基本レクチャー
[〈自由〉の在り処]

田中宇×大澤真幸×タナカノリユキ×下條信輔(司会)


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下條 今日の大澤さんのお話には正直、意表をつかれたと言いますか、私自身発達も専門の一部としてやっているわけで、その点でも虚をつかれたと言いますか、非常に興味深い洞察だったと思います。特に社会心理の2つの実験は、一般的に人間の弱さを示す実験と言われてきたわけで、それに対してああいうポジティヴな解釈を加えたという独創性は、お見事だったと思います。
さて、ここでは私のほうから、なぜ私が情動をキーワードに自由の問題を考えたいかという問題提起も含めて、まず簡単なプレゼンテーションをやらせていただいて、すべてをテーブルの上にさらけ出した後で、討論に入れればと思います。
「人間は、本当に自由か?」という問いを突き詰めていくと「自由とは何か?」という問いに突き当たる、という話はイントロでもいたしました。具体的にはリベットの「準備電位」の話と私が最近研究している「視線のカスケード効果」の2つが、今日のゲストのお二人のレクチャーにつながっているというあたりをまず、お話ししたいと思います。
リベットというのは、人間の自発的な行為に先だって、頭頂から記録される準備電位がある、という事実を深く研究した人です。この発見は、脳神経系の活動によってわれわれのすべての行為は決定されている、ということ証明して見せたわけです。
これは神経科学の典型的な研究なわけですけれども、こういった研究の成果はある意味、人の心と行動を決定論的に説明してしまうから、結果として人の自由を奪ってしまいかねないというひな形の一つです。
もう一つがわれわれの「視線のカスケード効果」の研究です。視線と選好判断、つまり好きなほうを選ぶことと視線の関係についての研究です。本人が自覚的に選ぶ以前に、視線のバイアスが生じていることがわかったのです。視線のバイアスはほとんどの場合、自覚されていないけれども、少なくとも1秒くらいの先行が見られます。逆に、視線のバイアスを操作することで選好判断を操作することも部分的にですが、成功しています。
これまでの実験では、すべての被験者が視線の偏りが選好判断に影響していることを否定しています。「本人は効果を知らない」という意味で潜在的です。ここでの文脈で大切なことは、身体の動きが選好の自由を決定論的に支配していると言えてしまうわけです。わかりやすく言うとまず脳が決め、次に目が決め、最後に心が決める、そんな段階を踏むわけです。
英語で「自由な」を意味するfreeという形容詞は、「free from 」つまり「何かからの自由」という形で使われることが非常に多い。私は自由という場合、同じテーブルの上に選択肢がいくつもあって、そこから何かを選ぶことができる状態を想像していたんですが、そうじゃないケースもあるんだと気づいたわけです。問題は先のような神経科学的な意味で、自由があるかないかです。
広告界には、注意経済か報酬かという論争があります。広告は注意を惹けばお金になるという決定論的な考え方と、ヒトは自分が見たいものしか見ないという自由意志的な考え方です。これは両方のリンクではないかと考えています。ヒトの記憶や報酬というものはそれまでの来歴から脳の中に貯えられていて、それがどこを探索するかを決めています。そのことが視線のカスケード効果を生むわけです。つまり記憶が定位行動を決め以下、自覚的な選好、選択、結果及び報酬、そして記憶に戻り、報酬マップを書き換える、という順に起こると考えられます。このダイナミクスで考えるなら、注意経済と報酬は両立すると言えます。
最後に一つ言っておきたいのは、制御と自由は時間軸上で棲み分けているという考え方。つまり神経科学はこれまで、行為に先立つ神経活動だけを見てきたわけです。ところがさきほど大澤さんが指摘されたように、自由の感覚、選択したという自立性の感覚はたいてい後付けで起こるわけです。神経科学の決定論性はプレディクションの時間領域ですくわれて、人間の主観的な自由の感覚はポストディクションの時間領域ですくわれる。こういうことが成り立つわけです。もちろんポストディクションもまた脳神経活動ですから決定論的なのですが、その結果、コンテンツとして生じる心的経験が自由の感覚である、ということはあり得るのではないかと思います。以上で私の問題提起を終わりにして、総括討論に移りたいと思います。まず大澤さんから口火を切っていただければと思います。

