[ 第2部 集中討論 ]

金沢創  日本女子大学准教授、発達認知科学
川人光男  ATR脳情報研究所所長・ATRフェロー 工学博士
田中宇  tanakanews.com 主宰、ジャーナリスト・国際情勢解説者
タナカノリユキ  アーティスト・クリエイティブディレクター・アートディレクター・映像ディレクター
下條信輔
  カリフォルニア工科大学教授/知覚心理学・認知脳科学・認知発達学


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タナカノリユキ




下條信輔




田中宇




川人光男




金沢創




原発、カタストロフィ、想定外

■下條 今、見ていただいたのは、2005年第9回『カタストロフィ:破断点』でのパフォーマンスです。
■タナカ 少し説明すると、ステージ上には、皿とグラスをただ延々と積み上げていく人がいて、奥には自分の部屋のベッドでゴロゴロしている女性が一人。ベッドの横には爆発シーンが連続して写し出されているTVモニタがあって、そしてそこに、どう動くか予測不可能な犬が2匹いるわけです。皿とグラスに関しては、崩れるかどうかも自然任せというか、とにかくずっと積み上げてくれということでお願いしていたわけです。
■下條 犬に関してはまったくコントロールできてなくて、大変でしたよね。演出家としてタナカさん、何か補足することはありますか?
■タナカ 取るに足らない日常風景、特殊なモノは何もない形にしたんです。当たり前にやっていることだけれど、ちょっとしたことで、突然ものごとが崩壊するようにも想える緊張感を出したんです。特にステージに犬が出てきたときの恐怖というのはすごくてね。やはり自然は想定外の存在ですから。
■下條 それと、皿が崩れそうな切羽詰まった状況があるにも関わらず、奥ではのんべんだらりとペティキュアを塗っている女性がいる、ということですよね。そして彼女が見ているテレビでは爆発映像が繰り返されている。これは、3.11以降ではなくて、2005年につくられたモノなんです。
■タナカ 3.11以降、原発によって日本がコントロール不可になっていった部分があるけれど、実はこんな小さな会場に犬が紛れ込むだけで、大きな不安が生じるわけです。このことに関して下條さんと話してみたいのは、真偽やリアリティに対する判断を喪失してしまった部分。このような想定外をサヴァイヴしなければならなくなったとき、集団性のパニックは避けられないのか、喪失や停止が起きるのか、そのあたりを話したいですね。
■下條 人間が不確かなことに対して、どう反応するかということだと思うんです。科学者も不確かなこと、データがないものに対しては、ガイダンスがないわけです。
■タナカ あと、大きな声で正義だと言われると、それに追随してしまうようなことに対しても思考停止したりしますよね。
■下條 そうですね。そこで思考停止に陥るという危険性もあります。ここで、ちょっと時間を頂戴して、このテーマについて話をさせてもらいたいと思います。私は3.11以降、海外に住む研究者として何が出来るんじゃないかと思い、人間の認知機能の限界という立場から、この問題を分析してきたわけです。それをまとめたものです。
私が3月12日付けの原稿にすでに書いたことは(http://webronza.asahi.com)、「想定外」という言葉は欺瞞に満ちているということです。しかしより整理して言うと、以下の3つのことが言えると考えているのです。

