リアクション・レクチャー
「Reアクション」

下條信輔(本プロジェクト監修/知覚心理学者)


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「退屈でくだらないと思えることの中に感受性にアピールするモノがある」とか「直感は信じない」とか、ある意味矛盾する表現だし、「矛盾はつきもの」とか「相反するモノの共生」とか、その微妙に矛盾する表現の中に何かヒントがあるのかなと思います。脳の中の情報処理を見ても、矛盾するとは言わないけれど、違う場所が違う情報処理をしていて、それを統合する必要性がある場面は多いし、分析的思考と情動が矛盾する場面はざらにあるんです。
では、CMがなぜ面白いかという話です。1つには情動の喚起力ということがあります。短い時間でどれだけ見る人の情動を喚起するか。考えてみると、人間の好き嫌いは新奇性と親近性の間で揺れ動いているように見えます。人気商品は新奇性と親近性の組み合わせのように見えます。赤ちゃんは飽きっぽいので新奇なものを選択しますが、触覚で経験させてから視覚で選ばせると親近性のあるものを選びます。CMは同じものを何回も見せるわけです。CMが持っている短期的な情動的インパクトと記憶に関わる長期的効果の両方に問題の本質がある気がして、そこに興味があります。
2つめの興味として、決断はどこで起きるのか。歴史的に見ると好きというよりも魅力という表現で問題化され、古典的な心理学では、対象の属性として魅力が存在するという見方が有力でした。黄金分割がそのいい例なのですが、顔や車のデザイン、幾何学図形など、それらの属性として魅力が存在しているという見方です。ですから品物を別の場所に移せば、その属性も一緒についてくると考えられてきたわけです。ところがこのアプローチはほとんどうまくいかなかった。
次に何が出てきたかというと、観察者の側の美的基準が大事なのではないかという考え方。これを認知科学の専門用語で言うと、魅力度テンプレートというものが脳の記憶のメカニズムの中にあるんじゃないか。例えば顔について言えば、魅力的な顔の基準が脳内にあって、目から入ってきた顔の視覚情報がその基準に合うと魅力的と判断される。これは間違ってはいないと思う。アジアの人とヨーロッパの人とでは美的基準が違うかもしれないが、それは脳内にストアされている魅力度テンプレートが違うからだという解釈です。しかしこれもうまくいかないところがある。観察者が動き回るとテンプレートもくっついていくはずですけど、観察者の好き嫌いは案外、状況によってコロコロ変わるわけです。周りの人や状況によって変化してしまう。
一方、認知哲学者たちは状況や文脈が大事だということを言っていて、たしかに同じ観察者同じ対象であっても周りの人や状況が変われば、ある時はスポーツカーを選びある時はセダンを選ぶというようなことは当たり前のように起こりえるわけです。しかし、状況や文脈が大事だというだけでは、研究と解析の指針にならない。
そこで私たちは最近、対象と観察者の頭の中にあるプロセスが能動的にリンクするところに「好き」ということの本質があるのではないかと考えています。もっと具体的に言えば、体がそちらに向かうことが先にあって、後から好きだと自覚するのではないか。さらに言うと、体が先に好きになって、その行為を脳の別の場所が解釈して、その結果、好きという自己認知につながるのではないか。こういうフレームワークの下で少しディスカッションしてみたらどうだろうか、というのが私の提案です。


対論「意志決定はイリュージョンか?」:下條信輔×タナカノリユキ

下條 今度はどこに座りますか?
タナカ どこにしましょう。下條さんは?
下條 僕はどうしても、一度これに座りたくて(笑)。
タナカ じゃあ、籐同士にしますか。こういうのは普段あんまり座らないですよね。でも下條さん似合いますね(笑)。
下條 似合う(笑)? 王様みたな?
タナカ インドとかそっちのほうの(笑)。
下條 ハハハッ、じゃあ始めましょう。今日はここまで、研究者サイドへの感想を訊いてなかったんだけど、いかがですか?
タナカ 僕はこれまでだいぶトレーニングを重ねてきているから、いやが上にも決めなくちゃならない状況というのにも慣れているんですよ。ただ坂井さんの定食が決められないみたいな話から始まって、判断に迷うことは今でもしょっちゅうあるんですね。僕の場合は、よくないものはすぐ判断できるんですけど、いい状況の時に迷いがちなんですよ。さっき下條さんが言った新奇性と親近性で言うと、新奇性の高いものの方が判断が利かない。
下條 よくない時はすぐ決められて、いい時はけっこう迷って長い時間をかけた挙げ句にいいとなると?
タナカ ほどほどにいいものはすぐ決められるんですけどね。迷うのは、これ、いいか悪いか分からないけど、もしかするとすごく新しいかな、という時ですね。
下條 それはちょっと飛躍するけど、さっきもちょっと言ったように、タナカノリユキの80の指針の中に矛盾する表現があるということと、一部関係があるのかな? つまり退屈でくだらないと思えること中に感受性があるとか、直感を信じないとかね、そういうことと関係してるのかしら?
タナカ そうですね。だからさっきの言葉で言うと、やったことのないことにチャレンジしてみるみたいなことで、それを選択してやってみるとするじゃないですか。そしてその結果が人目に晒された時に、自分ではいいか悪いかが分からないところがあるんだけど、あれすごいねとか言われたりすると、あ、やっぱりあれでよかったんだよねって、やっとそこで判断が利くことがあるんです。その意味では、意外に人に決められてるんじゃないかって気もするんですけどね。
下條 ああ、なるほどね。そうすると、もともとは単独でやってたのが共同作業をするようになって自由が減ったかと言うと、さっき入れ子構造ってすごい深いことを言ってたけれど、そのことによって逆に自由が増えるというか、増えるとまでは言えないまでも、自分が止まっちゃってた地点から無理矢理押し出されるみたいなことで、何か新しい展開が見えるということもあるんでしょうかね。
タナカ 可能性はあるでしょうね。

