基本レクチャー03
「意志決定のメカニズム」

下條信輔(カリフォルニア工科大学教授、ERATO下條潜在脳機能プロジェクト、
知覚心理学、認知脳科学、認知発達学)


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今日ここでは、科学や世の中が進歩していった時、私たちの自由は消えてしまうのか、という不安に応えようと思います。そしてそこに能動性の問題が出てきます。
よくあるのは、心の神経科学的解明が進むとすべてが因果的に説明されてしまうので、自由意思がどこかへ行ってしまうのではないか、という観念的な考え方です。ドラッグ、コマーシャル、政治上のプロパガンダなど、心の制御が進んでいるという状況もあると思います。また、意思決定のメカニズムが複雑化していることもあります。例えば映画製作の現場では一体何人がどこで意思決定しているのかと考えると、非常に複雑です。そう考えていくと、我々が自由だと感じる感覚が近い将来、失われてしまうのではないでしょうか。その時我々は何を感じ責任と罪はどうなるのか、を追求してみたいと思います。
まず歴史を振り返ってみましょう。人間機械論の系譜があります。ハーベイの「血液循環論」は思想史上、人間の神秘性に打撃を与えた最初だと言われています。デカルトの「生命機械論」は、動物はぜんまい仕掛けの自動機械だと看破しました。それを人間に当てはめたのがラ・メトリの「人間機械論」です。歴史が飛びますが、サイエンスの分野ではロバート・ウィナーのサイバネティクスが、よりモダンな機械論として有名です。そしてまた、「人間機械論」にはメタファーの意味もあって、最近ではオートマタが注目されています。オートマタの歴史をたどれば、ケンペルスのチェス人形(*1)があります。この自動人形はチェスの名手たち相手に連戦連勝したのですが、中を開けてみたらチェスの名人が入っていたというオチまでついた人形です。ただここで言いたいことは、たとえインチキであれ、そういう自動人形を夢想した人がいたということです。人造人間という文脈ではもちろん、フランケンシュタインはじめいろいろいます。これらもメタファーとしての人造人間、人間機械のイメージの構成に貢献してると言えるでしょう。また、かの発明王トーマス・エジソンもオートマタに駆られた1人でした。彼はロウのシリンダーを使った蓄音機を胴体に埋め込んだしゃべる人形(*2)を発売したのですが、まったく売れず、数ヶ月で製造中止になったそうです。

行為と運動の違い
さて行為と自由意思の問題を考える時に、まず押さえるべきは行為と運動の区別です。「私が手を挙げる」から「私の手が上がる」を差し引いたら何が残るかと問うたのは、哲学者ヴィトゲンシュタインです。彼は何も残らないという立場で言語ゲームを展開しましたが、これに対して行為論の哲学者アンスコムは、行為が残ると言いました。では行為とは何か。「行為とは物質的な因果関係としての原因ではなく、理由を問える動作のこと」とは、彼女の定義です。行為に対する学問的アプローチは他にも、現代行為論のデイヴィッドソンによる心的因果論、心理学の洞察学習や認知科学の意思決定、統計数学のベイズ推論など様々あります。
この図(*3)は、顔の選考判断に先立つ事象関連電位図です。左上の角だけ赤くなっているのは、前頭葉の左側に強い神経活動が認められることを意味します。ここから、顔の好き嫌いを判断する時に前頭葉が重要だと分かります。また、被験者が自発的に行為をする場合と刺激によって手を動かされる場合とで何が違うかを研究すると、複雑なネットワークが脳全体に張り巡らされていて(*4)、少しずつ違う役目を負いながら繋がっていることが分かります。
さてここで私は、「これらを含めた科学的アプローチは共通して、行為もしくは自発的意志決定を受動的メカニズムで説明しているのではないか、しかし自由意思の本質は能動性ではないか」という暴言を吐きたいと思います。
例えば神経科学では、心的機能の責任メカニズムをたどることができれば、1つの理解に繋がると考えます。記憶の座がどうやって見つけられたかというと、壊れると健忘症になり刺激すると記憶が甦ることから、海馬が記憶に関係すると分かったわけです。その責任メカニズムを担う部位を「中枢」と名付けます。仮に脳内のどこかに自由意思による行為の中枢が見つかったとすると、定義上そこを刺激すれば自由意思による行為が発現しなければなりません。しかし実験者が施した刺激によってなされた行為は、被験者の自由意思ではありません。私はこのことを「中枢のジレンマ」と呼んでいます。もう1つ、ある神経信号がある閾値に達すると、シグナルが出て行為が起こるという考え方があります。でもこれもやはり行為を受け身に解釈している気がします。私はこれを「閾値のジレンマ」と呼んでいます。このように、自由意思に基づく行為についての科学的な説明は、基本的に受動的にならざるを得ないのではないか、という疑念があります。
ここで私が提案したいのは、自由意思と呼ばれているモノの正体を現象学的によく見れば、自由意思は相当隙だらけであると認識できるはずである、ということです。
なぜなら第1に、自由意思は定義に依存しています。「パブロフの犬」のような反射的行動は、自由意思による行為とは呼びません。心理学者ソーンダイクのネコは、檻に閉じこめられたネコが紐を引くことで逃げられる実験です。これはあたかも意思決定のように見えますが、ネコが解決にかかる時間をプロットすると少しずつ短くなるだけです。これが人間なら、紐を引く行為に気づけばそれ以降はサッサと出られるはずです。ネコとヒトでは明らかに違うことが起きていることになります。このように見ていくと、境界線を引くことは困難です。
第2に、自由意思は記述に依存します。例えば腕を上下に動かしてポンプからタンクに飲み水を汲んでいるヒトがいるとします。単に腕を上下に動かしているだけでは行為とは呼べないでしょう。しかし人々の乾きを癒そうとしているなら、つまり目的があればそれは行為です。ということは、同じ動作でも記述によって自由意思による行為になったりならなかったりするわけです。
第3に、自由意思は知識に依存します。骨をくわえて歩いている犬を見たら誰もが、どこかで食べようとしているとか隠そうとしているとか行為として解釈します。では尻尾に木切れが挟まっていたらどうでしょう。これは偶然挟まっただけだと解釈するはずです。ではもし、尻尾でものを挟んで運ぶ動物がいたらどうでしょう。つまり観る側の認知によって、自由意思による行為になったりならなかったりするのです。
第4に、自由意思は欲望に依存します。これは私がでっち上げたグラフ(*5)ですが、主観的に経験される自由は、欲望に対してこんな曲線を描くのではないでしょうか。欲望が強すぎると中毒状態に陥りますが、中毒者の行為、例えば面白い話をしているのにタバコが切れたからといって席を立つ行為は、自由意思による行為には見えません。一方、鬱のひどいヒトは何もしたくないと言います。ある意味いくらでも自由が与えられているはずなのに、本人は不自由だと感じているわけです。
第5に、自由意思は時間に依存します。今年の日本では相応しくない例ですが、山道で熊に遭遇し闇雲に走って人里に逃げ帰り、ひと心地ついたところでドッと恐怖が襲ってきた。恐怖を覚えたのはいつでしょう?反射的に行動した瞬間ではないし、反射的行為のために先立って恐怖があるわけでもなさそうです。多くの場合、恐怖は後付けで感じるようです。となると自由意思も、後付けで帰属される可能性があります。
このように見てくると、自由意思は現象としては疑いの余地がないように見えますが、案外捉えにくい存在と言えそうです。
ちょっと別の角度から話をします。筧、別名鹿威しを見て行為や意思を感じる人はいないでしょう。で、さっきから私の目の前に置いてあるコレ、水飲み鳥(*6)です。これも筧と同じと言う人がほとんどだと思いますが、もし誰かがこの鳥は全部細胞でできていて喉が渇くと水を飲むと言い、それを信じるに足る証拠を示したらどうでしょう? 先ほどから自由意思には能動性が不可欠だと言ってきましたが、では能動性を認知するのは何かというと、一般的には生命体であることでしょう。しかし人工物であっても、そこに生命性が認知されたとするなら自由意思が知覚されてもいいのではないか、と私は考えます。

