イントロ:レクチャー+対論
「情動」と「自由」

タナカノリユキ
(アーティスト/アートディレクター/映像ディレクター)

下條信輔

(カリフォルニア工科大学教授、
 ERATO下條潜在脳機能プロジェクト研究総括 / 知覚心理学、認知脳科学、認知発達学)


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タナカ 今年もルネッサンスジェネレーションの季節になりました、今日もたくさんの方にお集まりいただきありがとうございます。タナカノリユキです。
下條 こんにちは、下條信輔です。ルネッサンスジェネレーションも今年で12 回目ということですね。さっき、楽屋裏で何回目かわからなくなってしまって、慌てて事務局に確認したりしましたが(笑)。今年も魅力的なゲスト2人をお迎えしています。よろしくお願いします。
タナカ 今年は去年に引き続いて情動をテーマにしようということです。大きな理由の一つとしては、去年しゃべりきれない部分がかなりあった、ということがあるんですけど、下條さんからは何かありますか?
下條 たしかに積み残しもあるんですが、去年、われながら配慮が足りなかったなと反省したのは、情動というものが何なのかをちゃんと伝えずに進行してしまったところがあったわけです。情動という言葉は、曖昧にわかった気になってスーッと通り過ぎてしまいがちな言葉だという気もするので、情動についてもう一度きちんと取り組みたいというところがあったわけです。そこで今回は、情動というものの科学的な共通理解を深めてから議論をしたいと考えています。あと、去年は情動にまつわるいろんな問題に手を出しすぎた感じがあるので、今年は自由というものをキーワードに情動を考えてみたい。
タナカ オバマの選挙を見ていて思うのですが、最近は政策自体というよりもこの人なら何かやってくれそう、というような部分が大きかったりしますね。
下條 そうですね。それは消費者行動や犯罪などにも言えそうです。世の中では最近、不可解な現象、理性的な判断を超えたことがいろいろ起きていると思います。そういう不可解なもの、理性的な判断を超えたものを一挙に腑に落ちさせる…というこの表現自体、とても情動的な表現ですが、そんなキーワードはないかなと探したときに辿り着いたのが、一つは潜在認知であり、もう一つが情動だったわけです。とくに情動と自由の関係を深く理解することによって、一見無関係に見える世の中の不可解な出来事に通底する何かを見いだせるかもしれないと思っています。
タナカ そうですね、情動というものがいろんな場面で影響力を持ってきている。もちろんこれは昔からあったものだけれども、そこに注目したり利用したりしようとする人たちが出てきたという言い方もできると思います。
下條 情動というのは潜在的ですから見えにくいわけです。それをもう少し可視化してみようということです。
タナカ ということなんですが、僕らの後ろのスクリーンに映し出されているものも、ちょっと説明しておかないと(笑)。
下條 アハハ、そうでしたね。笑うと波形が変わっちゃったりするから。ちょっと説明しましょう。これはGSR(ガルバノ・スキンレスポンス)というもので、私とタナカさんの手首に電極をつけて採っているのがこの波形画面で、上の段がそれです。中段は心拍、下段は心拍数をプロットしています。GSRというのは、いわゆる嘘発見器です。皮膚に微弱な電流を流して、その抵抗値を測る。例えば発汗したりすると抵抗値が変わるので、被験者の心理的動揺が読み取れる、というものです。ただ皮膚の電位抵抗というのは、嘘をついたときだけ変化するわけではありません。GSRは専門的には情動の指標として使われるものなんですが、どういう種類の情動にも反応するので、そこから先には解釈が必要になります。この装置は今回、どんなビジュアル・プレゼンテーションをしたら、みなさんの情動的な理解を深める手助けになるかということを考えて採用したわけです。普段ですとタナカさんのアートプレゼンテーションになるわけですが、情動をテーマに何かやってもそれは嘘になるというタナカさんの意見がありまして、で、この装置をERATOプロジェクトから持ち出した次第です。
タナカ 音と光もこの装置にリンクさせているので、さまざまな変化を感じていただけ
るかと思います。
下條 でもさっきもいいましたように、波形が変化しても嘘をついてるとは限らないの
で(笑)、よろしくお願いします。例えば、恥ずかしいとか素晴らしいことを言ったなとか、わからないで困っているとか、いろんな場面で変化しますから、そこの解釈はお任せします(笑)。