集団性と身体性
下條 集団性ともう一つ、大きく言うと逆方向があって、それが身体だと思うんですよ。つまり自分で決めてるような気がしてるけど、体が決めちゃったのかなとか、気がついたらこっちを選んでたとかね。それはどういうことかというと、何かボールのやり取りみたいなことがあって、壁にボールをぶつけたら意外な方向に戻ってきたりして、そういうことの中で決まっていく。一般的に近代市民社会で言われている自我というのは、個人の意識される心の領域に限定されているけれども、無意識的な部分というのが2つあって、1つは身体性で、1つは集団性、つまりカルチャーとして共通して持っているものとかです。そういうものが、近代的自我との間でキャッチボールをしていると考えると、何が起こっているか分かるような気がするんです。
タナカ さっきの話でいくと、新奇性は無意識に入るということですか?
下條 いや、むしろ逆ですね。親近性を持つものを好きになる場合には、見覚えがあるという自覚がなくても好きになる、ということが様々な研究から知られているわけです。つまり親近性は、意識に上らないところで利いている可能性がある。一方、新規性のほうは、目立ちやすさのメカニズムは無自覚的に起こるんだけれど、珍しいものがあるぞと気がつくことが不可欠だと思うんです。だから魅力のメカニズムは、新奇性と親近性という2つの原因と、顕在認知過程と潜在認知過程という2つの状態との組み合わせで、形成されているのではないかと思っているんです。
タナカ 自分の経験で言うと、新奇性と親近性ってビジュアルコミュニケーションにとってすごい重要なんですね。新奇性が高すぎるとよく分からないと言われやすくて、新奇性が60%を超えちゃうと無理、みたいなことがあるわけです。一般的には多分、新奇性3割、親近性7割ぐらいがいい感じみたいなんですね。でも自分としては5対5ぐらいが好きだったりして、人に分かんないって言われることがあるんですよ。
下條 それは情動の喚起ということにも関係していて、きっともう1回キャッチボールがあるんですよ。新奇だということは見覚えがないものですから、ラベルが貼りにくい。言葉で表現しにくい。それが情動を喚起するんじゃないかな。逆にこれは何々だって名付けちゃうと、感受性がどっかに行っちゃうとか情動的な喚起力がなくなる、みたいなことをさっきタナカさんが言ってたでしょ。そういうことに関係があるんだろうと思います。
タナカ その新奇性がどこからやってくるかということについて僕が思ったのは、無意識的なことから来るのかなって気がしてたんですよ。
下條 メカニズムとしては、それはそうなんですよ。つまり新奇なものに目がいくのは、無意識的な注意の課程があって、これまで経験してきた刺激によって、その目立ちやすさが決まるわけです。ここまでは潜在的。でも一番目立つものが決まると、それが他を抑えて、例えば視野の中である赤いイスだけがポンと目立って目に飛び込んでくる。その目に飛び込んできた瞬間には、もうそれは意識できるわけです。ですから出口かプロセスかという問題だと思います。ただその間でキャッチボールが行われているという感じを、今の話を聞いていて受けましたけどね。
タナカ なるほどね。ただ、判断って脳の中にある能力という感じがするんですよ。で、決断というと、最終的に体を通さないと決断にならない気がしてるんです。その辺はどうなんでしょうね。
下條 これは、あれだな。宿題(笑)。この後の総括討論で先生方に聞きましょう。で、今の話で思い出したことを1つだけ。判断と決断と身体性の関係についての話です。決断とか判断ということ自体とは違うんだけれども、能動性ってことにこだわってみると、反射的なものというのは果たして能動的なのかと。合目的ということで言えば、条件反射も合目的的なわけですよ。ではその時に、脳が必要なのか体が必要なのかという極端な研究があるんです。
神経科学の歴史の中には、「プリューガーの断頭蛙」とか「ゴルツの除脳犬」というのがよく出てきます。ゴルツの除脳犬というのはよく誇張して紹介されるんだけど、犬というのは大脳皮質を取っちゃっても、普通に振る舞えるんです。日なたの縁側に歩いていって昼寝をしたり、人が来ると尻尾を振ったり、蹴飛ばすと飛び起きて吠えたり。もちろん詳しく観察すると大脳がある犬とは違うんですが、相当のことができるわけです。
断頭蛙というのは、ちょっと生々しい話で恐縮ですが、頭を切断しちゃった蛙です。背中に酸みたいな刺激を垂らすと、背中の右側に垂らせば右脚で掻くのが普通なんですね。左側なら左脚でこする。ところが右脚を押さえておいて、背中の右側に刺激を与えるとどうなるか。頭のついている蛙の場合は、しばらくもぞもぞしてから左脚で無理矢理背中の右側を掻く。これは蛙の生涯の中で一度もやったことのない行為なわけです。だから発明したわけ。で、頭を切った断頭蛙だとどうなるか。いくらなんでもそれは無理だろうと思っていたら、けっこうできちゃうんですよ。少し反応が遅くなったり、不正確になったりはするけど、左脚で背中の右側を掻けるんです。
そうすると、これは意図的行為なのかという疑問が生じますよね。もし仮に意思を持った行為だとすると、意思を持った行為に脳は必要ないってことになってしまう。ということは、決断はどこでなされるかという時に、脳が決断してるというのは相当無茶な話になるんですよ。脳と身体がやってる、あるいは脳と身体と環境がやっているとまで言わなければならないかもしれない。
タナカさんが現場に入っている時に、雨が降るとかさまざまなアクシデントがあるわけじゃないですか。その時にそれが身体的なものとして伏線になったり内的信号になったりして、外部情報と相まって、いろんなことがある方向に転がっていく、という印象があるんです。先ほどのタナカさんが紹介した指針の中でも、いくつかの言葉はまさにそのことを言ってるという感じがありました。一方ではあたかも山のてっぺんから転がっていく雪玉のような体と脳を、意図的に無理矢理止めてしまうことが方法論であったりとかね。
タナカ 自分でやったことがすべていい形で作用するとは限らないわけで、すごい批判を浴びたり、考えていたことと真逆な方向に出ちゃったり、いろんなことが起きるわけです。その時というのは、頭の中で学習しているというよりは体で学習している感覚に近いんです。僕らの仕事で言うと、ひどいものを作ってしまうと作家生命が終わるみたいなこともあったりするわけで、自分の社会的生命に関わるということは身体的かなって気がします。

