ビデオインタビュー
[ 情動の権力 ]

酒井隆史
(大阪府立大学准教授 / 社会思想、都市文化論)
聞き手:下條信輔


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下條 では、酒井隆史さんを紹介させていただきます。今、大阪府立大学で教鞭を執られていて、専門は社会思想、政治思想です。ミシェル・フーコーの研究を基盤に、それ以降のフランス哲学思想、自由論・暴力論といったあたりを研究されています。ではVTRをご覧ください。

〈VTR上映〉

下條 今日のテーマは情動なわけですが、私の専門で言うと、情動という話と行動のコントロールという話は比較的繋がりが理解できるのですが、政治権力と情動となると、なかなか理解が難しくなる。そのあたりのことからお願いします。
酒井 政治、あるいは権力を微細なところから考えるというアプローチは、1960年代以降に活発になってきたわけです。議会とか警察といったものよりはむしろ、日常のコミュニケーションに権力の浸透を見るという考え方ですね。そういったミクロな次元に焦点を合わせると、情動に視点がいくようになります。そしてもう一方では、存在論的に身体が問題になってきて、人間の存在に理性ではなく情動を見る流れが起きてきました。その2つの流れが交わるところで、権力と情動といった視点が現れてきたわけです。
下條 近代の人間観というのは、理性や論理といったものが先行していたけれど、ここに来て、情動や欲望がドライビングフォースとして注目されている、というわけですね。それは科学の世界も思想の世界も繋がっているように思います。

情動は個体以前のリアリティだ

下條 酒井さんがよく言われる情動の潜在性についてお話しください。
酒井 情動の潜在性というのは、前個体的、個体以前のところで働いているリアリティのことです。近代思想は個体からリアリティを創出しましたから、近代思想において常にリアリティは個体のものでしかなかったわけです。個体以前のリアリティを考えてみると、権力が微細に働いていくときをよく見てみると、権力は人間の形成そのものに関わっているのではないか。われわれを構成するものとして権力があるんじゃないかと考えるときに、前個体的という次元が重要になってくるわけです。
下條 その「前個体的」の「前」をもう少しご説明いただけませんか。
酒井 われわれがこうして話しているときにもすでに作用している、雰囲気とか空気であるとか、こういった次元、それを前個体的と言っているわけです。その重要性ですね。例えばスピノザとホッブスを近代思想からポストモダンにつながる思想家として対比させると、ホッブスというのはエゴがあって、みんなが孤立しているから恐怖感が生まれて、大きな国家権力に力を委譲するという契約論。ところがスピノザは、恐怖という悪い情動があるから人々は孤立するんだという考え方。スピノザは情動と権力を考えた最初の思想家の1人と言われていますが、彼は恐怖と希望のループ、恐怖を与え希望を餌として与えることで、国家権力が形成されると考えた。ホッブスはエゴがあって恐怖が生まれると考えたわけです。
下條 場の空気が情動と絡むのはわかるんですが、そこにどう権力が関わるんでしょう?
酒井 ヨーロッパの近代思想において大きかったのは、ファシズムの経験なんです。エゴがあってリアリティがあるという近代思想の発想においては、人は利益に則して、利益を最大化するように行動すると捉えられてきましたが、ファシズムの経験を通してはっきりしてきたのは、人は自分の利益に相反してまで、自らの死を選ぶ、社会体の死すら選ぶことがあるということがわかってきた。必ずしも人間の行動は利益という目的に還元できない。そういうときに情動のリアリティがもう一回浮上する。ファシズムは情動に訴えかけるわけです。
下條 愛国心とか?
酒井 そうですね。人間にとってはまったく利益にならない、自己愛では考えられない行動を採ってしまう。それは何か。それが情動だということです。