●ブラックスワン。
●心理的リアリティと実体リアリティの乖離。
●後の祭りを科学せよ。

まずブラックスワンですが、最近、タレブという心理学者の書いた『ブラックスワン 不確実性とリスクの本質』が全米でベストセラーになりまして、そこでの定義は、巨大なインパクトがあること、極めて稀であること、ひと度起きるや
十分に予測できたと思えること、この3つなんですね。例えば、バブルの崩壊やテロリズムがそれに当たると言っています。つまりここで言いたいのは、想定外だという批判がいつ行われたかというと、3.11以降のいろいろな災害が起きた後に言われている点が問題だと思うわけです。
そして心理的リアリティと実体リアリティの乖離ですが、例えば相場です。実態経済から離れすぎると崩壊が起きるわけです。では、今回の原発の場合はどうか。もともと人間は損失、危険、不確実性の3つを回避する傾向があります。経済学のモデルから見ると不合理なくらい回避するわけです。例えば、50%の確率で100円もらえるのと100%の確率で50円もらえるという選択肢があると、期待値としては同じですが、ほとんどのヒトが50円のほうを選ぶ。しかしここで問題なのは、将来の危険に対する場合、心理的リアリティを実体リアリティから一層乖離させてしまう点です。なぜかというと、将来が遠くなればなるほど、ヒトは危険を過小評価するから。このリアリティの差異は危険を蓄積していくわけです。原発はもともと、廃棄物の処理などの問題が未解決のままあって、将来の危機を現在の利益に変えるビジネスと言えるわけですから。それを数値で示したのがこのグラフです。
この図では、ある一日のうちに大事故が起きる可能性を1万分の1に設定しています。図に示したポイントが意味するのは、40年間に1度大事故が起きる確率は80%ある、ということです。これはある程度、コンセンサスなんです。世界のレベル7の確率を見てもそんなものです。ただ、左側を見ていくと、10年の間に大事故が起きる確率が30%あるわけです。こういう実体リアリティを心理的リアリティとして理解した上で、原発を推進したり脱原発と言っているのか、なんですね。もう一つ、原発のリスクは先に行けば行くほど等比級数的に増えていく。それは廃棄物処理の問題が解決されていないから。今も除染していますが、ではその除染で出た汚染物はどう管理していくのか。しかし心理的な危機は未来に行けば行くほど過小評価されますから、その乖離は拡大していくわけです。
そして第3点。人間の認知の本質には後の祭り性があるということです。スポーツ選手に試合の朝、活躍できるかどうか
を聞いておいて、試合後に再度、今朝、どういう予感がしたかを聞く。そうすると、活躍した選手は朝から活躍する予感がしたと答えるし、ダメだった選手は朝から失敗しそうな気がしたと答えるわけです。その答えは朝の答えには矛盾しているのに、結果が出た後では結果に左右されてしまうわけです。それが人間の認知の後の祭り性という意味です。
まとめです。今回の原発が人災であることは多くの人が認めているわけです。では人災とは何か。人間が持っている認知的な限界とそれを補うはずの社会制度の欠陥であると整理できると思います。ただ現在、福島で起こっていることは、脱原発が正義で原発推進は悪という図式であり、脱原発のなかでは被害者競争みたいなものが始まっている。そこで思考停止にならずに、原発推進を批判する場合にも空回りしないように、人間の認知を踏まえた上で批判しなくてはならないということなんです。長くなってすみません。タナカさん、何かコメントいただけますか?
■タナカ その後の祭り性についてなんですが、それは同じヒトの使用前使用後で大きく違うということなわけですね?
■下條 そうです。この後の祭り性というのは、知覚においても社会的な認知においても、マイクロな時間スケールでもマクロでも、共通のメカニズムだと考えています。
■タナカ それは構造的にそうなっている?
■下條 はい。人間の大脳皮質の機能がそうなんですね。つまり、過去の出来事を未来の行動に役立つようにストックして
おくことが大脳皮質の役割なんです。
そのためには例えば、因果のストーリーに置き換えておく。そうすると検索しやすいし、予測もしやすくなるわけです。
■タナカ それは無理矢理因果に結びつけたりもするということですか?
■下條 そういうこともありますね。
■タナカ そのときの心理的リアリティはどうなるんですか?
■下條 それは当然、因果関係のストーリーのなかでつくったモノだけがリアルということになります。
■タナカ なるほどね。
■下條 で、じゃあお手上げなのかという話です。そこで思い出したのが、やはりこの『カタストロフィ』の回で北野宏明さんに「カタストロフィとラバストネス」をテーマにビデオインタビューをしたんですけれど、そこでは相当、先見性のある話をしていたんですね。北野さんは、想定外に対処するには多様性が必要であると言っていたわけですが、タナカさんいかがですか?