情動と感情。

タナカ それでは下條さんと僕とで、情動とは何かを話していこうと思います。まず何
よりも情動とは何なのかを下條さんから説明をお願いします。情動というのは英語で言うとemotionですよね。
下條 そうですね。私たちは神経科学の専門用語として情動という言葉を使っていますが、これは英語のemotionという神経科学の専門用語を翻訳するときに、もともと日本語にあった情動という言葉をあてたということのようです。もともとは、瞬間的に変化する感情の動きを情動と表現したようなんですね。それが専門用語として別の意味を持つようになったわけです。
情動は、感情とほぼ重なるものと理解していただいてかまいません。ただし、感情とい
うのは、主観的で意識的な心的体験をさします。つまり心の世界での経験です。それに対して情動というのは、主観的な経験に先立つ無自覚的な生理的な過程を含めて指し示すことが多い。そこには哲学が入り込んでいるんですね。つまり、心の反応の前に身体の反応がまずあって、それが心に辿り着いてはじめて、心の経験になる、その全体を情動というわけです。
タナカ もう一度整理したいんですが、感情と情動はどう違うんですか。
下條 そうですね。実は情動にはいくつかの解釈が存在するんです。というのは、心理学での情動が神経科学で使う情動とずれている部分があったりするからなんですね。ただしそれを網羅してしまうとわかりにくくなるので、ここでは、神経科学で主に採られている立場を説明したいと思います。
どういうことかというと、「感情は結果であり、情動はそこに至る過程である」という見方です。感情は身体反応や状況判断の影響を受けて作用する「認知ラベル」です。ある種のラベルづけが感情で、そのラベルづけ以前を指して情動といいます。潜在的な過程が先にあって、それが原因になって顕在的な心の現象が起こる、ということですね。これを言い替えると、情動は身体生理過程を含んでいて、感情は徹頭徹尾、心の世界の出来事である、という言い方もできるかと思います。
僕がよく挙げる例で説明します。山道で熊に出くわして、転がるように山道を駆け下って人里に辿り着いて、あー助かったと思った瞬間に恐怖が湧いてくる。身体の反応が心の経験としての恐怖に先立っているわけです。これは重要な観察だと思います。ここでもう一つ、ロドリゴ・セグニーニ博士らの「自己音声モニター実験」をご紹介し
たいと思います。人間が恐怖なり喜びなりを経験するのはどういうメカニズムによるのかという時に、一つの有力な意見として、自分の声や仕草を分析しているんだという考えがあります。もともと霊長類以上の動物は、他者の意図や行動や情動を推論する能力に長けています。その推論する能力を自分自身の振る舞いに適用して、その結果をラベリングすることで、主観的な感情を経験される、という考え方ですね。
ここで問題になるのは、どんな振る舞いに適用するかですが、声というのがとても有力 なんです。例えば今、私自身の声はけっこう緊張しているなと思うわけです。このように、自分の身体的状態を自分自身で観察して、主観的な感情が芽生えるわけです。
「自己音声モニター実験」というのはまず、恐ろしくも、滑稽にも、意味不明にも受け
取ることのできる文章を、被験者に朗読してもらいます。その朗読の声を機械に通し
て変化させて、タイムラグなしに耳に伝えるわけです。興奮したとき、リラックスしたとき、怖いとき、嬉しいとき、声がどのように変化するかはデータがありますから、そのデータに沿って、声を変化させるわけです。大切なのは被験者に気づかれないように微妙に徐々に変化させることです。で、被験者がその仕掛けに気づかずに読み終えた とき、その後で被験者にどんな気分かを尋ねます。すると、機械によって声を震わせられていた、つまり震えた自分の声を聞いていた被験者は、怖い話だったと言い、おかしそうな声を聞いていた被験者は滑稽な話だと答える、そういう大ざっぱな気分の変化が見られました。この実験が何を意味するかというと、情動的な過程が先にあって、それを自己観察して認知的なラベルを貼ることで、自覚的な意識レベルの感情が起きる、ということです。
タナカ なるほど、興味深い実験ですね。情動と感情についてもう少しうかがいたい
んですが、量や質という点でも、情動は感情と同じように違うんでしょうか? つまりす
ごく悲しいとかちょっと悲しいとか、しみじみ悲しいとか心が痛いほど悲しいとか、感情は同じ方向の感情でも量や質に違いがあると思うんですよ。
下條 そうですね。ただその質問に答える前に、一つ言い忘れていたことをお伝えして、それから質問にお答えします。
