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下條 まずタナカさん、パフォーマンスに関する質問がいろいろ来ています。
タナカ 今回テレビモニターを積んでつかったのは、テレビ自体を一つの発光体として考えてみたわけです。舞台照明の代わりにもなったりするし、極端な言い方をすれば周波数の違いによって現れるモノであると。その発光体と生身の身体によるパフォーマンスや朗読、そして映し出される情報とで構成したわけです。それと普段のテレビでは放映されないようなモノとか、ここに来ないと見られないモノばかりを用意しようと。
 では、デモンストレーションについての解説を下條さんのほうから。
下條 そうですね。私の立場は、実在を考えるときに知覚を抜きには考えるわけにはいかないというものです。そのためにある・ないを知覚的に表現するための視覚エフェクトをタネとして投げ出したのがあのデモンストレーションです。例えばカモフラージュでは、運動によって生じる盲という現象によって、人体そのものを消す実験をしてみたわけです。ご覧になっていてどう見えたかはそれぞれだと思うのですが、例えばスクリーン前にいたダンサーが、映像の中に組み込まれているのか実際にいるのかがまず分からなかったと思うし、見ているうちに消えてしまったりもしたんじゃないかと思います。
デモンストレーションの話は長くなってしまうので、みなさんとの討論に移りましょう。まずはビデオレクチャーで登場していただいた市川先生から、直観に関するもう一つの興味深いレクチャーをしていただこうと思います。
市川 こんにちは、市川です。その前に直観と不確かさについて、今日のさまざまな演目に関連してひと言申し上げておきたいと思います。ビデオでお話したことは、数式そのものよりも考え方が大切だと思うんです。それは例えば、上からライトが降ってきたミラーボールのデモのときの感覚にも関係があるんです。あれを見ていて私たちは、自分が浮き上がっているような気になったりもします。そのとき、われわれが上に上がっているという仮説とわれわれは止まっていて光が上から降っているという仮説が成り立つわけです。そこで基準確率を考えないとわれわれが浮き上がっているとも考えたくなるんだけれど、部屋全体が浮き上がるなんていう基準確率はものすごく低いわけで、そうすると判断として光が降っているという判断が選ばれるわけです。
下條 そうですね、知覚は不確かさの元で判断しているんだと思います。
市川 では3囚人問題についてのレクチャーを手短に。3人の囚人ABCがいます。このうち2人は処刑されて1人だけ恩赦を受けることになりました。でも誰が恩赦になるかは分からない。囚人Aが恩赦される基準確率は1/4、Bも1/4、Cは1/2です。そしてAが看守に「BとCのどちらか処刑される囚人を教えてほしい」と言ったら、看守は「Bは処刑される」と答えた。その情報を得た上で、Aは自分が助かる確率をどれだけだと考えたらいいのでしょう、という問題です(*1)。
 Aが恩赦される基準確率は1/4です。でもBが処刑されるという情報を得たので、1/2に上がったと喜んだのですが、ベイズの定理に当てはめると数理的な解答は1/5。囚人Aが恩赦される確率は、なんと減ってしまっているんですね(*2)。ルーレット表現を見てもらうと納得してもらえると思います(*3)。こういうことも起きてしまうんです。
下條 数学的正解と直観が反したからどうだというんだ、所詮はヒトの心の中の問題だから違いが出ても驚かないよ、という反応に対してはどう答えますか?
市川 違いが出ること自体はいいんですよ。でもどっちが正解かということですね。ベイズの定理は空論ではなく、実験を繰り返したときの値と一致します。ただし大事なことは、値そのものより確率を求めるときの考え方なんです。
下條 市川さんと田中さんに質問が来ていて、基準確率の無視というよりもフォルスアラーム、つまりなかったことをあったことと報告する可能性の無視ではないか、という意見なんですが。
市川 人間は確率の判断と損得の判断をごっちゃにしやすいということだと思うんですね。やはり確率はあくまで確率として数理的に求めるべきだと思います。
下條 田中さんいかがですか?