■タナカ ホントにビックリするくらい、先見性に溢れてますよね。ラバストネス、頑健性という観点から、社会システムや原発の話をすれば、わかりやすくなるような気がします。それを非常にざっくりした形で、想定外とか安全ですとか言われても、現実逃避や捏造感が否めないと思います。
■下條 そう。リスクがあるという点に関してはギブアップして、多様性でリスクの可能性に対処しようというわけです。
■タナカ 当事者はすぐ想定外と言うけれど、今回の事故も北野さんから見れば、想定内なのかもしれませんよね。
■下條 もう一つ、観点は違うんですが、原発の話とグローバリティの話はつながっていて、今回も情報公開が言われていましたが、政府や東電は隠そうとして、海外の情報に押される形で公開せざるを得なかったというのがある。その意味で、福島の原発事故を国際的なセンスで見るとどうなのかというのが気になっています。そこで、今日、ご来場いただいている、国際ジャーナリストの田中宇さんに登壇いただこうと思います。
■田中 今、聞いていて、とても痛いところを突かれてると思ってました。僕なんか、毎週のように後付けで「政府の陰謀だよ」とか書いてますから。後の祭りだらけですもん(笑)。
■下條 それは僕も一緒ですよ。今のテーマで、田中さんが思われたことを。
■田中 僕はNY TIMESの記事を読んで、早い段階からすっごい事故だって言っているし、これで原発は終わりだなと思いましたね。で、実際終わってるし、なぜ終わったのかを国際政治の文脈で考えたんです。
■下條 それはアメリカが原発技術を売り逃げしようとしてるということですか?
■田中 そうですね。もう一つは、地震以降、プロパガンダとか言うと袋だたきに遭いかねない状況が生まれていて、絆を持って日本人は一つになるんだみたいな雰囲気がある。国家というのは何が起きても自分に都合のいいように振る舞おうとするわけです。アメリカの衰退にあわせて弱いふりをしようとしていたときに、ちょうど地震と原発事故が起きた印象なんですよ。
■下條 なるほど。
■田中 それと先ほど下條さんも言っていたように、資本の論理では、リスクは後回しにしてできるだけ早く利益を得たいわけです。
■下條 ただヒトは損失とリスクと不確かさは回避するはずなんですよ。ところが原発という存在はその3つを見事に兼ね備えている。なのになぜ回避できないのか。
■田中 それはメディアや政治の動きが見えなくさせているんじゃないかな。
■タナカ 心理的リアリティで言うと、いかに自分たちが腑に落ちる因果関係で、みんな動いていたように思うんですが。
■下條 それについてひと言付け加えれば、心理的リアリティが共有されて、シェアードリアリティになったときに力を発揮するわけです。
■田中 僕は国際政治をウォッチしていて、心理的リアリティの他に本当のリアリティなんてあるのって印象。ホントのことを知ってるなら教えてよって思うんだけど、でも誰もわからない。例えば僕は、バブル崩壊は人為説なんですよ。ここ30年のアメリカではわざとバブルを起こして勝手に崩壊させてるようにしか思えないんです。
■タナカ そこにメディアがどんな役割を果たしているんでしょうね。
■田中 僕はメディアの意味をとろうとして詳細にウォッチしているわけですけれど、そうすると、ときどき同じ手口が使われることがあるわけです。そうするとこの手口の場合は、こういう方向に持って行こうとしてるのかなと類推することは出来る。メディアは国家によかれと思ってやっているんだろうけどね。
■下條 以前話したことで言えば、情動をトリガーするやりかたはそう何通りもあるわけじゃないんですよ。
■田中 そうでしたね。しかしみんなコロッとだまされちゃうんだよね。
■下條 日本の原子力行政、福島の今後について率直なご意見をいただけると。
■田中 僕は、推進派の人たちがもっと、例えば転がっても大丈夫な原発とかを提案すればいいと思ってるんですよ。アメリカでは開発されてるしね。でもそっちに行かないのは、もう終わりなんだろうと。
■下條 ああ、なるほど。
■田中 イギリスは上手だから売り抜けちゃったわけですよ。あとはフランスがどこまで粘るかだけど、フランスもやめると思うな。
■タナカ じゃあ、膨大な廃棄物に関しては、また新たなビジネスモデルが出てくる?
■田中 いや、原子力は忘却の産業だから、コストをかけられないと思うな。だって、これから2万年、廃棄物と共に生きていくんだというのは、プロパガンダにならないしね。それは酷いことになると思ってますよ。
■下條 非常な明快な物言いをありがとうございました。

