私たちの知覚と快楽にとって、現代とはどういう時代なのでしょう。脳内のコミュニケーションと、世界のネットワークとが、その風景を根本的に変えつつあるように見えます。
そもそも、快楽はいったいどこから来るのか。快楽は、しばしば苦痛に似ています。それは、汲めば汲むほど乾いてゆく砂漠の井戸のように、満たされない渇仰となって、私たちを苦しめます。逆に、苦痛の反復が快楽を生むことも多いのです。マラソンランナーやジェットコースター、バンジージャンプなどのハイ、そしてドラッグ中毒のケースなどで、よく言われるように。
このように快楽は、感覚の苦痛や危険と、つながりを持っています。薬と毒。刺激と反復。新奇性と親近性。探索の衝動と習慣性。これらが折り重なって、快楽の地形を形づくるのです。
カエルにとって、動かないハエは見えません。死んだハエは、よいエサにはならないから。言い換えると、捕らえて食べられないものは、知覚世界の中に存在しません。同じように、昆虫にとって蜜のある花だけが、紫外線や偏光特性で光って見えます。また性的に飢餓状態にあるハトは「真空反応」といって、ケージの隅の何も無い空間に向かって、性行動を仕掛けます。この時ハトは何を「見ている」のでしょうか。
ヒトも、実は同じなのではないか。たとえば、性欲の対象になる皮膚の凹凸やエロティックな匂いは、欲望の充足につながっているから、あざやかに知覚されるのではないでしょうか。
ヒトも動物も見たいものだけを見、聞きたいことだけを聞く。つまり、欲望と行為が感覚を構成し、ひいては世界の実在を構成すると言えないでしょうか。
要するに、生物学的に利益をもたらすものだけが実在と快を構成する、という訳です。
ただし、この考えではどうにもうまく行かないケースがあります。たとえば、絵画や音楽を鑑賞する快。スポーツを観たり、実際に体を動かす快。こうしたケースでは、知覚や行動が食欲の充足にも性欲の充足にも直接つながらないし、むしろそれらを妨げるとさえ言えるのです。チンパンジーなども、報酬なしで知恵の輪やパズルを解くことが知られています。しかし、こうした「報酬なしの快」はヒトの場合に特に明らかです。
「生物学的な欲望充足に直接繋がるから、快は快なのだ」という、こうした伝統的な説明を「繋がりによる、外側からの説明」と呼びましょう。つまり役に立つものを連想させるから快なのだ、と。これに対して、見ること、聞く行為それ自体が快楽を生み出すという考え、つまり知覚の内側でする説明は可能でしょうか。
神経科学の新しい発見が、この内側でする説明を支持しています。それによれば、視覚の神経径路には快楽物質のレセプタが散らばっていて、しかもその濃度は、情報処理が先に進むほど濃くなってゆくというのです。私たちが日頃目をせわしなく動かしたり、テレビのチャンネルをザッピングしたり、雑誌をぱらぱらとめくったりするのは、快楽物質の分泌を最大にするためなのかも知れません。
通信やメディアなどIT技術の爆発的な発展が、私たちの知覚の原理とパースぺクティヴを根本的に変えました。ビデオカメラのアングルが、暗がりに隠れて見えなかった出来事を明るみに引き出す、つまり文字どおり「イリュミネート」します。つまり太陽光やランプに変わって、世界中が間接的に「照明される」という訳です。
このように、空間のパースが変ぼうする一方で、ビデオカメラやインターネットの同時双方向性が、時間の感覚をも変えてゆきます。ヒトとヒトとのコミュニケーションも事件の目撃も、瞬時にして実現され、使い捨てられ、そしてまた再構成されるようになったのです。
ポール・ヴィリリオが「瞬間の降臨」と呼んだものが、まさにこれです。いみじくも彼はこう言いました。「実在の主体と客体の損傷を与えて、光速度場が実在の場に降臨した」と。
このような知覚のグローバリゼーションの暗部を越えて、しかしその彼方にはスーパーリアル、スーパープレジャーの可能性が広がっているのです。たとえば、ユレシュのランダムドットステレオグラムの「超三次元」の中に、ミニマム音楽の反復の陶酔の中に、村上隆のスーパーフラットの中に、マジックマウンテンの絶叫の中に、そして傑作コマーシャルの激しい画面の動きの中に、すでに予告されているように。
快楽の「ツボ」がどこかにある。ヒトの身体の時空間的な設計のどこかに、ホットスポットが点在している。快楽の爆発をもたらすボタンをはじめて正しい順序で押すのは、果たして誰でしょう。


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