対論
[知覚と身体の多元世界解釈〜ライヴ]

タナカノリユキ×下條信輔


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[スライド1]


[スライド2]



[スライド3]



[スライド4]

下條 ここからは私とタナカノリユキさんとでしばらく話をしようと思います。まず、井辻さんのビデオレクチャーについてですが、私の考えではパラレルワールドには想像力が大事で、それは反実仮想に繋がるわけですが、一方で創造性にも繋がっていると考えています。取材当日、タナカさんが井辻さんと話をされていた部分も含めて、タナカさんから感想なりを聞いてみたいんですが、どうですか?
タナカ そうですね。今日ここまでは、宇宙論、哲学ときて、井辻さんのファンタジー論、人間が昔から持っている創造神話みたいな側面と、三方からパラレルワールドを見てきたわけですが、それだけだと僕なんかは、ちょっと自分のことに思えないというか、どこかリアルじゃないんですね。もちろん、それを研究している学者のレベルではリアルなんでしょうけど、自分自身の問題にするとちょっと遠い。例えばファンタジーについても、じゃあ、結局のところ、面白いことを考えつけばいいんじゃないの、というふうにも思えてしまう。だから僕がここで話すべきことは、パラレルワールドをもっと自分たちの身体の問題として捉えるというか、一生命体としての人間の中にも感覚的にパラレルワールドのようなものはあるんじゃないか、というスタンスで下條さんといろいろ話してみるということなんだと思うんです。
下條 つまり、「『ハリー・ポッター』を見てない私にとってはパラレルワールドなんて関係ないよね」とか「誰かが別世界を想像したとしても私の問題じゃないよね」ということなのか、むしろ私たち自身の身体の動かし方とかモノの見え方とか、そういうことの中に潜在的にパラレルワールド的なものは根ざしているんじゃないかということを話してみようということですね。それは多分、先ほどの野矢さんとタナカさんの対論にも通じる話だと思います。野矢さんのお話というのも「私の問題です」、ということですよね。人間が人間である以上、絶対そうであるはずで、野矢さんはあくまで一人称で自分の問題として語っていたけれども、それには普遍性があるというお話だったと思います。

潜在過程と知覚や行動、どちらが先立つのか?

