総括討論
[ 悪と善の基底に見えてくるもの ]

中谷陽二×中村美知夫×永井均×タナカノリユキ×下條信輔(司会)


 

下條 まず最初に、スピーカーのみなさんそれぞれに言い足りなかったことがあるかと思います。そのあたりをお一人ずつ、まず中谷さんからお願いします。
中谷 では、言わずに逃げたところを補足します。それは、精神障害者はなぜ免責されるのか、という部分です。
少し歴史の話になりますが、明治のごく初期の頃までは、乱心だけでなく、子供と老人に関しても、寛大な刑を下すという規定があったんですね。その頃の日本の法律というのは中国の律の系統でした。そのバックグラウンドは、儒教の憐れみの心なんです。つまり、弱者に対する憐れみの心ですね。西洋でもやはり近代以前には、キリスト教が絡んでいるんですが、精神病の人というのは、病気であることにおいてすでに神に罰せられている。罰せられた人をそれ以上罰することはない、という背景があるようなんです。
それが近代になって、免責の理由は自由意志であるとか善悪の判断といった主観的なレベルにシフトして行ったんです。すると、善悪の判断ができないからと言ってなぜ免責なんだ、という議論が出てくる。そして結局最後には、弱者つまり心を病んだ人に対する寛容さに戻るしかない。しかし、そうすると、被害者はどうなんだという声が一方であがるわけです。殺された人の命はどうなんだということです。
ここでみなさんに考えていただきたいのは、あと数年で始まる裁判員制度なんです。裁判員が関わるのは、重大犯罪に限られます。その中のある部分はおそらく、責任能力だけが争われるものになります。すでに事実認定は終わった状態で、崖っぷちで死刑か無期懲役かという場面が予想できるわけです。そこにみなさんが加わって、裁判官と一緒に判決を下さなくてはならない。そのあたりのことをぜひ、みなさんにも考えていただきたいんです。
下條 なるほど。では、次に中村さん。
中村 今日、私はチンパンジーの悪の側面を強調してお話ししたわけですが、実は私は、そんなに悪のことを真面目に考えていたわけではないんですね。私が実際に研究しているのは、一般的な感覚で言えば、平和な行動です。具体的には、毛づくろいを調べています。そういう意味では、今回悪について考えてみて、知らず知らずのうちに、チンパンジーの暗い側面に目を瞑っていたかなぁ、という印象がありました。その一方で、今日もいくつかの他の研究者の事例を引用しましたが、最近、チンパンジーの暴力性が強調される傾向にあります。もちろん事実は事実としてあるんですが、一つにはものすごくキャッチーであるということが言えると思うんです。たとえばチンパンジーが他集団へ出向いていって戦争まがいのことを仕掛けるというのは、メディアや一般の人はもちろん、研究者仲間でも驚きとともに迎えられる。私としてはその過度な強調のされ方に、若干不満を持っているんですね。なので、言い残したと言いますか、最初にこの言い訳を述べた上で、レクチャーに入ればよかったかなと思っています。
下條 では永井さんお願いします。
永井 善と悪のどちらが先に立つかという問題に触れられなかったので、ここで簡単にお伝えします。この問題は歴史的には、古代の思想家はみんな善が先立ち、善の欠如として悪を考えています。よき人とか美徳のある人を一者、それに対して善が欠如した人を多者と考えているんですね。これは西洋に限らず、古典的共同体があった時代の善悪感です。
それに対して、近代に関しては基本的に逆です。人間は利己的にできているから、それをどうにかして抑止するやり方を考える。やり方はたくさんあるから、こちらが多者なんですね。われわれは現代人ですから、物事を考えるときにこの考え方に則るんじゃないかと思います。悪いことをしないように、させないように、善を行う。ですから善のイメージは希薄であるように思います。
下條 タナカさんはいかがですか?
