総括討論
[ 欲望・操作・自由 ]

出演:廣中直行×十川幸司×タナカノリユキ×下條信輔


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下條 まず十川さんに身も蓋もない質問をしたいのですが、患者さんはなぜ治るのか、そこに情動はどう関わっているのか、それを具体的な例で説明していただきたいのですが。
十川 その場合はまず、治るということが何かということが問題なんですね。症状の軽重にも関わるし、症状が取れれば治ったと言えるのかという問題もあります。ただ言えるのは、大部分の分析家は治すことを目的に治療はしてないと思います。ラカンの言葉に「もし治ったとすれば、それは歓迎すべき副作用である」という言葉があるんです。一般的に情動の観点から見ると、情動というものは他者を包み込む機能を持っていることが多い。分析家に信頼を寄せて、関係を築き上げることが非常に強い治療効果を持っていると言えると思います。ただこれだけだと絶対に治らない。一生続く関係になってしまいますよね。
下條 その包摂関係に情動が効いてくると?
十川 情動レベルで言えば、その包摂関係はいずれ終わらせて、その関係から患者さんに出て行ってもらわなければならない。その過程において重要な役割を果たすのが解釈です。その人の現実を最も痛みが少ない形で与えることによって、治癒の方向に導く努力をするわけです。生きているというのは心的な痛みを受け止めるということです。その過程の中で人は成長するわけです。
下條 ありがとうございました。では、VTRインタビューへの感想を廣中さん、いかがですか?
廣中 まずクリスチャン・シャイアの話について。ビジネスとしてクライアントの商品が売れるようにアドバイスするという点はわかりますが。それまで人間の情動や身体性や権力などを研究してきた人間が、そう簡単にビジネス的な要望に応えられるか、またやっていいものかと。そこに最適な方法を見つけるべきなのでしょうが、それをある会社には高く売りつけ、他の会社には教えないということになると、科学的な知見をどのような形で社会に使うのかが問われてくる気がします。また酒井先生のお話。権力という言葉を聞くと、われわれは反射的に権力の暴力装置が何を指すかがわかる。しかし、われわれの子どもの世代は、そういうことに抵抗力がなくなってきていて、権力と聞いたときに、ああ、われわれを操作しようとしているアイツらだというイメージを浮かべられなくなっているとしたら、危険だなぁという印象を持ちました。われわれが対峙すべき権力のイメージですね。
下條 最近、東浩紀さんとそういう話をしたんだけれど、酒井さんも東さんも口を揃えていったのは、権力が権力に見えなくなってきたと。あるいは私たちが勝手に自分たちが選択することの中に権力が内在するようになってきたという気がします。では、タナカさんはいかがですか?
タナカ 先ほどの支配や操作といった話で、シャイアがマーケティングにおける倫理観みたいなことをしゃべっていて、今の廣中さんの話にも通じるんですが、十川さんのレクチャーに催眠療法とナチがイコールだという話があって、権力というのが肩書きとかじゃなくて、個人の中にもあるのかなと。個人のものと集団のものがあるのかなという気がしました。
下條 今のタナカさんの話に関わるスライドを1枚お見せします。(*1)これはポリティカリー・インコレクトな研究です(笑)。2年前のサイエンス誌に発表されたものなんですが、ある州の住民に別の州の上院・下院選挙の候補者の顔写真だけを見せて、どちらが有能そうか、信頼できそうかなどを質問したんですね。するとそれだけで、選挙の当落をかなり予測できてしまったというのです。
さて続いて、情動系のスライド(*2)を見てください。廣中さんに確認の質問です。Basal Forebrain、前頭基底部ですが、情動刺激は素早く脳内を駆けめぐって素早く反応に至り、時によっては自覚しないうちに反応する。それはかなり動物と共通のメカニズムではないかということが言われています。私も数年前から情動意思決定の研究を始めたわけですが、好きな顔を選びなさいといった実験をしているときに、側座核や扁桃体がかなり活性化するわけです。驚いたのは、サルやラットでも似たような部位が反応して、かなり似た機能を持っていることがわかったわけです。つまり非常に大雑把に言ってしまうと、人とラットの脳はそういう細かい構造に至るまでほとんど同じということなんですね。果たしてそう思ってしまっていいんでしょうか?