下條 まず最初に映像をお見せします。私は2007年に国立台湾大学でイリュージョン展をやりまして、そのときに舞踏家の喜多尾浩代さんに協力していただいて行ったパフォーマンスです。カラフルな映像の中で一人ないしは二人のダンサーが踊っている映像です【スライド1】。
この映像で二人に見えた一方は、24時間前に踊った喜多尾さんの映像です。なぜこの映像をお見せしたかというと、自分が一回性であって身体も一個であって、自分の身体を外から見ることは基本的にないという、人間の生物学的な基本条件みたいなモノが、パラレルワールドないしはパラレルワールドの一つにしか棲めないという事実と関係していると考えたからなんです。これはタナカさんがこだわっていた、自由なのかズレなのかという問題にもすごく関わっていて、24時間前に踊ったときの身体感覚とのズレとか、シンクロニシティとかと関わっていると思います。
ここで一つ言っておきたいことは、後で多分野矢さんと議論できると思うんですが、潜在過程は知覚や行動に先立ち、それらを決定するということです。この場合の潜在過程とは、自覚できない認知神経過程や身体生理過程を指します。
タナカ もう少し詳しくお願いします。
下條 両眼立体視の例でお話しましょう。【スライド2】
ご存じのように人間には目が2つついていて、そのおかげで針に糸を通しやすいわけです。それは両眼の間で網膜像に少しズレがあるから、それが奥行きを生むわけです。これが面白いのは、発達的に見ると平均4カ月齢の赤ちゃんから、奥行き的に見ているという証拠があるんです。行動的な証拠もあるし、脳波による証拠もある。でも、この図を見てもわかるように、このシステム自体はそれなりに難しい幾何学の問題なわけです。少なくとも4カ月齢時の赤ちゃんに解ける問題じゃない。でも赤ちゃんは立体視できる。それが潜在という意味です。もう一つ。左の図は、大きさの同時対比でよく使われる図です。上下の真ん中に描かれた○の大きさを比較すると、一見、下の方が大きく見えるけれども、実は同じサイズであるというものです。これは、見え方は潜在過程に支配されているという例です。知覚には曖昧性や多義性があって、それを解くときにも、本人のあずかり知らぬところで、潜在過程が働いていると思うんです。
これは有名な『ルビンの壷』です【スライド3】。この絵は、真ん中に白い壺が、両脇に人の横顔が見えるヤツですね。これは壺や横顔がいかなる形かを知らないと、図地反転は起きないと思っている人が多いかもしれませんが、そうではないんです。知識には関係がない。何の意味も持たない白と黒の図を示しても、人はどちらかを図に、どちらかを地として見るわけです。
ただし、もしも横顔が先に見えた人は、なぜ横顔が先に見えたかを知らないし、壷が先に見えた人もその理由を知らない。それは頭の中の潜在過程で処理されているわけです。ここにはある種のパラレルワールドがあって、もしもここでどっちが先に見えたかを観客の皆さんに問えば、両方の人がいるわけです。つまりその瞬間、同じ絵を見ているにもかかわらず、ある人は壷を見ていてある人は横顔を見ている。
これも有名な絵ですが、トランペッターと女性の横顔が見えるはずです【スライド4】。多分トランペッターが見えやすいのだろうと思いますが、ここでタナカさんに質問です。仮にトランペッターが先に見えて、10秒後に女性の横顔が見えたとします。その時に女性の顔はいつから存在したと思われますか?
タナカ 最初から存在したというのをどう捉えるかですけど、自分が認識してない時は存在していなかったということかな。
下條 最初はなくて、認識した瞬間から存在し始めたということですね。この場合は卑近な例として、2つの見え方をパラレルワールドとして考えているわけですが、パラレルワールドが面白いと思うのは、すべてのパラレルワールドにはいつから存在したかという問題があると思うんです。
右の絵も同じような隠し絵です。大抵の大人、特に中年男性に訊くと、裸の男女が絡んでるという答えが返ってきます。でも6、7歳くらいの子どもに割と近い位置で見せると、イルカが泳いでるって答えるわけです。裸の人なんていないよっていうわけです。その時に見方を説明すれば、裸の男女が見える子もいますが、どう頑張っても見えないという子もいるんですね。
タナカ いや、僕の知り合いで、イルカなんて全然見えないって人もいますよ。
下條 そうそう。かく言う僕もイルカはなかなか見えなかった(笑)。で、ここで何を言いたいかというと、人は自ら見たいモノしか見られないというのが根強くあります。この場合なら別に、裸の男女を見てもいいし、イルカを見てもいいわけですよ。でも、どちらが先に見えるのは、その人の自由意志ではなく、自らのあずかり知らぬところで決まっているような気がします。
もう一つ面白いと思うのは、これは後で佐藤先生にうかがおうと思うんですが、パラレルワールドはいつから存在するかという問題。物理学でそう簡単に無限個の世界を想定していいのか、ということもあるし、それぞれの無限の世界はいつから存在したのかというのもわからない気がするんですね。存在することと見えることの違いというのもあるかと思います。不可能な三次元構造というのは、静止画や映像の世界では作ることができますよね。そうすると、アートやデザインの世界なら、本当に存在するかという問題とアピーリングであるという問題は別でしょうから、現実には存在し得なくても、見せることができるならアリ、という考え方が成り立つように思います。井辻さんのお話で言えば、存在することは不可能でも想像することはできるという話がまずあって、存在することは不可能でも見えるようなモノを創ることは可能であるということになろうかと思います。ですから、人間の視覚や認知の構造から、物理的な意味では不可能だが、独自の意味で存在しているものがあるのではないかという議論です。もちろん先ほどタナカさんが言ったように、存在とはどういう意味かというポイントはあるんですがね。

