レクチャー03
[ 悪は善である ]

永井均
(千葉大学人文社会科学研究科教授 / 哲学)


 

永井です、よろしくお願いします。私の話は他のお2人に比べると、はるかに地味でおもしろくない話なんですが、どうおもしろくないかというと、あまり具体的な例とつながっていなくて、事実問題とは別の、カントの分類では法律用語で権利問題と言うのですが、理論的に事柄がどうなっているかを、すこし理詰めで考えてみようということです。

明日は天気が悪いといいな

先程、下條さんのお話の中に悪天候という例が出ていましたが、たとえば今日は雨が降っていますから、「天気が悪い」と言うわけですね。こんな悪天候の中、よくぞこんなにたくさんの方々が来られたというのは、誰が一体何のために(笑)……、いや、実は正直ビックリしておりまして(笑)。ま、精一杯がんばっておもしろくやろうと思いますが(苦笑)、とにかく悪い天候という表現です。
「天気が悪い」とはそもそもどういう意味なのか、イマイチよくわからないですね。ただまぁ、何となく雨のほうが嫌だと、晴れてるほうがいいと感じる、ということです。もしもみんなが晴れよりも雨のほうが好きだったら、雨降りのことを「天気がいい」と言うはずでしょう。「晴れてるほうがいい」「雨のほうが悪い」というのが善悪……、善と悪としてしまうと、ちょっと変です。漢字では「好い」と書きますし。英語ならgoodで困りませんけど。
従って、もしある時、ある人にとって、雨のほうが好都合だったら、その人は「私にとっては雨のほうがいい」と言えるはずですから、「私は天気が悪いほうがいい」とか「明日は天気が悪いといいな」と言って全然おかしくないですね。一般的に悪いことが自分にとって都合がいいなんてことはよくあることで、その時にその雨が本当に悪いのかどうかを問うのは、無意味と言えるでしょう。いい・悪いは価値評価ですから、その価値を享受する主体から切り離すことはできない、ということになります。誰がそれによって利益を受け、誰が害悪を受けるのか。
変な話ですが、ここに自分にとって雨のほうが好都合な人がいて、その人は超能力者で、雨を降らせる力があったとします。で、その人は超能力を使って大雨を降らせ、天気を悪くした。自分にとっては好都合ですが、でも、多くの人の気分を害したかもしれません。では、その人はいいことをしたのでしょうか、悪いことをしたのでしょうか。単純に考えるとどっちとも言えなくて、その人にとってはいいことだけど、他の多くの人たちにとっては悪いこと。まぁ、大して悪いことじゃないですけど。
非常に些細な形ではありますが、この時に道徳的な善悪の萌芽が、もうすでに表れているだろうと考えることができます。つまりその人は、自分にとっていいことだから雨を降らせました。そうでなければ、その人が雨を降らせたりする理由なんか、ない。だがその人は、雨を降らせたことで多くの人に迷惑をかけた。となると、道徳的な意味では悪いことをした、と言うことができます。この場合、道徳的に悪いことが自分にとってはいいことだった、ということになります。しかし、一般的にそう言えるのでしょうか?

善悪は反転する

ここで、「道徳的に悪いことは自分にとっていいことになるだろうか?」という問いを立ててみます。ちょっと問題提起的なテーゼを出したいので、この問いをイエスと考えてみたい。つまり「道徳的に悪いことは必ず自分にとっていいことだ」と。ここに「必ず」をつけることで論理的にそうである、そうでない場合はない、と考えたいと思います。
ところで、今ここで私が哲学を代表してしゃべっていると思われると困るんですけど、こういう考え方をする人はほとんど誰もいません。私だけです。哲学の祖であるソクラテスもプラトンも、まさにこのことを否定しています。従ってこの意見は極めて独自な意見です。
しかしこのことは、非常に重要で本質的なことで、そのことこそがまさに、道徳的価値と道徳以外の価値の根本的な違いです。それはつまり、道徳的価値には善悪の反転という機構が備わっている、ということです。従って善悪ということを考える場合には、その反転の可能性を考慮に入れる必要があると思われます。
先ほどこれは少数意見だと言いましたが、ホントは、ホッブスもベンサムも、ニーチェだって、誰もが暗に価値の逆転を認めていることでもあります。
ある種族の言語では、goodは「満腹、あるいは食糧の個人的所有」を意味します。その社会では、飢えた人から食糧を奪って食べてしまうことも、いいこととされている。いい人はお腹がいっぱいの人。こういう観測が得られた場合、重要な問題は、その種族が飢えた人から食糧を奪うことを禁じる掟を持ったとき、その掟を破る行為を、「腹が減っている」と同じ言葉を使って表すかどうか、です。この両者を、否定するという意味で「悪」を意味する言葉を使うかどうか。しかし、その両者はある意味では逆なんですね。一方はお腹がいっぱいになりますし、もう一方はお腹が空いている状態ですから。この2つを同じ言葉で呼び、それを悪と評価するかどうか、です。