自由主義と国際社会

大澤 僕は以前から不思議に思っていることが一つあるんですが、それはビンラディンのことなんですね。公式見解によればアメリカは今もなお、アフガニスタンでウサマ・ビンラディンを捜してるわけですよね。でもこんなに時間をかけてるのになぜ見つからないのだろうというのが、ホントに不思議なんですよ( 笑)。
田中 下條さんと大澤さんのお話を聞いていて、僕は何だろうって考えて思ったんですが、僕は国家心理学みたいなことをやってるわけですよ。全然、科学的じゃなくて直感的だけど( 笑)。で、先ほど下條さんがXからの自由というお話をされましたけど、アメリカという国は永遠にXからの自由を追い求めているんじゃないかと思うんです。ビンラディンを見つけてしまうと、テロからの自由が達成されてしまうから、また次のXを探さなければならないわけです。だからビンラディンはまだ捕まえちゃいけないんですよ。
大澤 その深遠な戦略をわかっていないヤツが見つけちゃったらどうするんですか?
田中 僕が思うに、真実はどうでもいいんですよ。コイツは偽者だと言ってしまえばいいだけですから。そうしないと国防費も出ないし、国際関与もしにくくなる。
下條 大澤さんがどこかで書かれていたと思うですが、自由主義には相手が必要で、スターリニズムや共産主義であったのが、それがダメになると入れ替わるように、環境倫理学が浮上してきたと。しかもそれはロシアの外相シュワルナゼによる国連での演説だったと。それが田中さんの今の話とつながってるように思います。実は今日のゲストお二人には、環境というもう一つの共通する関心があるんです。
大澤 環境問題というのは、資本主義の究極の限界だと思うんですね。資本主義というのは今まで何でも許してくれていた。資本主義の本質といわれた家父長制から男女平等になっても、革命が起きるといわれたゲイの人たちが市民権を得ても、資本主義はまったく揺るがないわけです。ホントにタフなんです。でも、地球のことは別なんですね。地球の環境、生態系を破壊してもいいとはとても言えないわけです。ただ、環境倫理というのは必ずしも自由主義と単純に対立するものではなくて、リベラリズムに含まれているある種の倫理を徹底させると環境倫理になるようなところがある。なぜ環境倫理かというと、地球が有限だから。それは地球がキープしなければならない主体が増えたから。それはすべての生物種や将来世代に生存権、生存する自由を認めたから。それはリベラリズム的な論理なわけで、だからリベラリズムは苦しいわけです。一方では対立する部分もあるけれども、内在する部分もあるというね。
田中 僕はまったく違う考えなんですよ。ひと言で言うと、環境主義というのは先進国側がこれから成長しようとしている国々に課している税金、いわばピンハネのようなものだと考えているわけです。
なぜ社会主義の崩壊と環境倫理の浮上が重なったかというと、それは社会主義の崩壊とグローバリゼーションの台頭が同時だったから。ゴールドマンサックスによれば、今から20年の間に世界の中産階級は20億人になるというんですね。その中心はブリックス、中国、ロシア、ブラジルなどの途上国なわけです。彼らはすでに国連の覇権さえ握りつつある。それに対して英米が環境や人権といった、途上国が不利なネタを持ち出して、ピンハネしようとしている。そのことを途上国側もわかって、温暖化など存在しないと言い始めている。環境問題は政治問題だというのが僕のスタンスです。
下條 ピンハネの理由に弱者救済を持ち出すのは、いちばんいい方法だと言われてますからね。反対しにくいからね。ただし、田中さんの今のお話は大澤さんのスタンスと、実はそんなに矛盾しない、「反対しにくい理由」を考えると。じゃあこのあたりで、タナカノリユキさん、いかがですか?

善悪中毒と弱者競争

タナカ 今の環境の話にも関わるように思いますが、僕はやっぱり善悪中毒というキーワードが気になっているんですけどね。
大澤 ある種の善や正義に短絡的に飛び込むという傾向もあるけれど、逆もあるように思うんです。田中さんもそういうタイプだと思うんだけど、善意で言ってるようだけどホントはこうなんじゃないの、っていうね。で、そこにも真実が含まれているから僕らは面白いわけですし、そういう言い方にすごくリアリティを感じるわけです。
田中 偽悪主義( 笑)。
大澤 そうそう、徹底した偽悪主義( 笑)。それは善の相対化なわけです。ところがその一方で、短絡的な正義、それこそアフガニスタンの空爆みたいに、突然現れることもある。僕はちょっと思うんだけど、インターネットには比較的そういうことが多いんじゃないか。すごいシニカルなんだけど、ちょっとしたきっかけで一気に炎上したりする。その両極があって、どこかに関連もあるんじゃないかと思うんだけど。
あともう一つ感じるのは、僕らの社会で今もっとも有利なのは、いかに自分が犠牲者であるかを示すことなんですね。何が正義かはっきりしないから、酷い目に遭ってることを主張するのがいちばん効果的なんですね。ホントは自分がいけなくて酷い目に遭ってるのかもしれないけど、そんなことはどうでもいいんです。何が正義かわからないんだから。ただ私がいちばん被害を受けたと主張する。
下條 それはいわゆるモンスター・ペアレンツとかという話ですね。
大澤 そうですね。だからハラスメント競争みたいな印象がある。それはどこかで逆転させないととは思いますね。
タナカ さっきの話で、他者からの承認が薄くなるというようなお話があったかと思うんですけど、それと今の話は通じているんですか?
大澤 それは大いに通じています。僕らがシニカルになって徹底的な相対化するというのはつまり、神を信じていないわけですよ。ただものすごい懐疑主義者というのは、どこかで信じやすい部分があるように思うわけ。神をも信じないくせに、というか、ネット情報だってすごく懐疑的にとらえるのに、え、そんな噂話を信じちゃうわけっていうようなことを信じたりする。だから本当の意味での無神論って難しいんですよ。神は信じてなくても、ある意味、神的なものを信じてるというかね。
下條 唯物論が神の代わりになったりね。

