微細物誌
1665年
ロバート・フック(1635-1703)
 フックは弾性力学における「フックの法則」-弾性限界内では、弾性体に加えられた力と歪み(伸び、ちぢみ)の量は比例するという法則、今日の構造力学の基本原理のひとつを発見した事で有名な人ですが、彼は才能と共に手先の器用さにも恵まれ、17世紀最大の実験科学者と言われ、新型気圧計、反射望遠鏡その他重要な科学器具を考察、改良、製作しました。
 彼は貧乏だったので、彼の優れた工作技術を評価したロバート・ボイルのすすめにより、ボイルの有給助手として彼の研究のキャリアを始めました。ボイルの命によって、ゲーリケが考案した真空ポンプを改良したポンプを製作し、ボイルはこれによって真空及び空気に関する物理実験をフックの助けにより進め、「ボイルの法則」-圧縮力と圧縮された空気の体積は反比例するという法則を発見したのです。1662年にボイルは、フックの為に当時のイギリスの自然科学の最も権威のある学会であった王立協会の実験管理者の職を世話してやりました。その後彼は協会の事務局長になり、その職を退いてからも生涯協会の職員として止まったのです。実験管理者としては、彼は素晴しく有能であり、週に何回か行われる協会での様々な科学者の実験の為の準備や、器具の製作に忙殺され、この多忙が彼が自分のさまざまな新しい研究アイデアを徹底して研究する暇を与えず、研究が表面的に終ったものが多かったのは不幸なことでした。例えば、フックはひげぜんまいの振動の周期性(フックの法則の応用)を発見し、これを時計に応用するアイデアを得ましたが、実際にそれを造ることは、ホイヘンスが同様の時計を1674年に実際に製作した後になるまで行いませんでしたし、光の波動性を見出しながら、ホイヘンスがやったようにそれを定式化することは出来ませんでした。また万有引力の概念もニュートンより先に着想しながら、ニュートンの様に精密に理論化する事は出来なかったのです。
 フックはまた、攻撃的で他人の業績にケチをつけて論争をいどむことの好きな嫌な性格の男で、王立協会の有力職員という権威を傘に着て、自分の論敵をこっぴどく攻撃しました。彼に言わせれば、ホイヘンスは時計のアイデアや光の理論を、ニュートンも光の理論及び万有引力理論を彼から盗んだということなので、その両者を激しく攻撃し、ニュートンなどは、すっかり嫌気がさして、彼の光学理論の書物の出版を30年も遅らせた程でした。
 フックはマルピーギ等によって始められた顕微鏡による植物の観察に興味を持ち、複合顕微鏡を考察、製作して種々の観察を行い、その結果を本書にまとめ1665年に出版しました。顕微鏡下にあらわれた驚くべきミクロの世界を、フック自身の手になる精密で迫力に満ちた大版のエッチング(銅板画)-彼の絵画の才能も並々ならぬものだった事を示しています-によって示したこの本は、顕微鏡を決定的に重要な科学器械となし、それによる新しい科学探求の分野を切り開いたのでした。この意味で、この本は望遠鏡に於けるガリレオの「星界の報告」に匹敵する顕微鏡の本となったのです。彼は鉱物、植物、昆虫等を観察し、特に顕微鏡が生物学に於いてどれ程有用かを示したのでした。例えば彼は、コルクの細片を観察し、それが多数の空洞から成る事を発見し、その空洞をセル(小部屋)つまり細胞と名付けています。また昆虫の目が複眼である事も述べています。本書はその他、顕微鏡の光学理論を述べ、それに関連して光の波動性、光の回折現象等を記述しており、前に述べた様にその理論化は不充分でしたが、その発見はホイヘンス、ニュートン等、後の人々の光学研究に大きな影響を与えたのでした。
 彼はまた、ロンドン大火の後にロンドン復興計画の責任者のひとりに任命され、親友であった建築家クリストファー・レン-レンは、本書のエッチング幾枚かを担当してと言われています-と協力して復興にあたり、彼自身も王立医学校など幾つかの建築を設計し、建築家としても仲々の手腕を見せています。