利己主義と利今主義

雨に話を戻します。雨を降らせる超能力を持った人が雨を降らせたとき、それはその時の自分にとって好都合だっただけで、後々自分の首を絞めることになる可能性はあります。もしその人がそのことに気づいていたなら、現在の自分の利益でしかないわけです。このことを私は利今主義と言ってますが、利己主義と利今主義は通常の場合、仲がいい。そして、犯罪に対する処罰は、利己主義者が利今主義者であることを前提に、他者に対して悪いこと、道徳的な悪を犯すと、その人の将来に害悪を与えるということによって、犯罪を抑止したり罰したりするわけです。
ただし、もしも利己主義者が完璧な利今主義的であったら、そのことによる犯罪の抑止効果はまったく期待できません。でも、どんなに利己的な人でも大抵の場合、将来のことを考えて自分の中での利益の配分をしたりするものです。もし利今主義を徹底した人がいたら、刑罰はその人を動かす力にはならないけれど、幸いにしてほとんどの場合、そうではない。
ここで、2つの区別が成り立つことになります。他人にとっていいことと悪いこと、自分にとってのいいことと悪いこと、その対立と同一性ですね。もう一つは、全体的・長期的に見た自分にとっていいこと・悪いこと、現在の自分にとってのいいこと・悪いこと。一般的に見て、道徳的に悪いとされるのは、他人にとって悪いことであり、かつ少なくともその時の自分にとっていいことになります。逆に道徳的にいいとされるのは、他人にとっていいことであり、かつその時の自分にとって悪いこと。別に自分にとって悪いことじゃなくてもいいんですが、自分にとっていいことは自然になされますから、道徳的な評価をして、いいと言ってあげる必要はないんです。
では、全体的・長期的に見た場合はどうか。これは定義に入ってこなかったことでも分かるように、場合によって異る、ということになります。

道徳的善悪の正体

これまで話してきた中で「他人にとって」ということが重要になってきたわけですが、他人、つまり自分じゃない人というのは、一種類ではありません。
たとえば先ほどの雨の話に関して、他人を形式的に3つに分類することができます。自分と何らかの意味で友好的な関係を持っている他人、自分と何らかの意味で敵対的な関係を持っている他人、そのどちらでもない赤の他人、の3分類です。ここでは、友好的な他人にとって悪いことは自分にとっても悪いことであり、敵対関係の他人にとって悪いことは自分にとっていいこと、となります。この場合のいい・悪いは、道徳外的価値判断です。ですから、道徳が成立してしまうと、今の話は逆になりますから。今の発言は、道徳的に評価すれば悪い発言です(笑)。
しかし雨の例では、自分以外の人のことが赤の他人と想定されていました。つまり、自分に好都合なことをすると、たまたま無関係な他人に迷惑をかけることになってしまう。世の中の悪で言えば、窃盗などがそれに当てはまります。
その相手が被る不利益と独立に、自分の利益はそもそも存在しないわけです。自分と友好的、もしくは対立的な他人という場合、その規定自体の中に自分との関係が入ってしまっています。ですから、自分の利害というのはそれ自体としてはあらためて登場する必要がない、「敵対的である」で十分なわけです。雨を降らせるのが自分と友好的な関係の人のためであっても、他の人に多大な迷惑をかけるならば、親切な行為だけれど道徳的に悪い、と言うことができます。この仕組みを前提にさまざまな倫理学説はできています。つまり道徳的善悪というのは、自分と同じ種類の他のものがいるということを認めることによって、作り上げるわけです。
私の考えでは、これは人間が言語を持つことと大きな関係があると思います。私が私自身のことを語るとき、「私」という言葉で語りますが、他の人も「私」で語ることができます。時制における「今」もそうです。いつの時にも「今」がある。時制と人称を持った言語によって世界を把握している時点ですでに、道徳的世界観の第一歩になっていると思うわけです。


対論:永井均×下條信輔

下條 ありがとうございました。まず、最後の言語の問題が少し言葉足らずだったので、補足していただけますか。
永井 結論を言ってしまうと、道徳的悪は言語にはそぐわないんですね。哲学にはとんでもない説の人がいっぱいいるわけです。バークリーなんて「存在は知覚である」って言い切ってますから。それはつまり、知覚されてないときにはものはないってわけです。ある意味ばかげた主張ですよね、ある意味ではまったくその通りかもしれませんけど。その割に倫理学説になると、そうでもないんですね。「どんどん悪いことをしましょう、悪いことこそホントはいいことなんだ」とか言う人がもっといたらいいと思うんです。たとえばさっきのバークリーのような認識論上の懐疑論が起点になって、いろんな議論が始まっているわけですから、極端なことを言う人は大切なんですね。
ではなぜ倫理学説に極論を言う人がいないかというと、ポイントは多分、言語で語ろうとすること、そこに矛盾があるんだと気づきました。それはニーチェもそうだろうと思います。ニーチェはエゴイズムが善だと唱えたわけですが、それはつまり、自分の利益を最大にしましょう、他の人はどうでもいい、ということです。しかし、エゴイズムを説くということは、私自身にとっては不利益になるんです。本当のエゴイストならば、他者一般にエゴイズムを説いてはいけないんですね。
下條 では、今日のお話の根元について質問させてください。非常におもしろかったのですが、今日のお話の永井さんの目的というのは何ですか?
永井 それはただ事実がそうである、というだけです。善悪ということに関しては、対立する2つの意味があって、そこからどうやって道徳的価値をつくり出すかということこそが、われわれにとってのポイントであろうということです。
下條 公共の言語を語ることで、語り手はすでに道徳的世界観に足を踏み入れている、という部分をご説明ください。
永井 言語というのは単純な仕組みになっていて、世界にたくさんあるものを、抽象的なものさえも、言語は捉えてしまうわけです。われわれが言語における時制や人称、様相といった仕組みを理解する時点で、他の人の立場に立ったり他の時点の立場に立つことをすでに含んでいて、それをできない限りは言語を習得できません。ですから、われわれが言語をしゃべっているといことは、ミニマムな道徳を身につけていることなんです。
下條 なるほど。ありがとうございました。


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