クリエイティヴィティ、潜在過程、クオリア

■下條 ここはタナカさんにいろいろ話をしてもらおうと思っているんですが。
■タナカ はい。まず潜在過程について下條さんと話したいと思うんですが、潜在過程というのは「意識と無意識」のうち無意識の方と考えていいんですか?
■下條 はい。認知過程にも潜在的なものがあり、そのレベルでも情動との相互作用が知られてきているわけです。それも含めたモノとして、潜在過程と言っています。
■タナカ そうすると、情動は意識と無意識の両方に作用する?
■下條 そうですね。
■タナカ もう1点。情動は感情とは違う?
■下條 感情は心に特化した表現で、情動は生理的、身体的なことも含めた表現です。情動という氷山の海面に出ている部分を感情と呼ぶ、という理解でいいと思います。付け加えれば、情動は自動的に起きるものですから、コントロールしにくいと思います。
■タナカ では情動と記憶なんですが、例えば強烈に記憶に残るような強度と情動は関係しているんですか?
■下條 記憶と情動はメカニズムとして連絡が密ですから、関係も密接です。例えば、情動的にインパクトの強い出来事があると、その周辺のことまで鮮明に記憶されたりします。
■タナカ なるほどね。次にクリエイティヴィティなんですが、ここで言うクリエイティヴィティとはどういうものを指しているんでしょう?
■下條 ほとんど一般的な意味で使ってます。科学の発見も含まれるし、アーティストによる秀逸な作品もそうです。つまり、世間の人たちから独創的だと認知される発明や発見すべて、というイメージです。ですから、その再認感というのが大切だと思います。ただその再認は100年後であってもかまわない。
■タナカ なるほどね。
■下條 で、クリエイティヴィティと潜在過程なんですが、クリエイティヴィティは専門領域よりもむしろ、その周縁から来ることが非常に多いんですね。
■タナカ まさにその通りだと思います。以前話したことで言えば、親近性と新奇性というものがあって、新しいフォームをつくるという意味で、新奇性があるものはすべてクリエイティヴィティかなと理解しています。
■下條 今、親近性と新奇性が出たところで、またちょっとミニレクチャー的に、知覚と実在の関係についてお話ししたいと思います。これについてはタナカさんともう少し話したいと思っていたテーマでもあります。
「自分の目で見たモノしか信用しない」という即物的な言い方をするヒトが多いけれど、果たしてこれは即物的でしょうか。目を閉じたら、目の前のモノは消えてしまいますか? そんなことはないわけで、それを信じるのは単に「即感覚的」にすぎないわけです。ヒトは明らかにそれ以上の実在を前提に暮らしているわけです。直接感覚で与えられているものをセンスデータと呼ぶとすると、知覚はそれを超えています。つまり直接知覚されないものも、実は知覚されている。たとえば、網膜像はセンスデータと考えていい。がしかしわれわれは、左右上下反転したモノを知覚しているわけではなく、それを修正した奥行きのある世界として見ているわけです。
モーダルとアモーダルという概念があります。モーダルは物理学的に計測しても実在しているモノの知覚、アモーダルは実在しないけれども、知覚的に与えられているモノ。それを図で示すと以下の図のようになります。
モーダルとアモーダルは知覚内部での区別であり、知覚の内容は直接見えるモノと直接見えないけれど知覚的に与えられているモノに分節化しているわけです。
そしてクオリアという問題があります。これはルネッサンスジェネレーションで何度も出てきましたから、みなさん了解されていると思いますが、知覚は直接経験されるモノで、その知覚現象という経験の独特の「質」をクオリアと呼ぶわけです。例えばフルカラーの知覚経験とモノクロの知覚経験を取り違えることはありません。この独特の知覚の内容をクオリアと呼びます。
ここでアモーダルとクオリアをつなげて考えると、クオリアを潜在認知の文脈で捉えることが出来るのではないか、またアモーダルとクリエイティヴィティをつなげると、潜在認知から創造性がスピンアウトしてくる場面を理解できるのではないか、ということなんです。潜在的に知っていることも経験すれば再認感を伴うことが知られていますが、それは潜在的に知っていることでも顕在的に再体験され得ることを意味します。つまり独創的な発見にも再認感があるわけですから、潜在知を取り入れることで非常にわかりやすくなります。そして、潜在認知は顕在知よりも広い、ということもまた言えるわけです。
もう一つ、同じ文化のなかに暮らしていれば、潜在知はかなりの部分で共通であるはずです。その結果、独創的な発見の持つ再認感につながり、独創性が個人的なモノでありながら、社会性を持つことの証にもなるわけです。さらにもう一つ。独創的なひらめきは、ひらめきの方から勝手にやってくる感じがあるように思います。
以上のことから、アモーダルという知覚の概念を媒介させることで、潜在認知とクリエイティヴィティをつなげて考えることができ、かつクオリアも違う文脈で考えることが出来るわけです。タナカさん、いかがですか?
■タナカ 今、聞いていて、想定外とラバストネスによく似ているなと思ったんですよ。つまり、自分で何か新しいモノをつくろうとしているときには、必ずそこにある情報を斜に見たりするわけです。情報というのはすでに加工されたモノですから、それをただ見ていてもクリエイティヴィティは生み出さないわけです。そして、思わぬところからクリエイティヴがみえてきたときに、それを想定外としてではなく、もしくは既成概念を外して受け止めることが大切なのかなと思いましたね。
■下條 それはおもしろいな。全然気づいてませんでしたが、その通りかもしれませんね。

心体の未来?

