大著作
1733年
ロジャー・ベーコン(c. 1214-1294)
 R.ベーコンはイギリス生まれのフランシスコ派の修道士で、オクスフォード大学でアリストテレスの自然学及び数学を学び、更にパリ大学にも学びました。1240年代には、パリ大学で講義もしています。恐らくこの時にペトルス・ペリグリヌスに、ペリグリヌスの磁石研究や自然学研究に於ける実験の重要さについて教わったと思われます。1247年に彼はオクスフォード大学に戻り、そこでグローステストに師事し、光学に興味を持つに至りました。1251年にはオクフォード大学教授となり、1257年にフランシスコ派に入会します。修道士として、哲学や神学、また法学も研究し、更に医学も研究し、加えてアリストテレス、ユークリッド、アルキメデス他の業績を直接原典で研究する為、ギリシア語、ヘブライ語等を学び、言語学者としての研究を行い、ヨーロッパ最初のヘブライ語文典、ギリシア語文典を作っています。彼もまた、文化史上にあらわれる「万能の人、ホモ・ウニヴェルザリス」の一人で、その博識に当時の人は彼を「驚異博士、ドクトル・ミラヴィリス」と呼んだ程でした。
 彼は、実験的方法が自然学研究には不可欠で、本質的であることを確信しており、実験の結果と従来の伝統的、アリストテレス的考え方とが合わない場合は、容赦なく伝統的考え方を批判し、攻撃したので、徐々にフランシスコ派内部に多くの敵を作って行く事になりました。例えば、ドミンゴ派の修道士で「全科博士、ドクトル・ウニヴェルザリス」と呼ばれた、中世スコラ哲学の巨人、アルベルトウス・マグヌスさえもベーコンによって、簡単に「無知な男」とひとことで片付けられています。この為フランシスコ派の実力者で、やはり優れた科学者、哲学者であったボナヴェントゥラ-彼はベーコンの行動ばかりでなく、ベーコンの信じていた錬金術と占星術を嫌っていたので-の非難を受け、また彼の方でも当時の宗教界を激越な調子で非難した「哲学研究の適用」という論文を書いて非難に応じたので、ついに 1277-79年頃パリで投獄され(直接の嫌疑ははっきりしませんが)死の直前まで幽閉されてしまったのです。
 彼の評判が教団内部で悪化している頃、彼と親しかった枢機卿が法王クレメンス四世となり、1266年に彼の研究著作を送ってくれる様に依頼をよこしました。彼は当時4巻から成る主著を計画しており、それは学問の全分野を扱う予定でしたが、急ぎ予定を変更して、1267年本書をまとめ、これを少し膨大すぎると考えて、その要約「小著作、Opus minus」をつくり、両者を1268年に送り、更に追いかけて「第三著作、Opus tertium」を送りました。彼としては法王の後援を得て、もっと自由に強力に研究を進めたかったのですが、不運な事にクレメンス四世はその年の11月に亡くなり、その後はなしのつぶてになってしまったのでした。
 この「大著作」は元来七部から成っていたのですが、本書は第六部までが収められています。第七部まで入れた版は、オックスフォードで1897年に出されました。本書の、第一部では、真実の追求を誤らす四つの原因をあげ、アリストテレス等の既成の権威によりかかること、習慣からくる先入観に固執すること、大衆の意見におもねること、見せかけの知識をふりかざして自分の無知をかくすこと等を挙げています。確かにその通りなのですが、当時のスコラ哲学者へのあてこすりが含まれている事は明白です。第二部は、神学と哲学について、第三部は正確に原典を読み、訳すための言語研究、第四部は数学で、自然学がその命題を数学的形式(彼の場合は幾何学ですが)で表現出来なければ完全ではないと主張しています。第五部は光学でここで彼はグローステスト、アルハゼン、プトレマイオスとユークリッドの業績をもとに、レンズの光学、特にその像の拡大作用-めがね-光の屈折に基づいて研究しています。また彼は凹面鏡についても述べ、顕微鏡や望遠鏡の発明を予測する様な文章を書いています。第六部では、科学研究に於ける実験の重要性について述べ、その様な方法を用いることによって-現在の飛行機、自動車、汽船、潜水艦の様な機械を作ることができるであろうと述べています。勿論、これは彼の非凡な想像力を示すものに止まりますが、しかし、科学研究は実験によって行われ、数学的に演練されるべき、という考え方は驚くべき近代性で、この意味では彼は優に5世紀は進んでいたと言えるでしょう。しかし、残念なことに、彼の著作は印刷術発明以後も、部分的に出版されたのみで、彼の主著は本書が最初の出版です。従って、長期にわたって彼の真価は無視されて来たのでした。