情動というと、無条件反射的で、経験や学習がなされないものだと思っている方が多いかもしれませんが、実は情動は可塑性や学習性、柔軟性が高いんです。例えば1回恐怖を感じると、それが刷り込まれるわけです。わかりやすい例を挙げると、奥行き知覚ができるようになっただけでは、赤ん坊は崖の怖さを知らないわけです。しかし一度、崖から転げ落ちて痛い目に遭うと、それから赤ん坊は崖を避けるようになります。崖の奥行きを知っただけでは恐怖にはつながらないけれども、崖から落ちる経験は恐怖につながるわけです。情動のメカニズムは大脳皮質ではなくて、もっと脳内の深い部位に関わってくるんだけれども、それでも学習は可能であるわけです。
この前提の下に、先ほどの情動の質と量についての質問にお答えします。まず、情動には少なくとも次元は存在します。どんな下等な動物でも神経系には興奮と抑制があります。そして興奮と抑制のバランスによって行動が適応的に制御されていると考えられます。そしてこのバランスが生物の行動レベルで言うと、快と不快という次元が出てきます。つまりミミズでも、刺激を与えると刺激に寄っていくか逃げ出すかのどちらかです。つまり接近と回避、これはダマジオが情動の根本と指摘するレベルです。ここからいろいろな質が枝分かれしてゆく。それが喜怒哀楽だったり、愛憎になったりするわけです。
タナカ 先ほど情動に学習能力があるというお話がありましたが、学習能力があることとコントロールできることとは、どう違うんでしょう?
下條 具体例で答えると、条件付けというのがありますが、条件付けは学習のメカニズムです。一つ例を挙げましょう。ある種のトリにとってイタチは天敵です。イタチの剥製にそのトリのひなの声を発するスピーカーを仕込むわけです。そうするとヒナの声で啼いている天敵に対し、成鳥のトリはすり寄っていってしまうんです。この場合は2つの拮抗する情動メカニズムが生じて、トリはイヤでイヤでしょうがないけれどもすり寄らざるを得ないわけです。コントロールできるかという問いに対しては、これをどう解釈するかによるわけです。愛情が恐怖に打ち勝ったと解釈すれば、コントロールできると言えるかもしれませんが、でも逆の行動、つまりすり寄りたい思いを抑えることはできないわけですから、コントロールできてないとも言える。情動は学習できるメカニズムだけれども、学習した結果は抵抗できない形で駆動してしまう。その両方が両立しうるわけです。
タナカ それは学習することによって、それまで快だったものが不快になるということもあり得るわけですか?
下條 それは大いにあると思います。ただここで言っておかなければならないのは、快と不快が1本の軸の両極にあること自体がかなり危ういということです。というのは、中毒のケースを見ると明らかなんですが、患者は快と不快を同時に経験してるという言い方ができると思います。薬物中毒患者は、イヤでイヤでしょうがないけれども薬物を摂取せざるを得ない。この快と不快の次元がやっかいで、正反対を向いているとは考えないほうがいい。情動の可塑性はその軸自体を曲げる働きをする場合すらあるわけです。
タナカ 今日の論点は、学習をしたとしてもコントロールできはしないという部分になるんでしょうか。
下條 本当の自分じゃないとかね(笑)。この本当の自分というのがまたやっかいで、例えばアメリカのセキュリティ政策というのは、大衆の潜在的な情動のボタンを非常に効率的に押すように計画されているように見えます。それから流行の商品を買うとき、それは自分の自由意志で買っているのだけれど、しかしそれが本当に欲しかったモノかと問われるとよくわからない。というのは、その店で見るまでは、そんなものがほしいなんてまったく言っていなかったというようなケースが、ままあるわけです。本当に欲しいモノは何なのかということも、この情動と潜在認知のメカニズムから疑ってかかったほうがいいかもしれません。
タナカ もう一つ、情動が無意識のレベルに関わるというお話があったと思うんですが、それと学習というのはどのように関わってくるんですか?
下條 今のタナカさんの質問を少し広く解釈すると、一体情動はどこから来てどこに影響を与えるのか、その入口と出口みたいな話があるわけです。
脳には辺縁系と呼ばれる領域がありまして、ルネッサンスジェネレーションではしばしば登場する場所ですが、ここが情動が駆動して感情が経験されることに関わっていると言われています。これらの領域が活動しても、本人は自覚しない場合が多い、つまり潜在的なわけです。
タナカ いわゆる動物的と言われるような反応とかですか?
下條 そうですね。例えば辺縁系の中にある側坐核という領域は、ラットでもマウスでもネコでもサルでも人間でも、報酬、快に反応することがわかっています。ですからわれわれが人の顔を見て魅力的だと判断しているときに、この場所が活動しているんですが、それはラットが異性に興奮している場所と大差がない。しかも進化論的に非常に近い場所だということです。