タナカ ちょっと議題に乗せてほしいと思ったことが一つあります。さっき永井さんが言われた、言語的説明不能な状態というのがあったと思うんですが、悪と善を考えたときに、そういった言語的なことと同時に、集団的なイメージみたいなものによって変容しているような気がするんですね。永井さんのお話は原理的にはよく分かるんですが、社会や集団の中で機能になったときに、集団的なイメージで変化するというのはあるんじゃないかと思うんです。そのあたりのことをお聞かせいただければと思います。
下條 わかりました。では私からもひと言。私が影響を受けたマット・リドレーの本の、私なりに整理した筋書きを紹介させてください。今日の中村さんの話には、個体の間の競争、利己・利他の話は出てきたけれど、遺伝子の話はあまり出てきませんでした。それから性善説と性悪説を統合的に捉えるかという話にまで、まだ至っていないという感じがしてます。なので、ちょっと無理矢理ですが、そのあたりに話を持って行こうと思います。
利己的遺伝子説というのがあります。動物の行動は、自分や集団の生存のためではなく、遺伝子の拡大再生産のために全て規定されているという考え方です。この話の魅力的なところは、利他的な行動も利己的遺伝子説でよく説明できるということです。自ら囮になる親鳥も、遺伝子の生存率を計算すると理に適っている。ですから、遺伝子から見ると、利他的に見える行動もほとんどは利己的であるわけです。それからまた、経済学者・アマルティア・センの、同情に基づく行動は重要な意味において、エゴイスティックである、という文脈にもつながっていきます。これは性善説と性悪説を統合的に捉えようとする第一歩かと思います。
2番目に利己的遺伝子説は、他人から残虐に見える行動も説明できます。これは中村さんがよく話してくれました。但し、これらの行動は血縁関係の濃さで計算、予測できる範囲のことだと、リドレーは言っています。自分の子供、兄弟、従姉妹と血が薄くなるに連れ、利他行動が比例して下がっていくという研究さえあります。ところが、人間の社会においては血縁関係を厚遇し過ぎることは悪とされています。これは洋の東西を問わずです。ですから血縁関係の濃さで、利己的遺伝子で説明するということが成立しない、これがリドレーの大きなポイントです。血縁関係は人間の社会行動をうまく説明しえない。だから、人を種として特長づけるのは、血縁関係のない他人に対する互恵主義であると。ではなぜ互恵主義が進化したか。互恵主義はノンゼロサムゲームを可能にする。つまり、ゲームのマトリクスの中で儲けの総計が増えていくということです。互恵主義にはおそらく進化する根拠があったということなんですね。これは資本主義の原理です。
そして重要なポイントは次です。意志や感情を持たない自動装置にも、愛他主義が芽生える余地があったという発見、このことが非常に重要だと言っています。欧米では、コンピュータシミュレーションのポリティカルサイエンスとバイオロジーのセオリーとが相互に刺激し合って、こういう考え方に至っています。ここにおいては、利己主義と利他主義の対立、進化や淘汰、こういうものが統合的に理解されそうな段階に来ています。つまり、人間と動物には連続性もあるし、不連続性もある、ということです。以上です。
下條 では、ここからは総括討論に移りたいと思います。どなたか、じゃあ、中村さんどうぞ。
中村 利己的な遺伝子の話は、とてもよくできた話だと思います。おそらく生物の進化を考える中で、重要な位置を占めるとも思っているのですが、ただ単純に、人間の善悪とかチンパンジーの子殺しといったものを、利己的遺伝子に置き換えてしまうのは危険だと思っているんです。というのは、理屈としてはある行動に対応する遺伝子を考えて、ある戦略を選ぶということになるんですが、現実的には行動というのは複雑に形作られている。そこには、たとえば子殺し遺伝子といったものが単独で存在することはあり得ないわけです。複数の遺伝的な基盤を持ったホルモン状態とか外部環境とかが非常に複雑に組み合わさって、現実の現象が起こるのであって、今の私の感覚では、少なくとも社会性を持った生き物、霊長類の仲間などにそのまま当てはめるのは、まだまだ難しいという印象があるんです。これが、今日遺伝子の話をしなかった私なりの理由というところです。
下條 今の話と関係あってもなくてもけっこうですが、どなたか。
永井 中谷さんに質問なんですが、鑑定というのは事実としてどのようなことをやるんですか?