ファシズムと9.11、脱イデオロギー

下條 9.11以降、情動というキーワードを持ち込むことによって、イデオロギーなどマクロな視点で考えたとき見えてこなかった問題が見えてきたという持論をお持ちですね。
酒井 イデオロギーを定義すると、首尾一貫した物語を作って、それによって人々を支配するという発想ですよね。そこで重要なことは物語性。ところが9.11以降、権力は物語の首尾一貫性を放棄して、作動しているように思います。
下條 一つは恐怖に訴えかける。アメリカのテロ信号とかですね。
酒井 そうですね、あのテロ警報装置は最たるものでしょう。まったくイデオロギーなど介していない。単に危険か危険じゃないかの調整だけ。恐怖疲れしない、恐怖になれてしまわないように絶妙に操作している。
下條 認知神経学的に言うとホントに良くできていて、順応とショックの間で最適値を調整してるんじゃないかと勘ぐりたくなります。さてここへ来て、情動をキーワードに自分たちがいかにコントロールされているかについての自覚が高まってきたわけです。では今後はどうなるのでしょう?
酒井 難しい質問ですね、それは。ただ、現在は、何が起こるかわからないくらい極めて危険な状況である、とも考えられるでしょうね。例えば最近ではアテンション・エコノミーという言葉ができていて、つまり注意に対して投資していく。心理学的、生理学的に考え抜かれた人間の刺激反応図式によって、人を消費に走らせていくようなね。見ただけでお金になるようなシステム。ある意味、情動の隅々までシステム内に捕獲されていくわけです。従来はプライベートなものと考えられていた最後の領域さえも管理されてゆく。そうなると、これまでには考えもしなかったほどの超全体主義が現出しつつあるとも考えられるわけです。

欲望と快楽、そして消費

下條 最後に欲望と快楽、消費についてお話しください。
酒井 1つ希望があるとすれば、快楽から身を離して欲望の側につくというのがあると思うんです。欲望を取り戻す。快楽は目的です。消費の構造というのは快楽を目的にして、そこに人々を動員していく。快楽はリアルだと思われていますがそんなことはなくて、実は人々は快楽に寄与しない行動を無数に採っているけれども、それが見えなくなっている。これと恐怖や不安の高まりは決して無縁ではないと思っています。恐怖があるから人々は孤立し、それが快楽を介した消費のループに人々を閉じこめて行くというワンセットになっていると思うんです。
下條 恐怖があって孤立して、救いを求めて快楽に走ると?
酒井 救いという意味合いもどこかにあるでしょうね。孤立と恐怖のスパイラルが、唯一のリアルな目的である快楽に人々を閉じこめて行く。
下條 欲望の側につくというのを詳しく説明してください。
酒井 今の社会の中には決して快楽には収まらない奇妙なパッションってありますよね。そしてそれに基づく行為もある。これは快楽という目的を設定したときに見えなくなる。快楽という目的を取っ払って世の中を見てみたら、別の何かが浮上してくる。それが欲望だと思っています。
下條 欲望は人間にとってより根源的なもので、快楽は消費社会につながってつくり出されていると?
酒井 快楽は消費社会に馴染みやすいという感じですね。
下條 そこに捕獲されてしまうことに現代社会の問題点があると?
酒井 そうですね。

われわれはどうすればいいのか

下條 では今度、われわれはどうしたらいいのでしょう?
酒井 一つスローガン的に言うと、あまり空気を読みすぎるな、偏ることを恐れるな、ですね。偏るというのはヒューム、ドゥルーズから来てるんですが、情動という問題と関わっていて、情動は他者との相互作用、アフェクトしたりされたりという関係性を含んでいます。そういった他者との関係性が断ち切られると、エゴ、孤立した私になってゆく。偏るというのはそれに対比される。つまり身近な人に親切にするとか、他者を常に含んでいる。ドゥルーズはこの偏るということを人間社会の基底におくべきだと言っているんですね。それが最近では、空気を読むといった流行語を見てもわかるように、偏ることが恐れられているわけです。最近では「偏る」という言葉が否定的に使われていますが、実は人間、偏らないわけがないわけで、それをどう肯定するか。逆に偏ることを恐れることが人々を孤立させエゴイスティックにし、ひいては消費のループに閉じこめているのではないか。
下條 今の学生を見ると、非常に均質なのにそれぞれが孤立してる感じがありますね。
酒井 空気を読むことも必要ですが、それは単にマナーに過ぎないわけで、小手先の技術ですから、もっと偏っていいんじゃないかと思います。
下條 非常におもしろいお話ですね。ありがとうございました。


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