認知系と情動系

下條 あともう1点、潜在と顕在という問題。脳の中には認知系と情動系があります。認知系というのは世界のあり方を分析的、客観的に記述する働き、情動系とは嬉しいとか悲しいとか主観的な記述を発生させる働きです。ここで興味深いのは、この2つに制御過程と自働過程を組み合わせると、普通なら認知系は意識的だから制御過程であり、情動系は無意識的だから自働過程だろうと考えがちですが、最近の知見では、認知系でも無意識のものがあるし、情動系でも意識されるものがあるとわかってきています。
タナカ 認知系と情動系というのは関係性を持つんですか? 影響を与えあうとか。
下條 もちろんそうです。例えばサブリミナル・パーセプションは、それ自体は自覚無しに知覚しているというだけの認知的な意味ですが、それが何度も繰り返されると好きになるわけです。つまり認知系の働きが情動下に転化されるわけです。知覚そのものは認知系ですが好きというのは情動系であり、知覚そのものは潜在レベルを含むけれども好きとなると顕在レベルです。ですからサブリミナル・パーセプションは、認知系と情動系、潜在レベルと顕在レベルが密接に影響しあっている端的な例と言えます。
タナカ 認知系で好きなものと情動系で好きなものがあると思うですが、そこにはどういう違いがあるんでしょう?
下條 ありそうですねぇ。うーんと、これは段取りにない質問だからなぁ、あ、GSPがかなり反応してしまった、波形がかなり乱れてますね(苦笑)。
これも具体例でお答えしましょう。「あなたはこの2つの商品のうち、どちらが好きですか?」と「あなたは、あなたの同僚50人がこの2つの商品のうちどちらを選ぶと思いますか?」という2つの質問は、似て非なるものですよね。これをやるとおそらく、脳の領域の中の、重なっているけれども違った回路が活性化すると思います。自分が好きだという思考と、客観的によさそうだとか一般的に好まれそうだという思考とでは、重なっているけれども違うメカニズムが機能するんだと思います。
タナカ 自覚化してから好きになったり、認知系の好きというのはかなり複雑じゃないですか。それは発火する領域が違う場合もあるんですか?
下條 多分、結論は同じなんだろうと思います。目がそっちに偏っていくとか、結論は一緒なんだけど、そこに辿り着くダイナミクスが違うんじゃないかな。f M R Iというのはそういうダイナミクスをとらえるのには不向きですが、EEGとかMEGとか他のテクニックを使えば、ダイナミクスの違いを計り出すこともできるかと思います。
タナカ 認知系が関わってくると、情動をラベル付けすることで感情になるというよりももっと複雑なラベルの感じですね。
下條 ラベルを貼るというのは、まさに知みたいなものを入れるという行為ですから、具体的には外側に目立つ広告があると、僕はあの広告に影響されたかもしれないと思ってしまうとか、尊敬する先輩と一緒に食事に行くと、先輩のオーダーに影響されてると感じたり。そうすると自分の選択とは思わないわけですよね。そこにはかなり理知的な推論が入ってるわけです。
