基本レクチャー
[「人間の自由は科学の名のもとに幻想だとされてしまうのか」
という問いに対して「そんなことはない」と答えたい]

野矢茂樹
東京大学教養学部教授/哲学


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下條 では次のゲストをご紹介します。東京大学の野矢茂樹先生。哲学のベストセラーでみなさんよくご存じかと思います。実は彼は私と高校の同級生でして、生意気でええかっこしいだけど頭のいいヤツがいるなぁと思ってたんですね(笑)。学校の行き帰りによく難しい話をしていたように記憶しています。その後、大学でも学科こそ違え、よくキャンパスで会うようになり、私も哲学ファンでしたから、野矢先生のご師匠である大森先生のゼミに一緒に出たりしていました。ま、そんなことで、私にとって彼はオールマイティのジョーカーでして、どんなテーマでもお願いできる存在だったわけです。
で、今回、ついにお願いすることができました。私はパラレルワールドと自由は何か関係があるのではないかと思っていまして、野矢先生はまだ、自由についてそれほど語っていらっしゃらない。そこで野矢先生には、哲学の立場から「自由」について語っていただこうと考えたわけです。では、よろしくお願いします。
野矢 野矢です。よろしくお願いします。今、ご紹介いただきましたように、これから「自由」についてお話しするわけですが、私がここで考えようと思っているのは、大変ささやかな自由でして、例えば、今、私は手を挙げました。この手を挙げたのは、私が自由に手を挙げたと言いたいのです。つまり、手を挙げる自由を確保する、ただそれだけのことです。それ以上、いろんな意味の自由があるけれど、それらの一番基本にあるのがこの、手を挙げる自由だと思います。ではこの手を挙げる自由というのは何を意味するかというと、それはつまり、「手を挙げた、でも、挙げないでもいられた」ということです。このことを確保したいと思います。
しかしこの問題は、論争できないんですよ。今、私が手を挙げたときに「挙げないでもいられた」と言っても、隣にいる下條さんのような人から「いや、そんなことはない」と言われたら、反論のしようがないんですね、実際、挙げちゃったわけだから。でも「君は手を挙げるように決められていたんだ」と言われると、逆に私の中には「そんなことはない!」という、ものすごく強い実感があるわけです。でも、一旦挙げてしまった以上、挙げないでもいられたことを証明することはできないわけです。
佐藤先生の多世界解釈のお話の中の、世界がどんどん分岐していくというお話は、もしかすると自由にとって足しになるのかなと考えながら、うかがっていました。が、残念ながら、足しにはならないなぁ、という結論なんですけどね(笑)。それはつまり、多世界解釈によれば、過去において無数に分岐した一つが私たちの今の世界なわけです。そしてこれからもまた、分岐してゆくという。だけれども、私が手を挙げたときに、別の世界に手を挙げなかった私によく似た人がいたとしても、この私の自由には何ら関係がないんですよ。私が言っているのは、手を挙げちゃったこの私を何とかしてくれという話ですから。挙げちゃった私が「それは決められていたんだ」と言われたときに、それに対してどう言い返したらいいかを今日は皆さんに伝授したい。いや、そんなに偉そうな話じゃなくて(笑)、反論するための私なりのアイディアを聞いていただこうと思います。

