中谷です。私は精神医学が専門で、特に司法精神医学、法律問題と精神障害の関わりについて研究しています。メインの仕事は精神鑑定ということになります。その精神鑑定の中で日頃から考えている内容を、お話ししたいと思います。
まず精神鑑定について簡単に説明します。この仕事の多くは、責任能力の有無の判定に関するものです。具体的には被告人が精神障害、つまり心の病気によって、心神喪失もしくは心神耗弱の状態になったかどうかを診断するわけです。心神喪失とは、精神障害によって是非善悪を理解し自分の行動をコントロールすることができない状態を指します。心神耗弱はその著しく減退した状態です。具体的なやり方は、訴訟記録を読み、本人や家族などにインタビューをし、心理検査をします。そうしたデータを基に推論を立て鑑定書を作成します。大雑把ですがこんな仕事です。(*1)
「邪悪な人間」の系譜。
では本日の本題に入りたいと思います。
「いつ、誰が、犯罪者になるのか」。まず最初にお断りしておきたいのは、精神障害と悪とは別の次元の問題だ、ということです。逆に精神的に健康であることが善であるわけでもありません。
さて、「凶悪犯は凶悪か?」。私は、新聞で大きく報道されるような事件について、被告人の精神鑑定を依頼されることがしばしばあります。報道を読むと、いかにも凶悪犯なわけですが、実際に被告人と面と向かって話をすると、全然違う場合が少なくないのです。その場合、私の先入観が間違っているわけです。
ではなぜ、そういうイメージを持ってしまうのか。そこには「邪悪な人間」という考え方が潜んでいます。英語ではEVIL。こういう人を放っておくと、人間社会にとって大変なことになるぞという考え方です。19世紀にいくつかそういう考え方が生まれました。(*2)
生まれつきの犯罪者という概念を作ったのは、犯罪人類学の創始者であるロンブローゾです。彼は、犯罪者の中核には生まれつきの犯罪者タイプがあり、一定の変質徴候が現れていると想定しました。たとえば頭の形が平たい、あごが出ているなどの徴候を持った人を先祖返りだとして、生まれつきの犯罪者と定義したわけです。19世紀に発達した似たような概念には、フランスのマニャンが説いた「変質」やイギリスのモラル・インサニティがあります。(*3)
これら3つはいずれも歴史上の言葉です。では、この系譜が現代にどう繋がっているのか。それがサイコパス、サイコパシーということになります。もともとドイツ精神医学で、現代の人格障害に近い医学的概念として作られた言葉ですが、アメリカに渡り、独特の考え方。刑事捜査などに関係する言葉として使われています。(*4)
この言葉を最初に取り上げたのは、精神病院の臨床医クレックリーです。彼はサイコパスの特長を、知能は良好、チャーミング、妄想はないが、自己中心的、経験から学習できないというように、二面性があると記述しています。その概念は、カナダの心理学者ロバート・ヘアによって飛躍的な発展を遂げます。ヘアが開発したサイコパシー・チェックリストは現在、世界的に広まっています。ヘアは、そのリストを使って膨大な調査を行い、少なくとも北米で200万人、ニューヨーク州だけでも10万人のサイコパスがいると推計しました。そして緊急課題として、コミュニティに潜んでいるサイコパス、危険な人がいればあぶり出すべきだと主張しています。その考え方は実は、社会にはEVILな人たちを断ち切る義務があるという100年前のマニャンの主張とそっくりなんです。これは、「邪悪な人間の系譜」という考え方が現代にも続いている証拠であろうと言えます。(*5)
人は誰でも邪悪になれる?
ここで視点をひっくり返して、人は誰でも邪悪になれるのではないか、を考えてみたいと思います。手がかりになるのは心理実験、エール大学での有名な実験があります。良心に反する命令をされたとき人はどこまで従うか、という実験です。具体的には教師役と生徒役がいて、教師役が被験者です。生徒役の手首に電流が通じるようにして、教師役の人に、生徒が問題を間違えたら、スイッチを入れて電流を流しなさいという命令を与えます。実際は電流は流れないのですが、教師役の被験者はそれを知りません。生徒役は苦痛の演技をするわけです。で、間違えるごとに次第に電流が強くなり、生徒の苦痛の演技も大袈裟になっていく。教師役は当然葛藤を抱くけれど、最終的にはかなり多くの被験者が、最高レベルのショック水準まで命令に従って上げたという実験結果が出ているんですね。他にも、映画『es』のモデルになった、スタンフォード大学での実験もあります。(*6)
2つの心理実験によって、もともと攻撃的だったり冷酷だったりしない人も、一定の状況に置かれると、権威に服従する傾向、責任放棄、状況の圧力に屈する、役割に同化して非人間になる、という結果が出たわけです。
そんな傾向が実験でなく起きてしまうのが、強制収容所などの極限状況と言うことができます。それを描いたのが、ナチスの強制収容所での囚人体験をもとにしたフランクルの『夜と霧』です。収容者よりも彼らを管理する側に注目すると、有能な官吏といわれたアイヒマンが冷酷無惨なガス室送りを続けたのは、特異な状況の中で彼もまた非人間化した、と言えるのかもしれません。フランクルは、「異常な状況においては異常な反応こそが正常なのだ」といっています。(*7)
最近経験したある鑑定事例ですが、共犯の男性と一緒に何人かを殺害した女性です。共犯の男性の長年にわたるドメスティック・バイオレンスによって、心理的支配を受けるようになったと主張したのですが、裁判官はなかなか認めない。合理的判断がなし得たはずだと言うのです。でも人間はいつも合理的な判断で行動しているかというと、決してそんなことはありません。ちょっと背中を押されれば、自分でも思いもよらぬ行動をとったりするのです。
まとめです。性善説と性悪説、どちらが正しいかは一概には言い切れない。ただ人には、特別なカテゴリーを作ることで自分はそうでないと思いたい気持ちがあるわけです。発想を変えて我らのうちなるサイコパスについて考えることも大事ではないでしょうか。(*8)
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