今回は知覚を巡るもっとも本質的な問題を理解していただこうと思っています。
「実在とは何か」「実在とは実在するのか」「実在と知覚との関係は」、これは翻って「心とは何か」に繋がるわけですが、そういう問いに興味があるわけです。そしてちょっと飛躍しますが、「超越的なものはいかにして人間に現れるのか」つまり、目の前に現前する以上のものがいかに表出してくるかという問いにも言及したいと思っています。
「出来るヒトほど、自分の目で見たものしか信じない」という言い方をよくします。これはもっとも即物的で現実的な態度という意味で使われることが多いのですが、しかし例えば「目を閉じたときに目の前のものはまだそこにあるのか」と問われたときに、目で見たものしか信用しないのならば、目を閉じた瞬間に消滅するということになりかねません。それは直観に反します。ヒトは常識的に、目に見える以上の存在を信じて暮らしているのです。このような分析から、ある超越的な指向性の存在がわかるわけです。


*1

センスデータ(*1)

 例えば視覚でいえば、瞳孔から入った光が網膜に作る像のことをセンスデータと言います。センスデータとは感覚のデータ、外界にある知覚された対象と区別して、あくまで網膜上にできる像を指すわけです。そもそも網膜像は上下左右反転で奥行きもありません。遠くのものは小さく近くのものは大きく映ります。極端に言えば、形すらもない光と色のパッチワークが与えられているだけです。これがセンスデータです。
 ところがセンスデータそれ自体、網膜上の上下左右反転している像そのものを、見ることは不可能です。あくまで私たちは外界にある対象物しか見られない。ですから、センスデータは知覚の根本にありながら構成された概念であり、知覚に実際に与えられているわけではないことがわかります。ここに知覚を巡る最初の謎があります。
 センスデータの概念は心理学における感覚と知覚の区別に関係している。感覚とはまさにセンスデータのことで、知覚の基礎にありながらそれ自体は知覚されません。一方知覚というのは、センスデータを元にして脳や心が働き、その原因になった物体を受容することなのです。


*2

アモーダル(*2)

 この図を見てください。真ん中の四角形は角のところはエッジが見えている。つなぎの部分は実際には見えない。でもわれわれには見えてしまう。それを主観的輪郭と言います。白い円上の目に見える部分はモーダルと呼ばれます。それに対して、見えてないと分かっていながらあると知覚されるつなぎの部分をアモーダルと呼ぶわけです。モーダルとアモーダルはあくまで知覚内部の区別です。


*3

 

クオリア(*3)

 知覚は感覚やセンスデータと違って直接経験されます。知覚現象の純粋な内容、独特な質のことをクオリアといいます。例えばこの2つの絵を見比べるとき、片方は色のクオリアを持っていて、もう一方は白黒のクオリアしか持たない。つまりフルカラーの知覚経験とモノクロの知覚経験を取り違えるヒトは、特殊なケースを別にすればいない。この違いが色のクオリアです。つまり、その取り違えを許さない独特の質がクオリアです。クオリアは主観的でプライベートで交換不可能、共通理解が成立するわけです。

 知覚経験はその起源から超越的です。目の前に見えている以上のことを志向する。その根拠は2つ。1つはアモーダル、もう1つはクオリア。実在や神を含む超越的なものの種は、日常の知覚経験の中にある。つまり、知覚はそもそも超越的な形で与えられています。
 私たちは知覚する。他人とモノとを直接経験している。これがそもそもの謎の出発点であり、科学にとって最後まで残された謎なのです。


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