田中 それにはちょうどいいサンプルがあって、イラク戦争において大量破壊兵器があるかないかという問題です。さっき下條先生のモーダルとアモーダルのお話を聞いていて思ったんですが、イラク戦争を運営したネオコンというのは見事なんですよ。大量破壊兵器があるという情報はリークでマスコミに流しているんです。だから見つからなくても法的には引っ掛からない。でもあるようにみんなが思う。この奇弁性をアメリカではみんなが使っている。
 じゃあどうしたらいいんだと考えたときに、サダム・フセインやキム・ジョンイルはいいやつか悪いやつかという2極論ではなくて、さっきの金沢先生の話とビッタリあってるんだけど、相手の、サダムの立場に立ってみるんですよ。そうすると悪いやつにも事情があるんです。でもアメリカ人は他者の心が分からない。キリスト教徒は中東イスラム教徒の信念に対する信念を持っていないんですよ。
下條 イラクへ行ってもそこはワシントンでイラクではないというお話を詳しく聞きたいという質問が来てます。
田中 イラク戦争はアメリカの能動的な戦争なんですよ。だからいくらイラクに行って彼らの大変さを分かっても、この戦争はアメリカが能動的に始めたものだから、根っこはイラクじゃなくてアメリカにある。イラクは受動的に侵略されて、ゲリラやテロで反発してる。でもアメリカからすれば、叩くべき敵が現れたわけだから素晴らしい兵器を使えるわけ。本質はあくまでアメリカの事情ということ。
下條 ネットワーク上でザッピングするコツを教えてください。
田中 僕はいつもおもしろいモノを探しているんです。最近、アメリカのメディアが復活してきていますね。泥沼化してはじめて、マスコミが立ち上がってこれたわけです。さっきリークの話をしたんですが、リークする側というのはされる側のことをよくわかっているんです。記者はリークされるだけだから金沢さんの言ったレベル1なんです。リークする側はレベル2、でマスコミというのはレベル3にならなくちゃいけない。
下條 金沢さん、今の話に絡んで何か。
金沢 僕はホントとウソに興味があって、ついつい虚っていうのはダメで、真実に近づくべきでって思っちゃうけど、それはどうなんだろうって。僕はある種のウソとかフィクションがあってはじめて成立する世界があって、そこからまた新しく何かが始まるというふうに思うんです。そういう意味で虚ってけっこうおもしろいって感じているんです。
下條 金沢さんのコミュニケーション論を伺いたいんだけど、「コミュニケーションというのは情報を伝達することなのか」という問いを立ててますよね。
金沢 あるとき檻ごしにチンパンジーが草を引っこ抜いて僕の方に差し出してきたわけです。で、僕はそれを受け取って、そこらの草を引き抜いてチンパンジーに差し出した。その繰り返しが何回か続いたときに、コイツは何らかの意図があるなと感じたわけです。これが僕のコミュニケーション観の原点です。つまり、コミュニケーションの基礎は、何かを伝えることじゃなくて、意図を持った存在であることを伝えることだと信じている。
下條 伝達意図が最初にあってやり取りをしているうちに、伝えたいことが後から出てくるとか、結果において何かが伝わっていくことがあると思うんですが、それは田中さんがおっしゃった根っこのない木に似ているような感じもあります。アメリカの戦争のやり方を見ていると、出だしの根っこはニセモノでも、幹や枝は本物になっちゃうという感じがある。
田中 今、アメリカの中でタカ派を追い落としたい人達は、あれがウソだったこれがウソだったって言い始めてます。要するに、幹を切り始めてるんです。で、マスコミもようやく気づいて、国民も気づきはじめて、ブッシュの支持率が下ってきてるわけです。
下條 今の話を無理矢理まとめるとこれはあってこれはないという分け方じゃすまない。これは実在でこれは空想という分け方じゃすまない。実在が構成されるまでにはいろんなことがあって、あるともないとも言えるような形で構成されているというようなことになりますね。
タナカ 僕はトレーニングの仕方に興味があります。クリエイターの世界でも見るトレーニングって大きいんですよ。
下條 「三つ子の魂百までというけれど、子どもの心は変わるのか」という質問もあるんですが、金沢さん、いかがですか。
金沢 子どもに関しては年齢に応じて経験を積んで変わると思います。
下條 トレーニングによっても?
金沢 ええ、もちろんありますね。
タナカ もうちょっと原理的に真実か真実じゃないかというか、最初から真実がないだろうと分かった上でもどこかで判断しなくちゃいけないことがあるのかな。
田中 真実は複雑で、一つではないということだと思うんですよ。金沢さんが「自分の心を知るためにまず、他者の心を知る」っておっしゃって僕はピンときたんですけど、日本人のアイデンティティを知ろうというときに、日本人が語る日本人論って何か齟齬を感じていたんですよ。アラブ人から日本人ってこうだろうって言われると頷けたりするんですね。それはまず他者を認知して、アメリカ人を認知して、アラブ人、中国人を認知してだんだん近づいてくると、日本人のことももっと分かるかもしれない。というのと、ブッシュの心とサダムの心を往復すること。行ったり来たりの訓練をすることで、複雑な真実を一つの丸いものにまとめていくことができるんじゃないか。
下條 話が合意の形成ということになってきたと思うんだけど、タナカさん、アートの世界においては、例えばCMのバージョンがいくつかあったときにどの作品がいいかという判断の合意の形成はどうやっておこるんですか? クリエイターの側だけで起こることなのか、受け手の側も入ってきて起こることなのか。
タナカ 多分、両方だと思いますね。それが両方でかつループしてる状態みたいな。でもそこで革新的に何かやったからといってヒット作品に繋がるかというとそんなことはないわけで、それが生成されていくと何かに気づいてという、最初考え方としては構築的にやっているんだけど、決定された後はリアクションによって生成されて育っていったり。それが転がっていくと変わっていったりもする。
下條 最後にひと言ずつお願いします。
タナカ 真実がないんだと右往左往せずに、そのことが当然のこととして、どの情報にも幻想をもたず、どう立てるか、身体に聞くって言うのもアリかな。
金沢 僕はやっぱり展開させていく、動かしたり触ったりということを考えていきたいなと思います。
田中 自分と他者に対して寛容になるのがいいんじゃないかと。選択肢を遺したままその次を考えることが騙されないための方法なのかなと。
市川 リアリティは確信度なんですよ。でもそれは相対的なものなので、すぐに白黒つけようとは思わないほうがいい。
下條 ホントかウソかと言ったときに、その極端などちらかというのはほとんど存在しなくて、中間がたくさんあるんだということに気づいてもらえたのじゃないかと思います。それは私が今日目指したポイントでもあります。長い間お付き合いいただきありがとうございました。


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