■下條 ルネッサンスジェネレーションは14回やってきて、ぐるっと回ってまた未来身体の問題意識へと戻ってきた気がしているんですね。ただそれは未来心体なのかもしれません。で、ここでは、これまでタナカさんとの対論のなかでタナカさんが発言した、心と体の未来に関わる興味深い言葉を抜き書きしてきているので、それについてコメントをお願いします。まずこちら。
「僕がヴィジュアルをつくるときは、ロボットのようにルーツがわかりやすいものにはしたくない。植物的だったり、石に見えたりというような方向性で」
■タナカ それは何かというと、想定外にもつながるんだけれど、見るという行為からいかにいわゆる自分らしさを排除するかということなんですね。例えば自分が女性の目線になれるか。もっと具体的に28歳のOLになれるのか? といったことに近い。女性だけのスタッフでポートレイトの撮影をしたら、すごい引きで撮るわけ。で、なんで寄らないのって聞いたら、スタイルを見たいって言うんですよ。で、逆にイギリスのスタッフだけで引きの撮影をしようとしたときには、彼らはなぜか顔に寄っていくんですよ。誰だという所在が必要だって言うわけです。でも、こういう文化の違いだったり性差だったり年齢だったりを超越して、想像することはできるんじゃないか、人間の想像力はそこまで行けるんじゃないかと思うわけです。
■下條 知覚は常に意味を担っているけれど、意味を削ぎ落としてセンスデータににじり寄っていくような感覚かな。で、未来という話へと行きたいんですが、次のタナカさんの発言はこちらです。
「ヴァーチャルな世の中になってくると、ある種、身体の生理的な部分に還元するような訓練が必要だ」
■タナカ 僕は触覚とか空気感というのが気になっていて、目で触るみたいなこと。下條さんはどう思われますか?
■下條 それについては簡単なコメントしか出来ないけれど、五感を考えるときに、五感を並列に並べる考え方と、究極的には触覚なんだという考え方、つまり、触覚にはイリュージョンが少ない。視覚や聴覚は、最終的に触覚信号に辿り着くための手がかりなだけであるという考え方があると思うんです。今、ヴァーチャルリアリティのテクノロジーが進化した社会になっているけれど、その進み方を見ると、視覚や聴覚では進化しているけれど、触覚が遅れている。だけれども、情動という観点からすると、触覚が重要であることは自明なわけです。そうなると、後者の考え方が見直されてくるかなという気がします。
■タナカ ヒトの感覚というものがネットワークによって爆発的に拡大したわけじゃないですか。その感覚の速度に対して触覚的なトレーニングが追いついていない感じがするんです。見たり感じたりすることには、触覚的な経験からのフィードバックもあるのかなという気がします。
■下條 わかります。見ることを修練したヒトは見るときに他の感覚も惹起されていると思うんですよ。でも訓練されていないヒトは見ることが見ることで終わっている、そんな印象があります。で、そろそろ最後のテーマに行きたいんですが、デジタルやロボットといったテクノロジーによって身体を改造していく、そのときに、今言われた感覚的なセンス、アーティスティックなモノも含めて生活の実感はどうなっていくと思いますか?直感的で結構です。
■タナカ 自分たちが楽しむ部分がどんどん広がると思うんです。ただ、大きなところではあまり変化していないように感じて、見えないところで変わっていっていくのかなという気はします。未来身体というと、昔は形が変わるようなイメージがあったんですけど、形じゃないのかなという感じですね。