中谷 まずとにかくデータを集めるわけです。難しいのは犯行時の精神状態はどうだったか、ですね。これが責任能力の有無の判断につながるわけですが、とても難しい。数ヶ月前、場合によっては数年前の何月何日何時何分に、この人はどうだったか、という判定を求められるわけです。被害者は死亡していて、目撃者もなく、本人に記憶がない、といった場合もあったりするわけで、これは周辺情報を総合したり、類似した事例と照合したり、手は尽くすんですが、困難を極めます。
具体的な作業としては、被告人との拘置所での面接と心理検査、家族へのインタビューが中心です。
下條 犯行時の精神状態ということでは、宮崎勤事件の時、東大の中安教授の鑑定が裁判所で二度にわたって採用されなかったわけですが、実際的に犯行時の精神状態までを同定する方法はあるんですか?
中谷 病歴が明らかであればカルテも読めるので、かなり可能性はあります。
下條 是非うかがいたいのが、レーガン狙撃事件のヒンクリーのケースです。あれは完全に免責になったと思うんですが、そのことに対する世論の反発が起きて、結局、メンスレア=故意の基準というものができた。つまり、これからやろうとしている行動が犯罪であることを承知していれば、感情面での妄想や異常があっても免責にはしない、という判断だそうですね。何でそうなったんですか?
中谷 責任能力の基準は大きな事件がきっかけになってガラッと変わる。アメリカではレーガン狙撃事件がまさにそうで、あれ以降、責任能力を狭く取る方向に大きく動いたんです。いくつかの州では精神異常抗弁を完全になくしてしまうところも出てきました。また、精神障害が証明されても犯意があれば罰していこうという判断にもなったわけです。
下條 認知神経科学の立場から言えば、情性の欠如のほうが知的判断能力の欠如よりも深刻な障害だと感じるわけです。ほとんどロボットのようになってしまう。弱者に対する寛容さに究極の根拠を求めるのであれば、情性の欠如ほど極端な崩壊はないと思えるのです。
中谷 それは大切なポイントで、判断力は掴みやすいんですが、感情や衝動の異常は証明がしにくいもので、裁判所で受け入れられにくいんです。
タナカ 永井さんにうかがいたいのですが、言語にすでに道徳が含まれるなら、道徳以前というのは存在するのですか?
永井 これは時間的な問題ではなくて、論理的に再構成してみた上での話なんです。ですから、事実問題としては存在しません。つまり、判断者は言語を持っているわけですから、思考において仮に身を置くことしかできないわけです。
下條 僕からも永井さんに質問を。利己主義と利今主義についてですが、時間軸を離れれば、第一階の意志と第二階の意志というものに重なると思うんですが。
永井 重なる場合もあります。利今主義というのはあくまで時間軸上の話ですが、第一階の意志と第二階の意志の場合には、一気に同時に両方あっても構わないと思います。
下條 となると、善と悪が同時に存在して、一方が他方を抑えているという話に近い。神経科学的な知見でもバイアス・セレクションという話があって、2つの別の判断なり解釈なりが脳の中で競争していて、一方が他方を抑えて勝つということがありそうなんですね。善と悪の本当の問題は、そのあたりにありそうに思うのですが、いかがでしょう?
永井 それはある意味、当然な話だと思います。ただ、人間は今にしか生きられないので、長期的なことというのも、今考える長期的なこと、なんですね。本当の未来のことなんてわからないわけですから。未来のことを今どう思っているかってことに関わっているわけです。そういう今現在考える未来というのは、いわば第二階なんですね。事実上の未来はない。
タナカ 今の同時に善悪がある状態というのは言語化しにくいというか、イメージ的な感じがするんですが。
下條 自由意志に基づくと言われる行為でも、その直前の脳の活動なり身体の活動を調べてみれば、そこから因果的に予測できることが多い。これが神経科学の知見なんです。では自由意志とそれに基づく責任はどうなるのか、という問題が出てくるわけです。これを心配して、自由意志を救おうとする哲学者や脳科学者が出てきています。それはさておき、自由意志と言われるものは、行為をした後で、認知的に行為を解釈する因果の枠組があって、それによってその行為が自由意志であると解釈するのではないか。これまでの認知神経科学はプレディクションの部分だけを見て解釈しようとしていたわけです。でも本当は、主に潜在的であるプレディクションの過程で人間の行動はほぼ決定しているんだけれども、それを意識レベルで自分の行動をどう自分で認知し知覚するのかという過程が加わって、この2つが揃って、ようやく行為が認知科学的に理解できる。その枠組みがバイアス・セレクションとも関係していると思うわけです。
永井 自由意志を否定する議論につながるなら、それは一般人と精神障害者の違いはなくなりませんか?