他知覚可能性、検出・識別とパラレルワールドの関係。

下條 さてここで、すごく極端なことを言います。他知覚可能性はあり得るだろうかという問いです。これは別様に知覚するということなんですが、先ほど野矢さんが反実仮想の話で言われたように、別の意志、別の行為の可能性なしに自由はあり得ないという議論が哲学の世界では有力ですが、今の言い方はそれを真似てみたわけです。
例えば赤という色があります。赤には独特のクオリア、本人しか知り得ない感覚的な質があります。しかし赤のクオリアをよく考えてみると、赤の知覚はもしその観察者が他の色を見たことがないならば、そもそも不可能だということが言えるかもしれない。つまり光を見たとは言えても、赤を見たとは言えないんじゃないか。赤が見えましたというのはどういうことかというと、緑でも青でも黄色でもなく、とにかく識別しうるすべての色でなくまさにこの色であるということが成り立たない限り、赤が見えたということは成立しないのではないかという気がするわけです。
言語学者のソシュールという人は、意味というモノが成立するために差異のネットワークが必要だ、ということを言っています。どういう意味かというと、例えば犬と猫と猿を考えると、それぞれの類似関係は当然三角形になります。それぞれに英語だと、ドッグ、キャット、モンキーという音が割り振られていて、その音に固有の意味があるわけではなく、音として違っていて、見た目の違いに対応していればそれでいい、ということなんですね。この種の差異のネットワークが存在しないと、クオリア経験は不可能なのではないかと考えるわけです。つまり、クオリアは弁別、識別ですね、識別に基づく。識別がないところにクオリアは成立しない。これに対する反論は例えばこういうことが考えられます。でも、明るい光は見えるでしょ。赤を赤と名指せなくても明るい光が見えたとはいえるはずじゃないかと。
暗いものを見たことがなくてはいけない。では、聞こえたのではなく見えたのだ、という議論はどうか。これも聞こえたと見えたの間の識別、差異のネットワークが必要になる。この議論の最後は大抵こうなります。「そうは言っても、存在と非在の区別くらいはつくだろう」。つまり知覚というのは、検出してから識別するという仕組みになっていると考えるわけです。直感的な言い方をすると、少なくともあそこに何かあるということはわかるという段階があって、その後に赤色の信号だったとかクルマだったとかという識別が行われる。つまり、存在と非在に関して言えば、知覚の基礎機能だから、他知覚可能性がなくても見えたと言えるだろうという議論は成立すると思うんです。ところが、見えたということを、視覚科学のラボラトリーでどのように調べるかというと、例えば1分間をピ、ピ、ピという3回の音で区別したとします。3つの音で区切られたふたつの時間帯のうち、どちらに光が見えたかを答えてくださいという調べ方です。その場合、見えていないときの見え方、クオリアですね、それを抜きに見えたとは言えないんです。非常に見えにくいものを使っていますから、光が見えるか見えないか注意しなくてはならない。だから検出、つまり非在に対して存在を検出することすら、見えてないこととの比較検討でしかない。どこまで行っても比較検討でしかないわけです。
今の話は非常に基礎的な知覚の話です。もちろん、行為や意志決定の場面、それは買い物や選挙の投票においても、パラレルワールドは普通に存在するわけです。選ばなかったチョイスが出てくる。後悔するとか選択の自由を感じるというのもその類のことです。他に別様のチョイスがない場合、後悔するということはあり得ないですよね。国産車を買って後悔するのは、外国車を買うチョイスやクルマ自体を買わないチョイスがあったから後悔するわけです。選択の自由を感じるのも、今、コーヒーがサーブされたけれど、紅茶をオーダーする手もあったから、自由を感じるんだと思います。
どうやらこの世界のリアリティには、知覚、認知、判断、記憶のすべてにおいて、どこにもパラレルワールドがあって、むしろパラレルワールドに基づいてると言ってもいいほど、それを前提としている。言い替えれば、差異のネットワークに基づいている。そして意志決定の場合には、内部シミュレーターが機能している。それは後悔するときや自由を感じるときに、あちらを買っていたらどうなったかと、反実仮想が働く。
もう一点、先ほどの井辻さんのビデオにもあったように、過去の歴史を改ざんすることもパラレルワールドと言えるかもしれない。自分の母親を殺すか殺さないかで別れてくるのと同時に、現在地点が近似的に同じであったとしても、そこに辿り着く道筋はいろいろあるということです。例えば、聖書の歴史解釈とは違う歴史解釈を提出することもできる。そういう先を見るパラレルワールドと回顧的なパラレルワールドが往ったり来たり織り混ざっているところに、この世が成立しているような気がします。こういう反実仮想構造は、知覚、記憶、意志決定、情動のすべてを貫いている。ただ物理学における別世界というのは反実仮想とも違うような気がするので、それは後ほど佐藤先生に訊いてみようと思います。