自然科学は、決定論的な法則など与えない。

「君は手を挙げるように決められていたんだ」と言ってくる人は、自然科学、基本的には量子論以前の古典力学ですが、をバックグラウンドに持っています。これを決定論というわけですが、まず、決定論というものを簡単にご説明しておきます。
決定論というのは、この世界が決定論的な法則に従っているという考え方です。因果法則に限るとちょっと狭くなってしまいますが、ここでは因果法則で説明させていただきます。ある出来事Aが起きると、それによって必ず、出来事Bが起こる。常にAの後にはBが起こる。このように、例外を認めない厳密な因果法則について考えたいと思います。
世の中には大まかな因果法則というのも多々あります。例えば、腐ったものを食べればお腹をこわす。これは一概には言い切れません。とても体調が良ければ、乗り越えられてしまうかもしれない。厳密な因果法則は、こんないい加減なものじゃあありません。そして決定論というのは、この世の中に起こる物事はすべて、何らかの厳密な因果法則に従っている。つまり、私が手を挙げたことも、厳密な因果法則の結果であり、挙げないでいることはできなかったのだ、という立場です。私にとって、過去は1つです。今ここに立ってしゃべっている私が生まれてから通ってきた過去は1つしかありません。その過去が1つに定まっているということは、原因が定まっているということです。そこに厳密な因果法則をかけたら、未来も全部決まってしまうわけです。そうすると、過去から未来まですべてが決定されている、という話になってしまう。
さて一方で、哲学の世界には両立論というのがあります。決定論と自由は両立するんだという論陣が、そんなに少数派ではなく存在しています。でも私は、その立場は弱腰というか(笑)、何を言っているんだと思うわけです。もしも、私が手を挙げることが何かに決定されていたとしたら、それはまったく自由の可能性を奪い去ってしまうものだと、私は考えています。ですから私はここで、決定論は間違っていると言わなければならない。でも、正直、怖いんですよね。私は佐藤先生はいずれノーベル賞を取るんじゃないかなと思っているんですけど、そんな大先生の前で、これから決定論を否定するわけですから(笑)。
でも、もじもじしてたら時間がなくなってしまいますので、とっとと言いましょう。「自然科学は、厳密な因果法則なんてまだ1つも提出していない」。ふぅ、言っちゃった(笑)。もちろんすべてを調べたわけではないので、ホントに無責任な発言なんですけど、2、3の事例を紹介しながら、説明させていただきます。
まず、中学で実験したと思いますがフックの法則。これはバネのような弾性体の伸びと荷重は正比例するという法則なわけですけど、ところがこの世の中に、フックの法則に当てはまるものなんて1つもないんです。それはなぜかというとフックの法則の前提は、その弾性体が完全に均質であることです。だけどまったくムラのない弾性体なんてありはしないんですね。どこかにムラがある。
もう一つ、例を出しましょう。ボイル=シャルルの法則。「気体の圧力は体積に反比例し温度に比例する」というヤツですが、これもまた世の中にこの法則を満たす気体なんてありません。これが成り立つのは理想気体と呼ばれるもので、分子の間で相互作用する力を0と考えた気体なわけです。そんな気体はあり得ません。よってこの法則も成り立ちません。
次に、万有引力の法則。これは、もしも宇宙に2つの物体しかなければその物体間にこれこれの力が働くとする法則です。しかし、2つの物体しかないなんてことはありませんから、万有引力の法則もまた、厳密に成立している事例というのはない。
ただし、私は何も、自然科学にケチをつけようとしているわけじゃあありません。むしろ、このように基本法則と現実世界とのズレを見せることこそが、自然科学の持っている生産力の大きな源になっていると思います。ですから、自然科学はこのズレをもっと創りだし、もっと利用すべきだと思うわけです。
しかし、これらの基本法則はAが起きれば必ずBが起こるという厳密な因果法則ではないわけですから、これは世界のあり方を描写したものだと考えるのは誤りなわけです。これらの基本法則は世界のあり方を描写したものではなく、それは自然科学の探究の指針を表したものだと、私は言いたい。そのことを後半で説明します。