宗教と自由

タナカ 田中宇さんは善悪中毒に関していかがですか?
田中 僕は善悪っていうのはあまり日本的じゃないような気がするんですよ。欧米的な感じ。われわれが欧米化すればするほど、善悪が重要になってくる。
下條 大澤さんの言われた弱者競争というのはとても日本的な感じで、善悪の軸とはちょっと違ってますよね。
田中 そうですね。あともう一つ思うことは、日本人は日本人をやめない限り、宗教から脱せられないような気がする。他にも中国とかアジアに多いかもしれないけど、民族=宗教みたいな感じ。世俗主義とか言われるけれど、全然世俗じゃなくて、こんなに民族性に縛られてる。そうなると、日本人性から脱するのが困難であるとするなら、日本人が非宗教的になるのは難しいかもしれない。
下條 でも日本人は元々非宗教的だという説もありますよ。
田中 いや、例えばあなたの宗教は何ですかと聞かれると、僕はジャパニーズと答えちゃうんですよ。そういう意味での信仰。
大澤 僕も賛成だと思うんだけど、宗教ってどういう意味で使ってるんですか?
田中 アメリカ人とよく宗教とは何かって話すんだけど、目に見えるモノ、つまり合理論で語れるもの、それ以外のものを信じられるかどうか。やっぱりわれわれはお辞儀をするとかね、日本人的な何かを信じてるように思うんですよ。
大澤 思い切り開き直ってしまうと、僕らは宗教的じゃないと生きていけなくって、今日問題になっている自由意志だって、僕らは自由意志の存在を信じないと生きていけないと思うんですよ。自由意志というのは因果関係を超越したものなわけで、つまり人間も神様みたいな部分を一部持っているということなわけです。
別のことで言うと、昔、山本七平が日本人は日本教であるという独特の日本人論を展開したんだけど、たしかに日本人は、それこそ日本教としか言いようのないライフスタイルを持ってるとも言えます。
下條 今の宗教と個人の自由というのはどういう関係になってるんでしょうね?
田中 宗教が世界を分割してるというような考え方は、『文明の衝突』が出されたあたりから出てきてる。だからあんまり深くないんじゃないかと思うんですね。今後アメリカがもっとムチャクチャになっていくと、消えるんじゃないかと思ってる。むしろ、欧米にとっての他者のほうが強くなっていったときに、それらとのやり取りと慣れることのほうが重要になるんじゃないかと思ってます。
大澤 歴史的に考えると、宗教と自由主義というのはものすごく重要な関係にあるんですよ。自由主義がどこから始まるかというと、宗教的寛容、つまり17世紀初頭に起きた30年戦争、そこから宗教的な寛容との関係で自由主義が実質を持つようになっていく。自由主義には常に宗教との緊張関係があるわけです。じゃあ、誰でも好きな宗教を持てばいいじゃないかというとそうではないんですね。でも宗教は趣味じゃないんですよ。宗教を信じるということは、その宗教が真理だと認めるということなんですよ。そうなるとその信じるものを他者にも説得しようとする、そうしないならそれは真理と思ってないないわけですよ。
下條 逆に異教徒が邪悪に見えないくらいなら、それは本物の宗教者じゃないということですよね。
大澤 そういうことになりますね。もう一つ思い出したことがあるんですが、うちの大学院生が北欧の手厚い福祉について面白いことを発見したんです。というのは、福祉がいちばん行き届いてるのは、ルター派が強い国なんですね。逆に福祉が薄いのはカルバン派で、間にカトリックが挟まる。これは非常に面白いんですが、その傾向は60年代まで顕著で70年代で一度コンバージョンされる。ところが80年代になってまたはっきりと出てきたわけです。この傾向を読み解くと、世俗化してきて宗教的な行動様式が一度隠れたものが、80年代になってまたせり出してきた。多分彼らは自分がルター派だなんて、普段は意識してないと思うんですが、それでも行動様式という形をとって現れるのかなと思うわけです。福祉の問題というのは、われわれがその社会において、どれだけ連帯心を持てるかということだと思うんですよ。自分の財産が他の人に渡ってもいいということを意味してるわけですから。