廣中 基本的にはそれでいいと思います。だからこそ、私はネズミを使って実験をして、人間にも意味のある発見ができるだろうと思っているわけです。ただし、人間の場合は大きな脳のシステムに組み込まれています。ですから働きまですべて同じとは言えない可能性がある。直結はできない。ただし側座核や扁桃体の中心核あたりの機能は哺乳類で温存されているはずだと思っています。
下條 進化を逆方向に行くと、爬虫類まで含まれるのですか?
廣中 魚まで行くと思いますが、構造がぼんやりしています。
下條 なるほど。
タナカ 廣中さんがレクチャーの中で言っていた、記憶と情動が同じだという話を、もう少し突っ込んで聞いてみたいんですが。
廣中 そう考えるようになった背景には2、3の理由があります。一つは扁桃体の役割ですね。好き嫌いを判断する神経細胞がありますから情動のセンターだとも言われているし、もう一方では、扁桃体を失うとパブロフの犬状態に陥るため、ある種の学習ができなくなるとも言われている。神経細胞が活性化すると記憶の形成と非常に似たような変化が起こりますので、扁桃体で一部その機能がダブっているということ。また飴と鞭を使わずに、まったくニュートラルなものを覚える、学習することがありうるのだろうかと思ったとき、人生の最初の記憶は何ですかと尋ねると、愉しい記憶だったり恐ろしい記憶だったりすることが多い。同じものとは言い過ぎかもしれませんが、もう少し突き詰めたいと思っています。
下條 人間では扁桃体は海馬のすぐ近くにあって、コネクションも強い。言うまでもなく海馬は記憶を作るメカニズムがある。十川さんは精神分析の立場からいかがでしょう?
十川 フロイトの時代には海馬や扁桃体は理解されていなかったわけですけれども、フロイトの理論というのは基本的には記憶の理論なんですね。
下條 フロイトの理論には抑圧が常にありますが、十川さんは今日、抑圧を抜きにした精神分析があり得るのではないかというお話をされたように思うのですが、ではその時に記憶はどう働くのかということなんですが?
十川 抑圧という概念が現在、大きな意味を持っているとは思いません。また抑圧のメカニズムと記憶が直接関係しているのかどうか疑わしいとも思います。ただ記憶はとても重要な意味を持っていて、記憶の構成というのはかなり変動していくものなので、今感じているアフェクトと結びついた形で構成されているわけです。
下條 なるほど、記憶は今の自分の情動的な状態との関係で構成されるということですね。タナカさん、何かありますか?
タナカ 廣中さんの話で、赤ちゃんが甘いものを与えられると笑うというのは、あれは胎内の記憶なのですかね。
廣中 あれは甘い味の記憶が残るという話ではなくて、そういう顔を作る神経を持って生まれてくるということなんですね。最初は味に対する反応ですが、7、8カ月になれば社会的な意味を持つようになってくる。同じ神経でもどんどん働きが変わってくる。ですから、もともと作りつけの神経回路があるということで、記憶しているというのとはちょっと違うわけです。ある種の反応を起こす神経を別の目的に使うようになるというのは多様性が生まれてくれば当然そうなるわけです。例えば涙を流すという反応も、最初は痙攣的な呼吸をすると涙腺が刺激されて涙が流れるんだけれども、それが痛みになり、哀しみになり、さらには感動したときにも流れるようになる。発達するとともに複雑になるわけです。ですから発達が重要なんですね。
下條 最初の生得的な神経系は個人間でも共通であるということですね。タナカさん何か他にありますか?