私の自由を確保するために、私は因果法則を出し抜き続ける。

基本法則は自然科学の探究の指針を表したものという考え方を説明するために、科学の歴史で一番印象的だった事例をパラダイムケースとしてご紹介します。ニュートン力学についてです。かつて、天王星の軌道を観測したところ、ニュートン力学での計算結果と違っていた。基本法則との間にズレがあったわけです。その時に自然科学は、ニュートン力学を疑うのではなく、何かズレを生じさせるような原因があるはずだ、と考えました。つまり、天王星に影響を与えている未知の力があるはずだ、と考えたわけです。そして、海王星を発見しました。1846年のことです。これは素晴らしくドラマチックな結果でした。
これを私なりに解釈するとこうなります。基本法則というものは、現実世界との間にズレを持っている。そのズレを説明するような要因をこの世界に探してゆく。この時に基本法則が果たした大きな役割というのは、自然科学にとっての探求の対象を探し出す、昆虫の触角のようなものなわけです。つまり、現実世界に基本法則というバイアスをかけると、基本法則とズレている部分が浮かび上がってきます。そのズレを見つけ、そして基本法則を守るような原因を見つけ、説明をしてゆく。この解釈が自然科学の活動を的確に捉えているのであれば、次のようなことになります。自然科学は世界のあり方が決定論的であることを示したわけではなく、厳密な因果法則で世界が成り立っていると考えて世界を見るといろいろなことがわかるから、このやり方で世界を探求している。これが意味するところ、基本法則は世界を描写したものではなく、探究の指針だということです。
では、それが私の自由とどう関係してくるのか。ここから先は独断ですが、厳密な因果法則と世界のあり方との間のズレは永遠に解消されないだろうと思うわけです。そしてまた、解消する必要もないでしょう。もしも、厳密な因果法則を見つけたと主張する科学者が現れたとしたら、私自らが身体を張って、ズレを創り出す準備があります。
というのは、人間の行為というのは、まさにわれわれが自由だと確信している行為は、厳密な因果法則から常にズレを創り出せると思うんです。つまり私が左手を挙げる行為に対して、厳密な因果法則が提示されたとしたら、私はその因果法則を裏切るような行為を採ることができる……はずだ……と思う(笑)。でもそういうことだと思うんです。ただ、向こうがそういう厳密な因果法則を出してきてくれていないから。
例えば「あなたは5分後に左手を挙げる」という予言を法則に基づいて出してきてくれたら、私は5分後に挙げなければいいわけで、もしその時に本当に左手が勝手に挙がってしまったら、私は哲学的な立場を換えるかもしれません(笑)。だけれども、私は厳密な因果関係を裏切ることができると、強く確信しているんです。この話は、私の先生でもあった大森荘蔵さんが自由と決定論を論じたときに「予言破りの自由」という言い方をしていたものです。これは論証でも何でもないんですが、確信ですからどうしようもない。
ただ、私が何か決定論的な因果法則を裏切る行為をしたとすれば、自然科学の側はまた、そのズレを説明するようなファクターを出してくるでしょう。そうやって自然科学は改良してくる。それがまさに海王星の発見につながってゆくわけです。ただ、私はまたその説明を裏切るわけです。するとまた自然科学は改良する。イタチごっこです。それも永遠に続きうるイタチごっこなわけです。その確信こそ、私が自由であることの実質だと私は考えています。以上が、私のアイディアです。


対論
野矢茂樹×タナカノリユキ


タナカ ありがとうございました。非常にわかりやすくお話しいただきました。実は下條さんから、事前に野矢さんの本を読んではいけないときつく言われていまして、不躾ながら、今日、野矢さんのお話を初めて聞いたフレッシュな状態で、いろいろ質問をさせていただこうと思います。