■下條 身体が心理的な構成物だとすると、それが変わることで意志決定も変わる可能性もある気がします。こういう話題になったところで、もう一方、ご登壇をお願いしたいと思います。川人光男さん、よろしくお願いします。川人さんはブレイン・マシン・インターフェイス(BMI)などの研究をされているわけですが、この10年来の変化についてお話しください。
■川人 ブレイン・マシン・インターフェイスの究極の姿というのは、脳の中からいろいろな信号を取り出して、解読し、それをヒト型ロボットに入れて、ヒト型ロボットがいろいろな動きを経験して、その感覚信号がヒト型ロボットを介して、脳に戻ってくる、そういう姿を実現するものです。これは、心と体の未来の夢物語のように聞こえるかもしれませんが、実はすでにかなりの部分が実現していて、例えば人工内耳や人工網膜は視覚や聴覚を脳に戻す装置と言えます。
私たちが、2008年に行ったデモンストレーションですが、アメリカの東海岸にベルトコンベアの上を歩いているサルがいて、そのサルの大脳皮質の運動野の100個ぐらいのニューロンから信号を取ってきて、サルの動きをデコーディング、つまり解読をして、その情報をインターネットで京都にあるわれわれのラボにあるヒト型ロボットに与えて、ロボットを歩かせて、その姿をビデオに撮ってサルに見せてやるわけです。するとわずか10分ほどでサルの脳が変わってしまうんです。もともとサルは二足歩行ではありませんから、歩きたがらないんですね。しかし、自分の指令でロボットが歩いているのを見せると、けっこう喜んで歩くんです。その状態でビデオを止めると、サルはつまらなくなって立ち止まるわけです。でも、運動野のニューロンは信号を止めないんです。これを過剰解釈してしまえば、ロボットという第二の身体を持ったことで、自分が歩かなくても想像することで脳から指令を送り、第二の身体を動かすことが出来たと考えることができます。
■下條 身体の拡張に成功したと。
■川人 そうですね。そのデモンストレーション以降も技術は進化していますので、将来の可能性は大きくなっています。
■下條 今のお話は、体が心の基盤になっているという解釈も出来るわけで、違う体を持つことで脳が変化していくところがおもしろいと思うんだけど、
タナカさんはどうですか?
■タナカ ぼくがちょっと思うのは、身体性が介在せずに脳の信号だけでっていうのはどうなんだろうってことなんですけど。
■川人 そういう実例はすでにあって、アメリカなんですが、脊椎損傷で首から下がまったく動かない患者さんの大脳皮質に電極を埋め込んで、例えば義肢を動かせるようにする。そうすると、心も元気になるんですね。
■タナカ そうなると、脳は体を完璧にコントロールできるんですかね。
■川人 どうでしょうか、たしかに今の段階ではクリエイティヴィティにつながるとまでは言い切れませんね。
■下條 人間の自由意志はどの場所にあるのかという問いがあるんですが、BMIを使って行為の意志決定ができるようになったとき、それが機械による作動ではなく、自律的な意志決定であると呼べるのかを伺いたい。
■川人 自律的な意思決定って、本当に存在するのでしょうか。私たちは今、デコーディッド・ニューラルフィードバックという方法で情報を解読し、脳の中の時空間パターンを変化させるということに成功しています。クリエイティヴィティが脳の中の時空間パターンから生まれてくるとするなら、本人は自分の意志である作品を作り出したと思っているけれど、その裏で私たちはこのフィードバックの操作で生み出したんだと言えれば、クリエイティヴィティを科学的に理解できたということになるのではないかと考えています。
■下條 ありがとうございました。この話題は4つめのテーマにつながっているわけです。