知覚におけるカテゴライズとパラレルワールドの関係。

タナカ 話が見えてきた気がしますが、もう少し突っ込んでみると、今の差異の比較検討によって、存在が見えてくるというお話でしたが、記憶や判断といったことは地と図みたいな感覚があるんですけど、意識と潜在意識は地と図じゃないような気がするんですが、その関係性はどうなんでしょうね? 記憶に関係することなら意味や言葉を生んで、ネーミングされてわかりやすいじゃないですか。でもそれ以前にもあるという話ですよね。ただ、赤のクオリアは他との比較でしかわからないとしたときに、それが単に図と地みたいな関係なのか、それとももっと多層的なのか、もしくは多次元マトリクスみたいなものなのか。
下條 それはよくわからないけど、全部ありなんじゃないかな。例えば検出の話で、誰が見ても何かは見えるんだがそれが何かはわからないがまずあって、その後でそれが赤いものだという判断が来ると思うじゃないですか。でも、そんなことはないという実験結果もあるんですよ。それは、何も見えていないが強いて言えば赤だと思うということ。それは検出よりも先に識別が行われたわけです。ですから、ヒエラルキー構造はたしかにあるんだけれど、その構造を拒否するようなメカニズムが働くこともあるということですね。
今、タナカさんの話で私が思ったのは、差異のネットワークということを前提に議論していたんだけれど、差異のネットワークがどこから来たかという発達的な質問というふうにも取れる。
タナカ そうですね。その形成されているメカニズムみたいなことです。
下條 なるほど。赤ちゃんの知覚学習というのは、カテゴライゼーションの学習、分類することの学習なんですよ。そのいい例は言葉の学習でして、LとRをうまく識別できないけれど、日本人の家庭で育った日本人の赤ちゃんでも、新生児は識別できるという証拠がある。日本語の学習というのはどういうことかというと、LとRを敢えて識別しないで、同じカテゴリーに括り込むようにすることが、日本語を学ぶこと、という言い方ができる。言語を学ぶということはある意味、識別能力を喪失することなわけ。そういうカテゴライゼーションがイエス・ノーとか存在・非在とか複数あって、ようやくクオリアというもの、つまり主観意識も芽生えてくるのかなと。
タナカ ズレとかゆがみとか、強度の違いがどうなのか、というのもありますね。
下條 そうです。例えば、青緑といういやらしい色があってね。
タナカ 青紫や赤紫ならわかるけど青緑というのは何なのっていう。
下條 でも、青と緑を混ぜ合わせれば青緑はできるわけで、その色を名付けさせるんです。これは緑だと思う? それとも青?という形で。そうするとだいたい半々なんですね。で、その色をジーッと見つめてもらって、残像を作る。緑の残像は赤っぽくて、青の残像は黄色っぽいんだけど、その残像の色を後で訊いてみると、面白いことに、与えられた物理刺激、色の波長は同じなのに、作られた残像は最初に訊いた緑か青かの答えを反映するんですね。つまり緑と答えた人は赤っぽい残像を、青と答えた人は黄色っぽい残像を作る。でも彼らは色の反対色の原理なんて知らないわけです。ここで何が言いたいかというと、知覚はカテゴライゼーションであると。しかも、その境目のところは揺らいでいて、タナカさんの言うズレとは意味が違うかもしれないけれど、曖昧なところである種、脳が意志決定をしているわけです。
タナカ カテゴライズされたときというのは、言語化、顕在化するんですか?
下條 ほとんどの場合はそうですが、そうである必要はなくて、例えば赤ちゃんの色知覚だとハビチエーションという、飽きて目を逸らすとか面白いから見るとかという行動的な指標を使って、カテゴライゼーションを示すことができるんですね。知覚学習は分類することだと言いましたが、分類することは行動で示せればいい。
だから一つ言えることは、パラレルワールドについていろいろな議論をしてきましたが、ほとんど全部が行動とか行為と繋がったところで、別れたり区別されたりしているということは言えるでしょうね。
タナカ カテゴライズすることで、もう一つの世界を選択したり受容したりしているということですよね。その時に、それは蓄積をされるわけですか、それともその時の判断で消え去るものなんですか?
下條 あー、素晴らしい質問。いつも私は来歴という曖昧な言葉を使っていますけど、すごい遠い過去も卑近な過去も今の瞬間に影響を及ぼしているわけですよね。それはさっき言った前向きのパラレルワールドと後ろ向きのパラレルワールド。つまり、過去の再解釈みたいなもの。