因果法則と決定論と「私が左手を挙げる自由」。

タナカ まず、因果関係と決定論についてなんですが、今、野矢さんは自然科学に限定してお話になったように思います。では、人と人との関係性における因果関係というのも、自然科学の中の話として語れるものなのですか?
野矢 人間の行為についていろいろな法則が出されていますが、大抵のものが、大まかな因果法則です。先ほどの「腐ったものを食べれば腹をこわす」みたいなものですね。天気の予測などもそうです。でも、自然科学は、厳密な因果法則を提示しているかのような見かけをしているんです。地震観測の例でもう少し補足しましょう。地震の揺れには縦波と横波があって、それぞれに速度の公式があり、それを使って地震観測所で計測すると、震源まで何キロ離れているかがわかるわけです。そうすると、その観測所から何キロという円が描けます。それをいくつかの観測所で行えば、それらの円の交わる点が浮かび上がり、震源地を特定できる。でも、仮に1点に絞れないようなことが起こったとしましょう。その場合、どう処理されるかというと、ニュートン力学を疑うのではもちろんなく、地球の内部や地殻の構造にまだ知られていないことがあるのではないかと疑うわけです。それが基本法則を固定しておいて、現実を解釈し直してゆくという話です。地震観測所では、ニュートン力学の基本法則は反証できない構造になっているんですね。
タナカ それが厳密な因果法則ということですか?
野矢 いえ、厳密な因果法則に見えてしまうだけです。地震観測所などは基本法則を固定した上で観測や研究を行いますから、そこでは基本法則は反証不可能になっている。だから、厳密な因果法則に見えてしまうんです。本当はそうじゃないのに。
タナカ なるほど。でも、そのことと自分の左手を挙げることとの繋がりがよくわからないんですが。
野矢 厳密な因果法則によって世界が成り立っているのなら、私が左手を挙げたことに対しても、それを説明する厳密な因果法則が存在してしまうわけです。そうすると、私が左手を挙げることも因果法則で決められていたことになってしまうでしょ。
タナカ 決まってたというか、そこまで解明できるのが科学だということですか?
野矢 科学はそれを明らかにしてみせるというような雰囲気を醸し出しているわけです。少なくとも哲学者はそう感じていて、両立論とか非両立論とかいろんな議論が出てくるわけです。ただ、私個人は非両立論に立っているので、厳密な因果法則が成り立っていたならば、自由の可能性はなくなると考えるわけです。そうすると、私が左手を挙げる自由はないということになってしまいますよね。ですから、私がやることはただ一つ、自由は不可能だといわれたら、闘わないといけない、ということです。
タナカ 厳密な因果法則と現実世界のズレみたいなことをおっしゃっていたと思うんですが、そのズレが自由なんですか?
野矢 ズレこそが自由というのはちょっと違うんですが、それほど遠くない(笑)。自由な行為がズレを生み出せるんです。こう考えてみてください。行為はズレを生み出しますが、ズレだけなら、自然科学はそれを吸収していきます。海王星を発見することで、天王星のズレを吸収したようにね。世界が厳密な因果法則からズレていることなんて、自然科学はちっとも怖くない。むしろそれを吸収することが科学の使命であり、科学の生産性でもあるわけですから。ただし、吸収されてもなお、そこからズレてゆく。科学がまたそれを吸収する。で、またそこからズレてゆく。このズレと吸収の際限のない運動、これこそが自由だと私は思うんです。
タナカ ということは、ズレも自由という話にはならないですか?
野矢 それはならないでしょー(笑)。
タナカ じゃあ、その時の最初の自由というのは、どう存在しているのですか?
野矢 いや、正直に打ち明ければ、そもそも自由な行為とは何なのか、私にはまだよくわかってないんですよ。
タナカ 難しいですよね。
野矢 ただ、付け加えて言えば、自由な行為はいかにして成立しているのかという問いは的をはずした問いだと、私は思うんです。自由な行為が生み出されるメカニズムと言った途端、それはメカニズムに組み込まれているわけで、自由とは言えなくなる。例えば自由意志みたいなものがどこかにポッと出てきて、それに対応するような脳の興奮があって、というようなことを言ってしまうと、それはもう脳科学の決定論の中に組み込まれていってしまう。自由な行為というのは、それを生み出すメカニズムというような問いから逃れてゆくことだと思うんです。ですから、基本的に自然科学の問い方と違う問い方をしなくちゃいけないんだと思います。
タナカ じゃあどう問えば?
野矢 どう問えばいいのかとなると、下條さんの紹介にもあったように、私はまだ自由への問い方までは見えていない。
タナカ では、ここで言う自由って何なんでしょうね。
野矢 だから、そこはわからないって言ったじゃないですか(笑)。
タナカ あ、そうか、申し訳ないです(笑)。
野矢 今ここでは、手を挙げる自由について考えているから、ここで私が確保したいのは他でもない「手を挙げないでもいられた」という素直な実感です。それはタナカさんもお持ちでしょ? タナカさんは今ここに座っているけれど、家で寝ていてもよかったんだ、みたいなことを思うわけですよね。そんな素直な思いを閉め出さないで、生かしてやること。自然科学はそれを閉め出しているように見えるから、いやそうじゃないでしょと挑むわけです。そのためにはおそらく、自然科学とはまったく別の語り方を自由という概念に対して与えなくてはいけないと思うわけです。
タナカ なるほど、よくわかります。
野矢 その意味で、決定論がダメだから非決定論にいって、量子論なら自由を担保してくれるだろうというような考え方は、私には全然魅力がない。その点についてひと言、付け加えておきます。量子論というのは、ある世界の状態、ミクロの状態ですが、それを確率的にしか捉えない。絶対的にここにこういう運動をしているものがある、というような言い方はできなくて、確率的にしか状態を規定できないんですね。そのためにアインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」なんて言い方をしたわけですが、逆にもしも量子論が正しくて、神がサイコロ遊びをするというレトリックを使うなら、神にサイコロ遊びをされても、われわれは自由じゃありません。サイコロで6が出たから野矢は左手を挙げるとか、1が出たから下げるとかね。そんなの全然自由じゃない。だから非決定論を持ち出したところで、自由はまったく担保されないという印象を持っています。