デジタルアートの見果てぬ夢

■下條 ここではまず、金沢創さんにご登壇いただきましょう。霊長類学において、心と体の関係はどのように見ているのか、世の中のヒトとの違いを知りたいんです。
■金沢 僕はサルや赤ちゃんを見ているわけですが、言葉のない世界というのがまずあります。今日の話で、潜在認知から顕在知へと移していくプロセスがありましたが、僕らは今、あえて潜在領域に立つ必要があるのかなと思うわけです。
■下條 文明には、全部顕在化させて制御しようとする文明と暗黙知を信じる文明の2種類があると思うんです。日本の伝統文化は暗黙知のほうなんですね。それがある時点から、顕在化させるほうに変わってきたんじゃないかと思うわけです。で、われわれはどうしたいいんでしょうね?
■金沢 とにかく、この不透明で居心地の悪い場所に立ち続けるのは大切だろうと。
■タナカ 今って資本論理になってるじゃないですか。そうすると、認知の限界と同様に資本論理の限界もあるのかなという不快さもあると思うんです。そういう意味では、不快さはますます広がっているように思います。
■下條 金沢さんに20年後はどうなっているのかという不可能な問いをうかがいたい。
■金沢 心の領域は拡大していくんじゃないかと思いますし、拡大させたいと思いますね。
■下條 金沢さん、ありがとうございました。ではタナカさん、最後にクリエイティヴィティとは何か、をお願いします。
■タナカ クリエイティヴィティをどう捉えるかが大切だと思うんです。ヒトが何かを形つくる行為はすべてクリエイティヴィティだと思うんですが、その中で超越的にプロとして携わっているクリエイティヴィティとは分けて考える必要があるかなと思います。
■下條 実は、岩井俊雄さんとの対論のなかで、タナカさんは「○一つ描いただけでもタナカノリユキらしいと言わせたい」と言っているんですよ。それはらしさの問題。
■タナカ そうですね。オリジナリティがどうやって介在するかという問題だと思います。僕は、ある種のニオイとか温もりとかその人が纏っている空気感とかにオリジナリティは隠されているんじゃないかという気がします。表現方法よりも目に見えない感じですね。下條さんはどうですか?
■下條 僕も「らしい論文ですね」と言われることがあって、それを誉め言葉だと受け取ってるんですね。サイエンスの場合は発想からデザインまでにオリジナリティが出る。
■タナカ もう一つ、ヒトに認知されないとクリエイティヴィティと呼ばれないという側面があると思います。つまり、新奇性と親近性の両方が必要になってくるわけです。
■下條 人々の潜在認知における親近性と顕在レベルでの新奇性、これを刺激したときにヒットするような気がしています。さてそろそろ終演なんですが、最後に。実はタナカさんに声をかけられて始めたルネッサンスジェネレーションなんですが、途中からサイエンスに偏っていったかなという印象を持っていたんです。ですが最近、ルネッサンスジェネレーションの試み自体が相当に現代アート的な試みだというふうに思えてきたんです。
■タナカ やっと気づいてくれましたか(笑)。僕はヒトが何か気づくとか、見方が変わったとか、もっと言うと、価値の変革といったことなど、そういうものを生み出すためには、プロの研究者とガチンコでやるというのはアリかなと思って始めたんですけどね。
■下條 タナカノリユキを前にして僭越至極なんだけど、自分なりの現代アートの定義を考えてみたんです。それは、現代のオトナがやることのなかで、犯罪でなく、商売でもなく、テーマを決めてしつこくシステマティックにやっていて、強いて言えば子どもの遊びに近いが遊びとしても認知されていない、それを現代アートと呼ぶと。ふざけているように聞こえるけれど、タナカノリユキと15年間付き合った実感がこれなんです。ただそこに、まだ意味づけられる前のモノ、生の原型の感覚とかが詰まっていて、それがおもしろいんだということに気づけたわけです。
■タナカ その意味で、このルネッサンスジェネレーションは、非常に現代アート的だったと思っています。
■下條 毎回のことですが、そうこうするうちにだいぶ終了時間も超過してしまっています。そろそろ閉会にしないといけないのですが、タナカノリユキも
私も湿っぽいことは苦手な方でして、
ひと言ずつ話して幕引きにしたいと思います。ではタナカさんのほうから。
■タナカ このルネッサンスジェネレーションは、毎回社会とアクチュアルにコミットするテーマを設定してきたつもりですが、そのベースにあったのはやはり、僕と下條さんの純粋な疑問や興味だったと思います。そんなわがままなイベントを主催してくれた金沢工業大学には心から感謝しています。 ありがとうございました。そして協賛各社をはじめ、スタッフ、関係者、そして何より毎回客席を満杯にしてくれた聴衆のみなさんにお礼を申し上げた いと思います。ありがとうございます。
■下條 そうですね。金沢工業大学は金は出すけど余計な口は挟まないという最高のスポンサーでした。また、総合プロデュースの二飯田憲蔵さんと赤羽良剛さんには、毎回僕らが持ち込む無理難題を快く引き受けてくださいました。ありがとうございました。私にとってはこのルネッサンスジェネレー ションで取り上げたテーマが自分の研究に還ってくる部分がとても大きくて、その意味でもとてもありがたいイベントでした。タナカさんと年に1回会えるのも楽しみでした。そして、ファイナルと銘打った今回おいでいただいている皆さんはリピーターの方がかなりいらっしゃると思います。そういう 方々によってこのルネッサンスジェネレーションは支えられてきたと思います。心から感謝いたします。本当に長い間、ありがとうございました。
■タナカ ありがとうございました。


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