物体を照明し、加熱するスペクトルの各色の作用の研究
1800年
フレデリック・ウィリアム・ハーシェル(1738-1822)
 ハーシェルは元々ドイツ人で、彼の父と同様、ハノーファー候国の近衛連隊音楽隊のオーボエ奏者でした。ライプニッツが仕えたハノーファー選挙候がイギリス国王ジョージI世となって以来、ハノーファーは英国王の領地(しかし、英国領ではありませんでした)だったので、彼は1757年、七年戦争で荒れるドイツを去って、イギリスに移住することにしました。こうしてヴィルヘルム・ヘルシェルはウィリアム・ハーシェルとなったのです。彼は初め、フリーの音楽家として働き、1767年には、温泉地のバス教会のオルガン奏者に任命され、1772年には妹カロリーネを呼びよせて、共に暮らしました。この兄妹は共に天文学に興味をもっており、ハーシェルは優れたレンズ磨きの技術を持っていた妹(彼女は最初の女性天文学者です)の協力を得て、優れた望遠鏡を造り、観測を始めました。一方彼は音楽理論の研究から数学にも興味を持って研究しており、これは天文学者として出発するのに非常に役立ったのです。
 1774年以降、彼は組織的に天体を観測し、1781年には歴史上初の新惑星の発見、天王星の発見を成し遂げたのでした。この発見は一躍彼を有名にし、自身も天文学と時計製作に非常な興味を持っていたジョージIII世の目にとまり、王はハーシェルを国王付の天文学者として登用し、資金を出して大きな望遠鏡を作らせ、またその維持と改良にあたらせたのです。彼はこの優れた観測設備を用いて研究し、メシエの作った星雲の数 100から成るリストに2000以上を付け加え、800 もの二重星のカタログを作り、また、天王星や土星の衛星も発見しました。こうして、彼は当代随一の天文学者となったのですが、単に観測ばかりにとまらず、銀河系宇宙の構造的研究、二重星の天体力学的研究など、理論的研究も行いました。
 また、彼は光学器械製作者として、レンズやプリズムの機能改善の研究-例えば色収差の問題-も行い、その過程でプリズムによって生ずる太陽スペクトルに関心を持ち、その「虹」の各色が色によって加熱作用が異なる事に気付きました。これを詳しく調べて、本論文として発表したのです。この論文中で彼は、各色の加熱作用が青側より赤側の方が大きく、かつ最も加熱される部分は赤の領域の外にあり、従って目に見えない光線がそこを照らしているものと結論しました。つまり、彼は赤外線を発見したのです。同時に彼はスペクトル分析に道を開き、ウラストンやトールボットと共に、白熱した物質は特定のスペクトル線を出し、従って、スペクトルを観測すれば、それらの線から特定物質の存在を結論する事ができるということを明らかにしたのです。この研究は、後にフラウンホーファーを経て、キルヒホフ、ブンゼン等によって進められ、スペクトル分析が確立されました。ハーシェルはまた、後に蛍光(ルミネッセンス)の研究にも手をそめ、1845年に硫酸キニンのルミネッセンスを発見しています。彼の息子、ジョン・ハーシェルも優秀な天文学者となり、(写真を初めて天文観測に応用した人です)父の残した結果に多くのものを付け加えています。