付け加えておくと、ラベルを貼るという言い方は比喩に過ぎないんですけど含蓄があって、好きというのは捏造されてる感じがあるわけですけど、すべての好きは捏造であるという暴言を吐いてみることもできるんです。それはどういうことかというと、実験室的に捏造でしかありえない状況を作った場合の選択と、捏造ではないと思われている、つまり普通の自然な選択とで、人々の認知の仕方とか主観的な感じ方とかがそんなに違わないんですよ。だからこの場合は捏造の好き、この場合は正真正銘の好き、というふうに分けられないんです。
タナカ あと社会的な部分について聞いておきたいんですが、情動が他人とリンクしたりして、集団心理的に動くことがあるかどうか。ある一方向にみんなの気持ちが動く瞬間ってあるじゃないですか。そういうときの情動というのは、集合体的なものなのか、あくまで個人個人なのかというあたりを教えてください。
下條 これはすごく重要な問題で、これについては2つのことを考える必要があります。一つは情動と潜在認知の関わり。これはかなりお話ししてきましたが、もう一つ潜在認知と社会性の関わりを考える必要があるんです。私は、潜在認知や潜在意識というのはそれ自体、集合的で社会的だと思っているんです。情動系は潜在認知のレベルに相当程度根ざしていて、外からの刺激で学習しやすいわけです。社会集団が形成されていると、外からの刺激が共通しています。つまり集団内においては、情動の学習メカニズムが共有されているわけです。そうすると当然、共通の反応図式が獲得されやすい。とりわけ恐怖に関する反応図式は共有されやすいんですね。例えばイスラム=テロリズムという反応図式は、イスラム圏ではありえませんが、アメリカではかなりの部分で共有されてしまっている。イデオロギー的には間違っているとわかっていても反応してしまうわけです。
生理学的に見ると個人差は少ない。そして脳、身体、環境の相互作用の中で、脳と身体の基本的な構造は共通であり、環境世界が共有されているのであれば、われわれは無意識的メカニズムを共有して、その上に則って、個人差があると言ってるわけです。
タナカ 情動そのものが共有するんですか、それともラベル付けが共有する?
下條 両方です。情動の共有は社会的感染です。例えば退屈な授業だと、誰かがあくびをすると一斉にみんなあくびをし出す。ラベリングの共有は、例えばこのスーツの善し悪しは曖昧だが、あのスターが着ているからいいスーツだろう。これはラベル付けの認知メカニズムが共有されている。
その際には、そのスターが顕著さとポジティヴなイメージを持っていれば、あとの推論過程は共通であるということですね。
タナカ イスラム=テロというのは情動とラベリングのどちらなんでしょう?
下條 テロリストが怖いというのは原初的な情動反応で、イスラムがイコールで言われるのは意図的な大衆誘導で刷り込まれた認知的な操作でしょうね。だから何層にもわかれているというところです。
最後に自由と情動についてもうひと言。人間は本当に自由かと問うた瞬間に、自由とは何かという問いに突き当たります。自由は時代や立場で全然意味が違ったりするんです。われわれの先祖にとっては餓えからの自由であり、暴君からの自由というのもありました。でも今は何からの自由なのかが、どうもはっきりしない。自由と快の問題もあります。今日1日で、そのあたりを探って行ければと思います。


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