タナカ 集団的な心理と個人的な心理について聞いてみたいですね。
廣中 人間がどうしてこんなにデカイ脳が必要になってきたかというと、社会構造が複雑になり、例えば人の視線を読む神経回路と扁桃体が繋がり、そしてそれが意思決定をする神経回路とも繋がった。酒井さんがそんなに空気を読まなくてもいいではないかと言っていましたが、逆に言うと空気を読まない個体は淘汰されたとも言えるわけです。そして集団の性質は生物の種によって、例えばイワシの大群と人間の群集心理は違うと思うけれども、まぁ、同じかもしれませんが、霊長類の場合は視線を読んで、そして他者の情動をくみ取り、それなりの自分の行動を採ることが社会生活の中で生き延びるために必要だったわけです。
下條 十川さん、例のナチスドイツと催眠治療ですが、催眠は暴力であるというフロイトの発言と潜在認知のメカニズムを操作して売ったら暴力かという話はつながっているんですかね。
十川 それは繋がってるわけですが、催眠自体を完全に否定するわけでも、精神分析を全面的に肯定するわけでも全くなくて、分析治療を行っていても、患者に対する管理になることはありうるわけです。そうなってしまうと、精神分析のほうがより深いレベルの暴力になりうるということが可能性としてですが、あるわけです。
タナカ シャイアが言っていたように、現場では実際に、モノが売れればいいというような話ってあるわけですよ。しかしそう言っている人も別の場では消費者になるわけで、ループしている。その時にどういうことがメカニズムとしてあるのかというのは自分にとっては重要ですね。社会生活を送るための強迫観念みたいなモノと裏表なのかも知れないと思いますね。親子、医者と患者、どの状況にもありえるのかなと思います。
廣中 たとえば第一印象で報酬系が動いたものが、結局後になって好きになるという現象がありますよね。なぜ最初に報酬系が動くのかというその部分がね、最初にカラダの反応が動くと言いましたが、危ないかどうかはそう簡単には決められないような気もする。シャイアが言うように人は見たいモノしか見ないのかも知れないが、じゃあなぜそれが見たいのか。その1つ前の段階が本当の問題なのではないかなという印象がある。
もう一つ言っておきたいのは、脳科学でわかったことを現実社会に応用しましょうと言って、じゃあ何をしたかというと「脳科学に基づく正しい子育て」とかいうバカみたいなことをやっている。その方向に行かないように、欲望・操作・自由といったことを問題意識として持ち続けなくてはいけない。
下條 私は自由とコントロールされることは矛盾しなくなってきていると思います。近代社会では矛盾していたはずだったんです。どういうことかというと、店に行ってモノを買うとき、ディスプレイされていないモノ、広告されていないモノは買えないわけです。しかしわれわれはその店にあるモノの中から欲しいモノを買って帰って、自由な選択をしたと信じることができる。矛盾してないんですね。ここでシャイアの立場に立ってひと言いうと、恋愛は一番自由な選択だと思っているけれど、選択肢に制約され、その人の来歴にも制約される。相当程度予測可能なわけです。
廣中 予測可能というのは自由じゃないんじゃないですか?
下條 それを誰が予測できるかなんですよ。フリーウェイの渋滞は流体力学で予測可能であると。では、それは誰が予測し、ドライバー個々人が主観としてどう思うか、その点で両立するであろうと言っているわけです。
最後にもう一つ、不安と恐怖についてお尋ねしたいことがあります。それは情動とは、不安や恐怖から考え始めるのがいいのか、報酬系という限りは、美味しい成果から考えるべきなのか。不安と恐怖というポイントについてお話ください。
廣中 僕にとっては非常にわかりやすい理由があって、不安と恐怖のほうが研究しやすかった。起こる身体の反応が決まっていますから。それから研究費を得るには、臨床的に訴えやすかったというのもありますね。そういった理由で、不安や恐怖が先行しているわけですが、これからは快についてもやらなければと思っています。
十川 廣中さんの仰ったように、不安と恐怖というのは研究しやすくて、喜びのほうが研究しにくいというのはありますね。不安は内から来て、恐怖は外から来るわけですが、対処しやすいのは外から来る恐怖なわけです。不安を制御するのは難しい。ですからセキュリティなどが行き渡るようになって、恐怖がない世界に近づいていく。しかしふと気づくとそれは、システムにすべてを任せて自分で考えることがなくなってしまうということなのかもしれない。恐怖に対する制御は、結果として貧しいモノになる可能性があるわけです。
タナカ お二人がそれぞれレクチャーの中で言っていた新たな情動システム的なことをもう少しお聞きしたいんですが。
廣中 手短に言うと、私は「どれだけ不健全であってもいいのか」ということを追求したいと思っています。健康で健やかに、なんてことはどうでもいい。どの辺まで逸脱し、落ち込むかなど、どこまでならOKなのか。
十川 タナカさんは作品を作るときに情動につき動かされて作っていると思いますが、その情動は他の人と同じではない。タナカさん独自の情動を作り上げることで作品を生み出すのであろうと。その過程で自分自身変化していくでしょうし、自分と世界との関係を変えていっているのだろうと思います。情動回路というのは非常に重要で、本当のオリジナリティは、この回路を変えることによってしか生まれてこないのだと思います。
タナカ 前に下條さんに何だかわからないけれどとにかく作ってしまうようなモチベーションってどこからやってくるのと尋ねたら、それがわかれば科学者はいらないという答えが返ってきたのを思い出しました(笑)。
下條 十川さんが書かれたモノの中に、「科学は論理と分析に頼るが、真ん中に大きな穴が空いている。それは科学をやると言うことはどういうモチベーションがありどういうエネルギーが働いているのか、その部分がポッカリ空いている」という一節があって、情動と絡めて考えてグサリと来た話でした。ではいくつか質問をお受けします。
ーネット社会と情動の関係について、ネット上でホンモノの情動経験というのはあるんでしょうか?