経験値とクリエイティヴ
下條 さっきの指針の中に「思いついたことは全部やってみる」というのがあったでしょ。頭で考えたり机上でシミュレーションするのではなくて、実際にやってみるのは何でいいのかを考えてみる。もしもすべての決断を頭の中でやっているとすると、実際にやってみることと考えるだけでやらないことに差はないはずなんですよ。
では何が違うのかというと、やってみることで一度ボールを向こうに投げて、自分がいる場所から違う場所に移って視点が変わることが大きいんじゃないかと思うんです。
タナカ 思いついたことを全部やってみることってすごい時間もかかるし、労力も膨大なんですよ。で、最終的には1つしか選ばれないわけですしね。でもそこで捨てた99が、実はある種の経験値としてストックされるってことはあると思うんですよ。例えば今日のイスの配置を決める時も、イスを1つ動かすことで、僕の頭の中では20パターンぐらいが見えてるんだと思う。それはそういった経験値が可能にしてくれるわけで。
下條 選択肢が見えていることが重要だということですね。つまり、選択肢が多いほど主観的自由が増しているんだと思う。選択肢は、それを選んだらどういう結果になるか予測がつくわけでね。でもタナカさんがいつも言ってたことで、ハプニングやアクシデントが大事っていうのがあるでしょ。デッサンをやってて間違ってインクを零しちゃったら、その時にアッと思うことがあるとか。その辺の感覚はどうですか?
タナカ 自分で読めてしまうと意欲がなくなるというか、全然見たことがないものを見たいという欲求が強くなるんですね。
だからいいものができるということで言うと、技術的によくできていてクオリティも高くきれいに作れるといいっていうのが通常なんですけど、僕はそれは当たり前にしたいんですね。それは技術者の評価であって、僕はその前提の上に、自分が予想もつかないものを採り入れて、どう化けさせるかって部分が重要なんですよ。
下條 どう化けていくかということは、すでに定型は確立され認識されているからですよね。作り手も受け手も。そうすると、親近性と新奇性の話に帰って行くわけで、親近性の中から新奇性が出てきた時にクリエイティヴに繋がるという言い方ができるかもしれませんね。
タナカ そうですね。あと、選ぶということで自由が広がることもあるかと思うんですが、下條さんにも訊いてみたかったんですけど、選ぶと言われてるものって、経験を通して分かったものとして選んだものと、どうしても引っかかって選んだものとで違いがあるんじゃないかと思うんですけど。
下條 今の話の続きもやりたいんですが、そろそろ総括討論に入らないと。いろいろ見てくると、どっかで化けるとか突き抜けるとか、そういうことがクリエイティヴに繋がると。それを誰がどこでやってるかという問題もあるし、何がきっかけになってるかということもあるように思います。これまでの記憶と化けること、そして新奇性と親近性の問題というのを1つのキーワードとして、総括討論に繋げたいと思います。


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