[ アートワークス・ショウイング ]

朗読:金剛地武志(ミュージシャン / 俳優)
演出+映像:タナカノリユキ
テキスト:下條信輔
音楽:Tatsuya OE


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朗読テキスト

人格と外見って、どう関係してるの。っていうか、ほんとのワタシって何なの。
何が「ほんと」で何が「にせもの」なの。それとも何が仮面で、何が素顔なのか。
自分でもわからない。たまーに悪いことが重なってブチ切れたり、酔っぱらってからんだりしたときに限って、「あれがアイツのほんとの性格よ」なんて陰口たたかれたりとか、ない?
でも外見って、たいせつよね。らしい性格、ってあるし。美人には美人らしい、わがままで高慢だけど、それなりに素直な性格。ブスにはブスらしい、ひがみっぽい性格とか。
あとは、ファッション。これってホント、たいせつ。あのね、私、お嬢様ルックに身を固めると、ほんとにお嬢様性格で心も固まる気がする。バスケのユニフォームだとそれなりに体育会系でガニ股、たまにはこっそりお水系の厚化粧とか。ほんと、ぜんぜん気分も態度も違っちゃって、ぜんぶそれなりにほんとのワタシ、って感じ?
でもそれって、まわりがそう扱うからなのかなあ。だとすると、私の性格をまわりが決めてるってこと? それもなんだか変。

十人十色って、よく言いますよね。外見だけについて見ても、もともとの素顔が誰ひとり同じでないように、ハマる対象もさまざまです。たとえば男性だけで言っても、入れ墨、ピアス系とか。マッチョ系、コスプレ系。 化粧、女装系。でも、よく考えると、女性でもだいたいこれらはあてはまる。あとはエステと整形手術とかね。
セカンドライフは極端ですけど、ハマるってことは、それなりに、というか現実の生活以上に、満足を得ているってことですよね。でもそれって本当に「自分」としての満足なのか。あれ、そんなこと関係ないのかな。よくわからない。
でも、そんなに極端でなくても 、人は皆、多かれ少なかれTPOで使い分けている訳ですよ。
たとえば警察官とか、制服組の職業の人がいるとする。職務中と、家でトレパン姿でテレビ見てるときと、彼女とデートしてるときと、ぜんぶ言動がまったく同じ、って人、いますかね。まずいませんよね。いたらかえって気持ち悪い。ついでに言うと、役者や俳優は、その上にさらに役を演じるということが加わるわけです。
そういう意味では、人間皆同じなんです。ここで共通しているのは、とにかく内側に確実な、変わらない素顔の自分がまずあって、その上で外側がいろいろ変わるっていう、その構図です。だけど、ほんとうにそうなのかな。
それに私、そもそも疑問に思うのが、みんなそれぞれ不自由と思っているか、ってこと、ね。
つまり、制服で勤務中は枠嵌められて不自由、ってのはわかるけど(私も大学の教師、って顔が一応あるもんですから)、家でくつろいでいるときやデートしているときはどうなのか。本当に自由なのか。家でくつろいでいるときが本当の自分だなんて、どうして言えるのか。「家でひとりでくつろいでいる」というのも、それなりの社会的状況です。役割や状況に応じて適応的に反応しているという意味では、おんなじじゃないのか。「家でひとりの素顔の自分」という仮面に付け替えただけじゃないのか。
でも逆に言えば、ほんとうの素顔って、じゃあ何なのか。役割や社会的文脈がまったく無いって状況は、実はまったくリアルじゃないし、そんな世界での自由なんて意味ないですからね。
いや、ほんとのところ、どうなのか。素顔の自分、偽りのない本心、究極の自由。そういうのって、要するにただの幻想なんじゃないか、なんてね。

感情ということばが普通、快不快を伴う心の一過性の状態を指すのに対して、情動とはそのような経験をもたらす器としてのからだや脳神経全体の生理的過程を指す。たとえば極度の緊張を強いられたときの血圧や脈搏、体温の上昇は、それら自体は感情ではないが、感情に伴う、あるいは先立つ情動的変化である。
感情は「経験される」のに対して、情動は「表出される。」ここで「顔」が複雑なかたちで関わってくる。まずかのダーウィンも述べたように、情動は顔の表情となって「表出」される。この表出の過程を自ら認知することが、感情を経験する上で重要な条件となる。つまり自らの表情の変化を伴ってはじめて、感情が経験されるとも言える。他人の感情を「痛いほど」理解できるというのも、その人の顔や声の表情が読めるからだ。しかもそれは「誰の」感情かというアイデンティティを伴ったかたちで認知される。顔はアイデンティティのもっとも明確なシグナルも発しているのだ。
進化に伴って繁殖戦略が変化してゆく過程で、顔は一方では個体識別の視標となり、他方では情動シグナルの送り手となったと考えられる。

気持ち、あるいは感情。人は誰も逃れることができません。たとえば怒りは、ただ突然に湧いてしまう。おさめようとしても、怒りの炎は体を揺さぶって放さない。また思いがけない大きな幸運に、そ知らぬふりをしようとしても、思わず頬がゆるむのを止められないなんてこと、たまにあるでしょう。  
そもそもどうして 感情は「起きる」のでしょう。生物学的に、無いと困るのだろうか、という意味もありますが、それより、選びとるのでもなく、創りだすのでもなく、受け身に、あたかも台風のようにそれは襲ってくるのは、どういうわけか。
突然ですが、一番似ているのは、案外にきびや吹き出物かも知れません。ところ嫌わず、それこそ出物腫れ物のように、それは「出てきてしまう。」
自分の脳が自律的に起しているのに、「起きてしまう」という他律的な様相でしか生じない、まるで自分の中のもうひとりの自分が欲しているかのように。情動と感情の謎を解くカギが、ここらにあるのではないでしょうか。

