志の問題が神経系の問題であるという立場は、多分下條さんも同じような立場だと思うんですが、私はまったくそういう考え方をしないんです。先ほどタナカさんとのやり取りの中で、科学の基本法則は世界とのズレを常に持っていて、そのズレは解消する必要のないもので、むしろ科学の生産力なのだという言い方をした時に、タナカさんからそのズレと自由の間にはジャンプがあって、なぜそこでジャンプをするのだという問いかけがあった。私はそれに対して、ちゃんと答えなければいけないと思うんです。ただそうすると、今日私がお話ししたことは前半に過ぎなくて、後半というものがあるということになります。それは私にとってはまだまとまっていない議論ですが、お話しする努力をしようと思います。
自由意志を解明しようというときに、自由な意志決定のプロセスがどういうメカニズムになっているかを調べようとするというのは、脳科学でも神経科学でもそうだろうと思うんですが、私はそれは基本的に的外れの考え方だと思うんですね。脳や神経がこういう状態になったときにわれわれは自由に行動しているという考え方は、そこにどんなにうまい説明をつけられても、私は納得しないだろうと思うんです。結局それは脳に記されているわけで、それは脳神経ですべてが済んでしまう。タナカさんが先ほど「なぜ自由と言いたいの? 憧れでもあるんですか?」という問いかけをしてくれました。私の場合、自由とは「そうしないでもいられた」ということなんですが、そうしてしまったことに対して、なぜ「そうしないでもいられた」と言わなくては気が済まないのか。それは多分、「これは私がやったんだ」という行為の主体性が必要になってくるからだと思うんです。その行為が生まれたメカニズムではなく、その行為の持っている目的とか心づもりとか、そういうものが必要になってくると思います。自分の行為に対する意味づけのレベルが要求されるわけです。この記述レベルは、例えば選挙に行って投票するというようなことと同じで、物理学には出てこない記述です。私が考えるに、自由という概念が要求される記述のレベルというのは、まさにこのような私という行為主体が要求されるレベルであって、脳のメカニズムのレベルではないわけです。脳が投票に行くのではなく、私が行くわけですからね。ただこの「私」というのは、物理的な何ものかではないんです。ともかくこの私という行為主体が出てこないレベルで、自由のメカニズムを解明するなんていうのは、私は嫌だなと思っているわけです。
下條 ここで、スペシャルゲストが到着されたのでご紹介したいと思うんですが、その前に野矢さんにひと言。片麻痺で病体失認といって、自分の病状を否定するような症状がある。医者が右手を挙げてと言うと、麻痺しているから挙げられないんだけれど、患者は挙げたくないから挙げないと言ったりするわけです。今、先生の言うことはききたくないとか言うわけです。それは患者にとっては自由意志ですよね。でも、われわれから見れば、いろいろな物理、生理、神経的な理由で挙がらないと思いたくなるわけです。そして、それは病体失認でないわれわれも同じだろうと。このような理屈があるので、やっぱり決定論が勝つと自由意志がなくなる印象は消えないんです。
野矢 簡単に言いますと、片麻痺という特異な形で取り出されているものと、何で私が一緒にされなくちゃいけないのと。だから片麻痺のエピソードを聞いても私の返答はただひと言です。「だから何か?」。
下條 わかりました(笑)。