閉塞感と世界の中心

タナカ いろいろお話をうかがって、何となく今の状況はわかってきたんですが、じゃあ、今のこの何とも言えない閉塞感というのはどうしたらいいんだろうという部分、これについてはいかがですか?
大澤 自分は世界の中心から阻害されてると、みんなが思ってるような気がするんですよ。で、これだけ自分が阻害されてるんだから、誰かが中心を握っているに違いないと思ってしまう。客観的に見れば、インターネットもあってかつてよりも圧倒的に世界性を持っているはずなのに、なればなるほど自分がすごいローカルなところにいるような気がしてしまう。
タナカ 
その中心があるというのが、神的な他者ということなのかな。
大澤 中心があるということを積極的にわかるんじゃなくて、自分がローカルであるということははっきりとわかってる。
田中 先ほどのタナカさんの閉塞感という問いかけに僕なりに答えると、単純な話ですが、日本の閉塞感というのは、日本が対米従属していてそのアメリカが凹んでいるから閉塞感があるってことだと思います。世界全体でいうと世界の中心にいたアングロサクソンが凹んでるからってことだと思う。でも逆に言うと、次を作るために今の閉塞があるのかもしれない。もし世界を誰かが動かしているとすればその人たちは多分、クリエイティヴなんですよ。で、破壊して次を作ろうとしているということかもしれない。そういう状況じゃないと、なかなか新しい社会性というのは生まれてこない。フランス革命もそういう状況に起きたという話もある。
あと、中心からすごい遠いということで言うと、遠いことに耐えるというか、僕の執筆のモットーは、他者がいないことに耐えるってことなんですけどね。クリエイティヴって他者がいないところからしか生まれないんじゃないかとも思うんですけど。
下條 今日の大澤さんのお話は、人間の人格の発達の話としてまったくの正論で、情動的に非常に説得力のあるお話だったと思います。ただし、誰かに認められることは人格の十全な成熟にとって重要だ、という話は、たいていの教育者なら言うわけです。そのことと、この閉塞した世の中における自由とは、果たして同次元で語れるものなのか、と思うわけです。
大澤 論理の核としてポイントにしたいのは、承認の話と人間がある選択の主体になるという話との間にはロジカルなつながりがあるということをはっきりさせたかったわけです。僕の言いたかったことは、これは古典的なモデルであって、僕は今それがうまくいっていないことを説明したわけです。こういう方法は今後使えないわけですよ。つまり、世界の中心が見えないというお話と第三者の審級が機能しなくなったという話は、同じことなんですよ。対米従属して何がツライって、アメリカが立派でも何でもないとわかってるのに対米従属せざるを得ないからですよね。もう世界中がアメリカを見放してるのに、日本だけが見放せない。で、かつてアメリカは国際秩序における第三者の審級だった。でも今はもはや機能してないんですよ。第三者の審級が機能しなくなった現在では、何か別の方法で自由を獲得しなくてはいけないわけです。
下條 なるほどね。よくわかりました。あと他者が自由の前提だと言うことに関して、もう少し説明していただけると。
大澤 人が「他でもあり得る」という感覚を持つことってすごく重要なことだと思っているんです。他人に対する想像力はそこが基盤になっている。第三者の審級というのは、あなたの運命はコレですよといって、他でもあり得る可能性を消去するわけです。でもコレではうまくいかなくなっている。僕は第三者の審級が機能しないなら、それをうまく捨て石にできないかということを考えています。
下條 ありがとうございました。もう時間も超過しているので、みなさん、最後にひと言ずつお願いします。
大澤 非常に面白かったです。心理学的なテーマから国際問題までを話せる機会なんて滅多にないので楽しかったです。ありがとうございました。
田中 5年前にも思ったことだけど、他分野同士が会話をすりあわせるときの知的快感というのはとても大きいですね。こういうイベントが増えると、多分文化的にも面白くなるだろうと思います。
タナカ 情動をテーマにしようと思ったときに、世界を操っている黒幕のような存在に対して向き合う自分がいたんですけど、今日は話せば話すほど、中心がないということがわかったので、この状況をいかにサヴァイヴするかを考えたいと思います。
下條 私は自由ということを考えていて思ったのは、どこまで定義しても違っている、という感じを持ちました。自由というのは定義しようとすればするほど遁走していくし、逆説的だが自由の拘束というのはいくら振り解いてもまとわりついてくる、つまり人間のありかたの本質に非常に近いところに自由という問題はあるのだなぁということを、あらためて感じた次第です。これからの未来身体においてどのような自由が宿り得るのかを考えていきたいと思います。ありがとうございました。


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