政治は情動的=エモーショナルである。大衆操作が意図的に人々の無意識の情動系をターゲットにし管理するということと、選挙などの結果が当事者の意図にかかわらずほとんど情動的な要因で決まってしまうという、二重の意味で。商業主義も、同じ二重の意味でますます潜在化し、エモーショナルになりつつあるといえるだろう。
その一方で、情動はポリティカルだ。個人の内部の問題でありながら同時に他者との関わりの問題であり、表面の論理を背後で駆動するからだや体液があり、価値や倫理の問題に直結している。能動的であるはずなのに、受動的である。そういう現象をポリティカルと呼んでいいなら、情動はまさしくポリティカルな現象でありシステムだと言わなくてはなるまい。

われわれは人の顔を見て「怒っている」「悲しんでいる」「喜んでいる」などと言う。表面の皮膚の変化だけを見て、そんなことを言っているのだ。
確かに顔は情動表出の器官と考えられる。裏返せば、他人の目に晒された自我を護る防護壁とも言える。衣服にも化粧にも整形手術にも、同じことがいえるだろう。
尻と顔は、いろいろな意味で似ている。チンパンジーなど霊長類では、ともに皮膚と粘膜とが露出している。そして生存と社会行動、特に雌雄のメーティングや生殖にかかわる機能が集中している。たとえば、顔には接触、発声、威嚇、誘惑。尻には排泄、発情、交尾、優劣を確認するマウンティングというように。
ヒトの唇が赤いこと、口紅を使うことと、チンパンジーの発情した雌の尻が赤い事の間には、関係があると考えられる。四足歩行では尻、二足歩行では顔が、情動の言わばプラカードとなる。

旬のアイドルが、ファンに見られるということ。彼女自身が自分を見ること。メディアの中の自我。作られた自己像。
好き、嫌い、可愛い、きれい、生意気、ズルい、気品がある、どこにでもいる感じ。
会いたい、彼女にしたい、トモダチなら最高、いや興味ない。
見られることを意識する沢尻を、また見ている者。
演じ続ければ、肉化する。文脈を断ち切って、あらたな文脈を演じ切る。服装や化粧によって、彼女自身があらたなイメージを持つ。
プライベートの自分。変わりたい欲望。 「XXに見せたい」という願望は死ぬまでつきまとう。

化粧やファッションは、種族やジェンダーやコミュニティなど、アイデンティティの表明であるという考え方がある。そうした種族やジェンダーのアイデンティティを活性化してやると、同じ個人でも表に出る自己イメージが一時的に変わる、という実験もある。
顔の好みは時代や文化とともに変わるが、人種毎に一定不変の美のプロトタイプは存在するとする説がある。
ヒト同士のコミュニケーションが進化することによって社会集団が大きくなると、仲間と敵を区別して認識したり、相手の心を読む能力が必要になった。そうしたニーズに応じて大脳新皮質は進化した、とする説がある。
感情表現に応じて皮膚下の血の色が変わる。ヘモグロビンの酸素負荷量や血流の絶対量が変わると、それぞれ緑赤や黄青の方向で変わる。だから「顔色をうかがう」というのは読んで字の通りの事実で、ヒトの色知覚はそもそもそのために進化したという学説もある。
歌は、言語進化の裏街道で、情動に特化して進化したとする説がある。また祭り、踊り、戦いにおける団結などの目的のために進化したとする諸理論がある。
顔は見れば見るほど好きになる。景色は見れば見るほど飽きる、という研究がある。一方歌や音楽はたいてい、新しさと馴染み深さの組み合わせで成立していると解く論者もいる。
こちらの顔がより好きだ、という意識的な判断がくだされる前に、からだと目が知らないうちにもうそちらを選んでしまうというデータもある。
他人のふるまいやことばを理解しようとするとき、自分のふるまいや発声のメカニズムが働く、という「ミラーシステム」の考えが有力である。

何よ、その顔!

ちょっとゲリラのボス、そうゲバラみたいなイメージで。野戦服、迷彩かな。そう、葉巻くわえて。あと革命、戦争、人民、解放、テロって感じで、まわりにプラカードと、怒れる群衆。

まるで別人だね。

狂気と凶器。半眼を閉じた虚ろな顔。

炎、暗闇、水のほとりと深淵。
鬱蒼と生い茂る深い森、覆い被さるように枝葉を茂らせた巨木。大地、見渡す限りの地平線。蒼穹を飛び抜ける雲。
祭りの、踊り狂う仮面と槍の矛先。

恥ずかしさに赤くなった顔。
ちょっとはにかんで、頬に赤みのさした顔。
阿修羅のごとき憤怒の顔。
青い顔。
不健康な貧血の黄色い顔。
鬱血した赤黒い顔。
みどり色にしらけた表情。
不気味に化粧したプラスティックのような皮膚、サイボーグの横顔。
死地に赴く白化粧。

情動の森に囲まれた、アイデンティティのほとり。
そこにはさまざまな半獣半人が次々に現れ、水面に映った己の姿に、つかのまの夢をみては立ち去っていく。


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