創造力と反実仮想と、パラレルワールドの関係。

下條 では、井辻朱美先生をご紹介します。今日は大学の入試が終わった後、駆けつけてくださいました。ありがとうございます。でも、何の話か全然見えないですよね?
井辻 何か自由意志の問題で、とても白熱しているなと(笑)。
下條 せっかく井辻先生がいらしたので、ちょっとパラレルワールドのほうに話を戻して、とくに創造力の話について議論してみたいと思います。下準備をする中で私が気づいたのは、パラレルワールドと言う時にほとんどの場合、反実仮想が働いていて、野矢さんは実際にそういう言葉を使われたし、佐藤先生はマルチヴァースは反実仮想ではなく、数理モデルから予言されるものだとおっしゃるかもしれないけれど、数理モデルも人間の認識の働きだと考えれば、ある種、ここにあるリアルな世界ではない、別のリアルな世界を想定してるという面では共通するものがあるように思います。ただよく考えてみると、反実仮想にはいろんな種類があるようです。まず、事実には反するけれども、事実法則には反しない仮想というのがありそうです。二番目には事実に反し、事実法則にも反するような仮想というのもあり得るだろうと。これは、物理学では許されないが、ファンタジーやSFではアリだろうと思うわけです。で、場合によっては哲学でも許されるかもしれない。三番目には誰も想像したことのないワールドが存在するかどうか。佐藤先生はさきほどあっさりと宇宙は無限であるとおっしゃったけれど、果たしてこれもその中に入るのかうかがってみたい。そして創造するという時点に関係して、反実仮想はいつ存在し始めるのかという問題もある。例えばトールキンの『指輪物語』で言えば、トールキンが頭の中で構想し始めたときと言うこともできるし、世界を構成する無駄なディテイルを考えたときという言い方もあるかもしれない。このように反実仮想にはいろいろあるわけです。そのあたり、井辻先生はファンタジーの世界ではどのように考えられていると思われますか?
井辻 ファンタジーは人間が創造するわけですから、三番目はあり得ないように思います。二番目については誰かがクリエイトすると言うよりは、ファンタジーの場合は昔からの神話とかの集積があって、それが再アレンジされていろんな形の設定になって出てきます。たしか自然科学の世界でもワトソン・クリックの二重螺旋の発見がなされたときのように、ある時期が熟すると、ほぼ同時期にさまざまな形で現れることがあるように思います。
下條 ある程度の歴史の必然があると。
井辻 ある時代が熟すと、パッと弾けていろんなものが出てくるような感じですね。
下條 文学の場合は、受け皿ができたというのも大きいんでしょうね。
井辻 そうですね。作家と読者が一緒に熟していく。今はアニメがそういう段階です。
下條 もう一つうかがいたいのは、さっき私は事実法則という曖昧な言い方をしたんだけれど、事実法則>物理法則なんですよ。社会システムや人間社会の暗黙の了解も含んでいるつもりなんですね。そういうことでいうと、ファンタジーの創造力の限界というのはどこにあるんでしょう。
井辻 ファンタジーは侵犯と転覆の文学と言われているんですが、近いところで言うと小野不由美さんの『十二国記』という作品があります。あの中の別世界というのは、一切の生殖が存在しない世界で、簡単に不老不死が達成できるというような、とんでもない設定がいろいろ出てくるんですね。そんな中で主人公の少女が政治的才覚だけで成り上がってゆくという現実ではあり得ないようなパターンを描いています。
下條 生命や生死の問題もファンタジーは破ってきているということですか?
井辻 そうですね。かなりのところまで来ていると思います。
下條 今の話は事実法則と創造力についての話ですが、タナカさん何かありますか?
タナカ 一番気になるのは、その2番目というのが基本法則で解明できるのかを、佐藤先生に訊いてみたいですね。
佐藤 例えば超ひも理論の描く宇宙はたしかに数学的なモデルですが、現実世界とはかけ離れています。物理学者は現在の宇宙では事実に反することでも、別の宇宙では許されると考えたりもしますね。
下條 野矢さん何かありますか?
野矢 人間の行為にとって、どういう意味づけをするかが決定的に重要だと思うんですね。今日の話をどういう意味づけで聞いたかというのは、一人一人全然違うと思います。誇張して言えば、一人一人がパラレルな意味世界に生きているとも言える。逆にもしも意味を共有していたとしたら、私とあなたの違いは大事なものにならない気がします。私が持っていない新たな意味世界をあなたが創りだしてくれるから、私とあなたの違いが大切になる。意味世界を創ることに対する制約というのは、下條さんが先ほど受け皿とおっしゃったけれど、まさにその理解してくれる受け手の存在。それは井辻さんの言われた作り手と読者が一緒に成熟していくということだろうと思います。
下條 今回も時間が超過しています。最後にひと言ずつ、まとめをお願いします。
井辻 ファンタジーは現実とまったく違う別世界を創る文学と思われがちですが、最近のファンタジーは現実を含み込んで、さまざまな仮説を述べるパラレルワールドものが多くなっています。書店で手に取ってみていただけると幸いです。
佐藤 異文化交流はとても面白い、という一言に尽きます。今日は大変豊かな気持ちになりました。ありがとうございました。
野矢 われわれは一つの世界に住んでいると思っていますが、単世界なのか多世界なのはもっと柔らかい構造をしているように思います。パラレルワールドも人ひとりひとりにあるように思います。
タナカ・下條 ありがとうございました。










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