下條 いや、つまり、自由意志は本物のイリュージョンだと言っているわけで、脳の中の動きを説明されたところで、自由な感覚は消えないだろうと。
永井 でもそれがイリュージョンならば、本当は存在しない、ということですか?
下條 そうですね、感覚世界が世の中の基盤だと言いたいわけです。神経科学の領域に行ってしまうと、健常者も精神障害者も変わらないという議論もあるかと思うのですが。
中谷 それは一種の決定論で、他行為の可能性の否定につながりますね。他行為の可能性というのは、他の選択肢もあったけれども、こっちを選んだということ。もっともこれは実際には証明できないんですよ。それをやっちゃったんだから、それしかできなかったんだろう、という理屈になってしまいますから。
永井 善悪の問題と、決定論・非決定論の2つがある。決定論になると、哲学的な議論としては非常に難しい問題です。決定論が正しいという可能性もあると思います。そうなると犯罪者に対する処罰は無意味ですから、処罰よりも脳に対する治療へという可能性もあると思います。
下條 中村さんに質問です。チンパンジーのやることの中で、人間の目から見て犯罪に近い行動は何と何がありますか? 子殺し、同種殺しは話していただいたわけですが、たとえば略奪はどうですか?
中村 所有がなければ略奪はないわけです。チンパンジーは基本的にはその場で果物を取って、その場で食べるので、所有している時間は非常に短いわけですね。ただ、アカコロブスの肉食の話をしましたが、あれを食べるには時間がかかるわけです。捕まえたのが若いオスだったりすると、すぐに大人のオスがやってきて、それを奪ってしまうということはあります。所有する時間と立場の違いによっては略奪行為はあるといえるかもしれません。
下條 食物を独り占めするためのチンパンジーの欺き行動はよく知られていますが、レイプはどうでしょう?
中村 レイプの報告例が多いのは、オランウータンですね。オランウータンにはオスに2種類ありまして、成熟しても小さいままのオスというのがいるんです。レイプまがいの行動をとるのは、この小さいオスです。小さいオスはメスから相手にされないので、魚でいうスニーキングのようなことなんですが、それに対してメスはすごく抵抗をする。で、結果的にレイプのような形で交尾が行われることがあるんです。
下條 人間の犯罪行為でチンパンジーでは見られないものってありますか?
中村 あまり犯罪行為に精通していないので(笑)、たとえばチンパンジーは結婚しませんから結婚詐欺みたいなことはないです。そういう制度的なものは思い浮かぶんですが……、できればこれはどうだ、というふうに訊いていただけると。
中谷 犯罪は、言い換えれば、罰の対象ですよね。そう考えると、チンパンジーの社会でペナルティの対象になる行為というのはどうでしょう?
中村 ペナルティで判定すると、グッと数は減りますね。たとえば欺き行為にはペナルティは課されませんし。
下條 ただ、一連の行為手続きがあるかという点はどうですか?
中村 う〜ん。チンパンジーの行為というのは結局、観察者であるわれわれの解釈によるわけですからね。
下條 今回もすっかり、時間を超過してしまいました。それでは最後に、スピーカーのひと言ずついただきたいと思います。
中谷 正直、会場に来るまで非常に気が重かったのですが、やってみて、大変刺激になりました。棚上げしていた問題をあらためて考える機会になりましたし、自分の専門の安全地帯からちょっと引きずり出してもらったなと、思っています。ただ、かなり混乱してます(笑)。
中村 今回、悪について考えてみて、善と悪がセットになってこそ社会なのだと再認識しました。その点では今後はもう少しダークサイドについても考えていかなくては、と感じました。
永井 哲学の議論というのはどこまでも続けることに価値があるので、こういう短い議論というのは、哲学的にはあまり意味がないんですね(笑)。単純な感想ですが、時間が短いのが残念でした。
タナカ かなりリアルな話ができたかなと感じています。今回はいつもの具体性に加えて、カサの大きさみたいなもの、社会とか人間とか、宗教、倫理、道徳みたいなものが入って、非常に有意義な時間になったと思います。
下條 価値問題の底に事実問題があるんじゃないか、その事実をテーブルの上に並べたい、と最初にお話しした部分は、ある程度できたと思っています。長時間、ありがとうございました。


close