十川 僕はネットの経験が乏しいので、ナイーブなことしか言えないのですが、ネットの世界においては身体性が希薄です。しかしこの点はいずれ技術的に克服できるかもしれません。新たな道具の出現は、われわれの脳の構造にまで影響を及ぼします。文字が発明された後、進化の過程で脳の構造はまったく変わったわけです。ですから、これから50年後、われわれの脳のあり方を大きく変える可能性があると思います。ただ一点、ネット経験に決定的に欠けているのは相手の話を聞くという行為です。相手がどのような声質でどのような語り口でメッセージを伝えているか。分析においては相手の話を聞くことから始まります。情動は聴覚に訴えかける部分が大きいので、これもまた情動と結びついた問題なのです。
下條 ネット上で情動の経験がないならすっきりして安心でいいのにと思います。翻って本はどうだろうと思ったとき、本は認めてネットは認めないというのは苦しいだろうと。つまり技術的な歪さはあるけれど、そこが本質ではないように思います。
十川 じゃあ夢はどうですか?
廣中 僕はセカンドライフは夢に似ている感じをもったけどな。
下條 物理的制約で現実ではできないことができてしまうのは、すごい情動経験ですよね。それは物質的なリアルの裏返しのリアル。
十川 夢の中でも非常に強い情動を受けることはありますよね。
ー報酬系とは、生得的なのかどうかについて。
廣中 報酬系というのは実は生得的なんです。そして操作可能、現状では操作する道具はドラッグです。ただドラッグは大きくアクセルを踏むかブレーキを踏むかの操作しかできない。報酬系だけ見れば人と動物とはそれほど変わりはありません。
ークリエイティビティと情動について。
タナカ 報酬とは関係なく作らずにいられないという行為は情動だろうと思います。それがエンジンになって、テクニカルなものというのはもっと意識的なモノかな。
下條 方向性のはっきりしないエネルギーに対してラベル付けができたとき、情動が経験されるという話が出てきていますが、それがクリエイティビティにも当てはまるのかなと思います。
下條 では最後にゲストのお二人からひと言ずつお願いします。
廣中 私は酒井さんの言った「偏っていいんでないの」に非常に感銘を受けました。
十川 われわれは何か行動をするとき、生理的な動きがあって行動をする。そして説明を付ける。でもその説明は情動レベルから見ると、ほとんどピントはずれのモノでしかない。この事実を認識しておかないとわれわれの生きる方向性を見誤ることになりかねないと思います。
タナカ 情動というテーマはこれからどんどん加速していくのではないかと思っています。まだまだ答えがでないように思うし、今回のルネッサンスジェネレーションは、これから考えていくためのきっかけになればと思います。
下條 今回は身も蓋もない議論に終始しましたが(笑)、もしも何か腑に落ちないことに出くわしたとき、情動というキーワードなりを入れることで何か新しい展開になるようなことが、今日集まってくださったみなさんに起こるといいなと思います。それでは今年のルネッサンスジェネレーション、これで終了します。ありがとうございました。
タナカ 長い時間、ありがとうございました。


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