因果法則を提示できない科学と、自由を見定められない哲学と。

タナカ 先ほどおっしゃっていた衝撃のひと言(笑)「自然科学はまだ厳密な意味での因果法則を1つも提示してない」と自由の不確かさみたいなものの関係性の中なのかもしれないけれど、「なぜわからないものを自由と呼ばなくてはいけないのか」という点について、もう少しお話をうかがいたいんですが。例えば、「遊び」とか「ズレ」とかね。ハンドルにも遊びが必要だったりするじゃないですか。
野矢 自然科学が世界のあり方を解明しているという点に関して異を唱えるほど私は大胆ではないのですが、世界のあり方すべてを解明しうるという見解に対しては、そんなことはないだろうと言いたいわけです。それはさっきのイタチごっこがまさにそうで、私は絶えず自然科学を出し抜くことができる、私が左手を挙げるだけで、自然科学の不完全性というものが見えてくると私は思っています。自然科学は原理的に不完全なものであって、世界の全てを明らかにするものではない。で、イメージで言うと、自然科学が解明した世界は穴ぼこだらけというか、穴ぼこのほうがずっと大きい。佐藤先生がさきほど「宇宙創生のシナリオがわかってきた」とおっしゃられたけれども、でも、わかったことよりわからないことのほうがずっと多いはずなんです。それは別に誹謗中傷で言ってるわけでは全然なくて、穴ぼこに自由が棲むことができるだろうと私なんかは考えるわけです。穴ぼこそのものを自由と呼んでいるわけではないですよ。穴ぼこがなければ、自由というものは抹消されてしまう。そうやって穴ぼこを開けて、これから自由というものについてポジティヴに考えてゆくための地ならしをしてみたという感じです。
タナカ で、しつこいようですが、気になるのは、その時になぜ自由という言葉に幻想的な憧れのようなものを抱くのか。
野矢 憧れっておっしゃるけれど、左手を挙げる自由ってそんな憧れるほどの自由じゃないですよ(笑)。これはもしかすると、タナカさんと私のセンスが別れるところという気がします。私は憧れみたいなものに導かれて哲学やってる感じではない。むしろ、これは困ったなという感じのほうが強いんです。決定論の脅威があって、このままでは私の自由が抹殺されかねない。これは嫌だなという、障害物を取り除くみたいな感じが根底にあります。でも、タナカさんは多分そうじゃないんですよね?
タナカ 僕はただ動いてるからいいじゃないとか、ズレてるんだからいいじゃない、ということでもいいかなと思っていたんですよ。ただ、自由というものが何かがわからないのに自由と言ってしまうこと、実態がはっきりしないけれどそう言わざるを得ないところが、なぜなのかなという気がするわけです。
野矢 自由だと言っちゃいけないという自然科学からの圧力があるから、それに対して抵抗したいというのはありますね。そして自由の意味をポジティヴに明らかにしていくことは、これから私自身がやっていかなくてはならない作業だと思うけれども、ただ今のところ、そのことに関してはそれほど情熱を持てていないんですね。それはなぜかというと、私が自由に与えている意味づけというのは非常にミニマルなもので、手を挙げたけれども挙げないでもいられたという点に尽きるわけです。現実にできることは1つしかないわけで、その意味ではマルチヴァースじゃなくて、ユニヴァース。ただユニヴァースなんだけれども、反実仮想は認めたい。そうしないでもいられた、そうじゃない可能性もあったというただ1点だけなんです。それ以上の豊かな何かを自由に求めるつもりは当面ありません。
タナカ でも科学はそれを凌駕する可能性があるということなんですか?
野矢 科学がそれを侵蝕していって、お前の自由は幻想なんだと突きつける力がある、と考える人も少なくないということですね。
タナカ 自然科学はまだ厳密な因果法則を一つも提示できていないわけですよね。そんな自然科学でも脅威を感じる?
野矢 たしかにおっしゃるとおりで、向こうが何かを出してくるまで待とうというのが大人の態度ですよね(笑)。それはわかているんですが、ついムキになってしまうんです。すみません、子どもで(笑)。
タナカ いえいえ、不躾な質問にお付き合いいただきありがとうございました。


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