タナカ 記憶とかそういうことですよね。
下條 そうそう。それが往ったり来たりしているんだと思うんですよ。それにはわかりやすい例があります。
昨日、親友に逢ったら、よくわからないけど何だかヘンなことを言っていた。解釈できないんだけど、勘違いかと思って、その時はあまり深く考えなかった。でも、後でよくよく考えてみたら、ヤツは私の彼女とヘンな関係になっていて、そのことを踏まえて言った非常にシビアな発言だったということに気づいた。そうすると、私のその親友に対する気持ちは変わるわけです。変わったのはいつかと言われれば、その気づいた瞬間なのだけれども、でも彼がその発言をした瞬間、その時点まで遡ってマーキングして、私の感情は変わるわけです。つまり、過去の再編成とか再解釈が起こって、過去からの来歴を引きずった情動的な時間軸全体の色が変わるわけです。今まで親友だったのに裏切ったんじゃないかと。そういうことは実はよくあることだと思うんですね。
そういう意味で、前向きと後ろ向きの両方のパラレルワールドが往ったり来たりしているというのが、脳の知覚と認知と記憶のダイナミックな実態なのではないかと思うわけです。それを抜きにしてわれわれのメンタルライフを考えることはできないし、おそらくそれは相当に身体的な話だと思うんです。
タナカ なるほどね。あともう少し前に話してたことで訊きたいことがあるんですが、下條さん「人は見たいものしか見ない」って言ってたじゃないですか。あれは、憶えたての言葉で言うと(笑)、決定論的なんですか?
下條 そうねぇ、これは総括討論で野矢さんとやり合うことになると思ってるんですけど、私は決定論的だと思ってます。野矢さんの反論は多分「決定論的であって、決定ではないでしょ。その論的という部分にまさに自由が存在しているんです」ということだろうと思うんですが、じゃあ、なぜ野矢さんは進歩という言葉を使ったのだろうと思うわけです。つまり、法則を見つけてそれをリファインしていく、そしてもっとたくさんの現実に該当することで自然科学は進歩する、というふうに言われたわけで、なぜそれを進歩と呼ぶのかと私は思う。自由をギブアップして決定論に委ねたぶんだけ進歩と言っているのではないかと。でも、これは欠席裁判になっちゃうので、後でまた。
タナカ そうですね。あと、最後に1点だけ。下條さんがここで言っている「存在」とは、どういうものを指しているんですか?
下條 私はどれか一つの存在論を主張する気はないんですね。先ほどタナカさんに訊いたのは、存在と言ったときにいろんな意味があり得るけれども、その意味の取り方によっていつ始まったかも違ってくる、ということを言いたかったんですね。それは量子力学や宇宙論といったところに行かなくてもそうだろうと。逆に量子力学や宇宙論でパラレルワールドと言ったときに、宇宙Aに対して宇宙Bがあるとしたら、その宇宙Bはいつから存在したのかと。一番バカバカしい考えは、ある物理学者がマルチヴァースというアイディアを思いついた瞬間にその宇宙は存在し始めた。でもこれはやはりおかしいと思うんですよ。じゃあ、いつから存在したのかと。宇宙の開闢以来存在したとなると、その理論が間違っていたらどうなるという問題がある。たしかに野矢さんは基礎法則はそう簡単に覆らないと言われましたが、それは思想の枠の大きさや歴史で変わり得るわけで、宇宙論などではまだまだ変わり得る余地があるはずです。実際、佐藤先生のインフレーション理論も大筋では信じられているけれども、その発端のところでは別の説がいろいろと出てくる。ですから、理論が覆った時に、存在しているとされていたものはなくなるんですかねぇ。
タナカ なぜ「存在」について尋ねたかというと、知覚の話で言えば、知覚における存在というのは、私が見たとか、私が感じたとか、ということで成り立ってるわけじゃないですか。それと今話されている存在は同じなのか違うのかを知りたいんです。
下條 それは次の総括討論で、もう一種類別のものなのか、タナカさんの言った知覚とか想像、いわゆる人間の認知能力におけるパラレルワールドの一種なのかを、佐藤先生にぶつけてみるのがいいかと思います。では、次のプログラム、総括討論に移りたいと思います。




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