自由意思の正体
まとめです。自由意思はよく運動系の絡みで議論されますが、運動の問題というよりは知覚、認知の問題ではないかということです。知覚対象がそもそも実在するかと考えると、少なくとも知覚の経験自体は実在しています。同じく自由意思も実在するかと言われた時に、自由意思として経験されたものは実在するという言い方ができると思います。この点でもイリュージョンや知覚の経験と似ています。もうひと言言っておくと、他人の場合は知覚が経験されるわけではなくて、経験が知覚されるわけです。同じことが自由意思についても言えます。
唐突ですが、この状況は網膜像の倒立に似ているのではないでしょうか。天文学者ケプラーは「網膜像は倒立しているのに、知覚像はなぜ正立しているのか」と問いました。しかし考えてみると、自分の視点から見て世界が正立しているのは確かですが、網膜像が倒立していると言うためには他人の視点が必要です。つまり2つの視点から見ているのだから、違っていても不思議ではないのです。自由意思にも同種の混乱があって、他人の視点から見た場合、自由意思かどうかは人間らしいかを見る側が判断します。一方自分の視点に立つと、それは自分の経験ですから誰がなんと言おうと自由だと思えば自由なわけです。ですから、科学の言説はあくまでも他人の視点であるという認識を持つ必要があるのです。
ある絵画ファンが印象派の色彩感覚を楽しむことを無上の喜びにしていたとします。そして仮に今、色知覚の神経生理メカニズムが完全に解明されたとします。これによって絵画ファンの主観的経験そのものが消えてなくなるということがあるだろうか、という問いを立てるとすると、ほとんどのヒトがノーと答えるはずです。同様に自由意思の場合も、自由意思が知覚と認知の様式だとするならば、それ自体が消えてなくなることはない、というアナロジーでモノを考えることができるわけです。
但し、問題になりそうな点が2つあります。1つは、自由意思が選択の余地を意味し、責任と罪を担保する近代市民社会の大前提になっている点に関わる問題です。つまり自由だから責任が生じるとみんなが考えるケース。どの国の法律を見ても、選択の余地がない場合にはその責任と罪を問わないルールがあります。これがどうなるか。2つ目は集団による意思決定の時に、自由と責任はどうなるのかという問題。それについてはオリジナリティや知的財産権の問題が出てきます。誰がいつどこで決定したかに関する考え方次第で、その特許が誰のものか決まるかもしれません。ありがとうございました。


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