植物=雑種についての研究
1866年
グレゴール・ヨハン・メンデル(1822-1884)
 ハイゼンドルフ(現在チェコスロヴァキア)の貧しい農家の長男だったメンデルは、小学生の頃から成績優秀で、このため、校長や教区司祭が彼を上級学校へやる様、父親を説得してくれたおかげで、中学校、高等学校へと進むことが出来ました。1840年には、大学へ入る準備として、オルミュッツ大学の哲学科コースへ入りましたが、1838年に父親が倒れてからは、彼の生家の農場は義兄が切り盛りしていた事もあって、経済的に苦労し、その為病気になりましたが、妹の援助でようやくこのコースを終えました。この間哲学のみならず物理学、数学の基礎を学びましたが、とりわけ、ここで学んだ組合せ理論は後年彼の研究に大変役立つことになります。1843年、彼に物理学を教えた教授フランツの推薦によって彼はブリュンにあるアウグスチヌス派の修道院に入りました。彼は別に宗教的な情熱からそうしたのではなく、正に生活の必要上からそうしたのですが、ここで彼はようやく経済的な心配なしに彼の勉強を続けられることになったのでした。
 当時の修道院はまだ中世的伝統を多く残しており、その地方の学術研究のセンターでしたし、修道士の多くは近くの高等学校や、哲学研究所の教員をしていたのです。当時の院長ナップは後にモラヴィア農業学会の会長もつとめた農業改革の研究を熱心に続けた人で、修道院の庭に実験農園を持っていました。この実験農園を管理し、院長の提示で作物改良の実験を行っていたクラーセルは、メンデルに科学研究の手ほどきをし、かつ、後にメンデルに農園の管理を任せる様になりました。メンデルは神学の勉強を続ける傍ら、院長の研究に共感を覚え、哲学研究所の農芸コースに出席し、植物改良、羊の育種等について学びました。
 彼は教区教会における病院付牧師に任命されましたが、繊細な神経の持ち主だったので、患者の苦痛を直視するに耐えられず、ノイローゼ寸前になり、同情した院長は彼を中学校の補助教員にしたのです。教員としての彼は評判が良かったので、修道院は彼に試験を受けさせて、自然科学の正式な牧師にすることにし、試験を受けさせましたが、出来る学科と出来ない学科の差が甚しく、彼は見事に落ちてしまいました。この差は彼に正式の大学専門教育が欠けている為と判断した修道院は、彼をウィーンに送って勉強させる事にしました。ウィーンでメンデルは様々な学科を修めましたが、とりわけエッチングハウゼンの組合せ理論、ウンガーの植物実験学、そしてゲルトナーの 700種類もの植物雑種から純粋種を分離する1万近くの実験をのべた書物に影響を受けました。
 1854年、ブリュンに戻ったメンデルはブリュン実科中学の物理学、自然学担当の補助教員となり、1856年からエンドウを修道院の実験農園にまいて、この有名な研究を始めたのでした。
 実験は8年間続き、彼はその結果を1856年、ブリュン博物学会で発表しそれが1866年に会誌に載ったのです。これが本書ですが、この論文に於いてメンデルは遺伝に関する「メンデルの法則」を確立しました。
これは例えば、赤花をつける純系のエンドウと白花をつける純系のエンドウを掛け合わせると、
  • 第一代雑種は総て赤か白かどちらかになる。 一 雑種一様の法則
  • 第一代雑種が赤になるか、白になるかは、どちらが優性の形質かで決まるが、劣性の形質は、表面に出ないだけで保持されている。 一 優性の法則
    この場合、優性を赤とすると
  • 第一代雑種をかけ合わせると、第二代雑種の1/4は優性(赤)の純系、他の1/4は劣性(白)の純系で残り(全体の1/2)は第一雑種と同じ(赤)である。 一 定分離の法則
  • 複数の形質のある場合でも、総ての形質は他の形質と独立に(つまり表面には出ないが消滅しない)メンデル遺伝する。
という結果が得られ、この形質の組合せ法則は不変である事を示したのです。
 この発見は単に植物改良技術のみならず、遺伝学から現在の遺伝子工学に至る発展の途を拓いたのでした。またこの結果はダーヴィンの進化論にとっても大きな支えになるものだったのですが、当時の指導的植物学者には、その数学的処理処法のせいもあって(概して当時の植物学者や動物学者は数学に暗かったのです)この論文の成果は無視されてしまいました。評価されたのはやっと1900年になって、ド・フリースがこの成果を発掘してからだったのです。メンデルはこの成果を誰も取り合ってくれなかったので嫌気がさし、研究をやめ、ブリュン修道院長として一生を終えたのでした。メンデルの家系は彼以前に代々多くの庭師を出していますから彼の植物に対する関心も「遺伝」によるものだったかも知れません。"