力の保存について
1847年
ヘルマン・ルードヴィヒ・フェルディナンド・フォン・ヘルムホルツ(1821-1894)
 ヘルムホルツは、最初ベルリンのフリードリヒ・ウィルヘルム大学で医学を学び、1842年にポツダムで軍医をしていましたが、1848年に辞め、解剖学博物館(ベルリン)の助手となって研究生活に入りました。後、ケーニヒスベルク大学、ボン大学、ハイデルベルグ大学、ベルリン大学等の教授を歴任して後、シャルロッテンブルク物理技術研究所(ベルリン)の所長をつとめました。彼は生理学研究とともに、物理学にも関心を抱き、数理物理学を研究し、双方の分野で大きな業績を挙げています。例えば生理学の分野では、目や耳の研究をし、1851年には検眼鏡を発明して眼球内部を調べる事を可能にし、また角膜計を発明して、水晶体の曲率の計測を可能としています。更に、耳の構造を調べ、渦牛殻がどの様に異なった周波数に反応するかを調べ、また複雑な音の複合を調和的音の要素に解析する試みを行いました。1850年と1867年にこの音の知覚に関する本と視覚生理学のハンドブックを著しています。彼の興味を持った生理学的問題のひとつは、筋肉運動と体温(熱)との関係で、この研究が、本書に於けるエネルギー保存則の確立に結び付いたのです。
 エネルギー保存の法則は既に1842年ローベルト・マイヤーによって初めて報告されていましたが、その研究はいくぶんあいまいなものだったので一般に認められていませんでした。ヘルムホルツはマイヤーの研究とは独立に質量保存則を定式化し、1847年この書物として報告したのです。彼は最初、この研究を代表的な科学雑誌に投稿しましたが受理されなかったので、これをパンフレットとしてごく少量出版するしかありませんでした。このパンフレットは現在きわめて貴重なものとなっています。
 ヘルムホルツは本書において永久運動が不可能であることを示し、落下物体のエネルギーを研究しています。そして、エネルギーと力を初めて二つの部類に区別しました。すなわち運動のエネルギーと位置のエネルギー、能動的な力と潜在的な力です。運動のエネルギーの増加は位置のエネルギーの減少に対応していることを測定し、運動のエネルギーは静止しているときに物体がなし得る仕事量に等しいと結論しました。この概念を更に遠心力、弾性体の運動、液体の運動、熱および電磁エネルギーの仕事当量、さらには最初のもくろみ通り筋肉の生理学的力にまで拡張したのです。最終的にヘルムホルツは閉鎖系においては全エネルギーの量は量的に不変であるが、エネルギーの形体としては機械エネルギー、熱エネルギー、電気エネルギー、光エネルギー、化学エネルギーのどの形に変化することが出来るという彼自身のエネルギー保存則を厳密に式にあらわしたのです。